第2話 ファヴニルという悪魔
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「アハハハハハッ! そのかお最ッ高ッ! ぐしゃぐしゃで鼻水まで垂らしちゃって♪ ねえ、キミ、人を殺したのは初めて? 今どんな気持ち、どんな気持ち?」
涙でゆがんだ視界の中で、先ほどファヴニルと名乗った悪魔がケラケラと笑っている。
悪趣味な質問に答える義理はなく、クロードの心と体は激情で燃えるようだった。
叶うならば、眼前の悪魔の顔なんてもう一瞬もみたくなかったし、言葉もかわしたくなかった。
「でも、つまらないなあ。たいていのニンゲンはショックで壊れちゃうから、ここまで生きてるのは珍しいのに」
――しかし、まるで飽きたオモチャを投げ出すように、ファヴニルが
「踏むな」
瞬間、凍りつくような気配がクロードを圧倒した。どうやら地雷を踏んだらしい。
ファヴニルの頬が、怒りでゆっくりと紅く染まってゆく。
「聞こえないよ。今、なんて言ったのかな?」
クロードは、緊張と恐怖で内心震えながら言葉を続けた。
生きるためには、地雷を解体しなければならない。
「あ、足をどけろと言った」
「キミさ、わかってる。さっきの炎、見えなかった? ボク、キミのことなんて簡単に殺せちゃうよ? 謝らなきゃ、ね。ニンゲンの世界じゃ、悪いことしたらゴメンナサイするんでしょ? ほら、そこにひざまずいて、ファヴニルさまゴメンナサイって、ねえ、早く」
ファヴニルは、両手を
たとえ外見だけだとしても、子供が駄々をこねるような姿は恐怖よりもむしろユーモラスで、クロードは少しだけ冷静さを取り戻した。――悪いことなんて、笑わせてくれる。
「契約、したいんだろ。その足をどけなきゃ、僕は絶対に契約なんてしない」
クロードにとってこれは賭けだった。ファヴニルという悪魔は先ほどから”契約”という言葉に、必要以上にこだわっている。交渉する余地があるなら、唯一その言葉だけだ。
もしも、
予想外の返答だったのだろう、ファヴニルは目を白黒させて首を大きく傾げると、遺体から足を引き抜いて……。
「アハハハハッ。うーん、ボクが悪かったかも。ゴメンナサイ」
手を合わせて、可愛くぱちんと片目を瞑ってウィンクした。きっと謝罪のつもりなのだろう。
「でもさ、忘れないでよ。クローディアス。ボクがその気になったら、契約なんてどうでもいい。キミを殺しちゃうから」
「せ、せいぜい殺されないよう気をつけるさ」
片目を閉じた小悪魔じみた笑みは、一定層では大いに盛り上がるほど魅力的だったのだろうけど、クロードはそうではなかった。
彼の舌は緊張のあまりかじかんで、ひりついている。息が苦しくて、深い海の底で溺れているように、呼吸すらままならない。
脅えるなと、クロードは胸の中で自分を叱咤した。弱みをみせてはならない。崩れたら最後、大事な何かをもっていかれる。
「アハハハハ。いいよ。すっごくイイ。従順なのはツマラナイ。調教のし甲斐がある」
ファヴニルは、初めて動物園にきた子供のように無邪気な顔で宣言して、崩れた壁の一角を指し示した。
「じゃあ、外まで案内するよ。ついてきて」
クロードは男を介錯したナイフを腰のベルトに挿してカンテラを拾うと、慌てて悪魔の背を追いかけた。
命の危険はさったのだろうか? 今更になって、彼の枯れ枝のような肉体はぶるぶると震え、
(冷静になるんだ。バランスをとれ。バカバカしいことを考えろ。できるだけバカバカしい笑えることを……)
たとえば、男悪魔でなくて女悪魔なら、部長は調教のし甲斐があると言われて喜ぶだろうか?
そんな愚にもつかない妄想を、記憶の破片から引っ張りあげて、クロードは深く息を吐いた。
普段は割と頼りになる部長だが、女性が絡むとまず駄目だ。鼻の下を伸ばしてデレデレして、カッコワルイたらありゃしない。
(喜びそうだ、あの部長……)
その後もクロードたちは粘液状のスライムやら、機械でできた巨大なアリやフクロウやらに襲われたが、悪魔がまるで赤子の手をひねるように蹴散らした。
灰色のアーチをくぐり、十字路を左右に曲がり、倉庫のような区画を越えて、迷路のような建物の中をただひたすらに進んでゆく。
まるで悪夢のような光景だ。けれど、先ほど蟲に噛みつかれた手の傷がジクジクと痛んで、クロードにここが夢ではないことを教えてくれた。
「ねえ、クローディアス。記憶はちゃんと残ってる? 本当の名前はなんていうの?」
どれだけ歩いただろう? らせん状の階段を上りながら、悪魔がそんなことを尋ねてきた。
「わからない」
すべてが失われたわけじゃない。
家族や演劇部の先輩達がどんな人間で、自分の通う学校や塾がどんなところで、自分の住む国や町がどんな姿をしていたかは、ぼんやりと覚えている。
ただクロードの中から、自分の名前を含めた固有名詞がごっそりと失われて、何もかもに確信がもてなかった。
(自分が正気なのか、もう狂ってるのかさえ、判断できない)
モノサシの目盛りが読み取れない。己の芯がくだけてしまっている。
「そうだろうね。別の世界から落ちて来たニンゲンは、だいたいそんな風になっちゃう。元の世界の記憶を維持できたニンゲンは少ないよ。最近だと、何十年か前にイシディアにおちてきたササクラくらいかな?」
――ササクラ? どこかで聞いた気がしたが、やはり何も思い出せなかった。
「確かに僕は、ここじゃない別の世界とやらから来たんだろう。そのササクラって人は生きているのか?」
「何年か前に死んじゃったよ。でも、ずいぶん長生きした方じゃないかな? キミみたいな異邦人は、たいてい落ちてきた場所が悪くてコワレちゃう」
クロードは悪魔が嘘をついているとは思わなかった。そうだろうとも。一般的な人間だったらモンスター相手にパニックを起こすのがオチだ。幸運に恵まれて生き延びたとしても……。
「元の世界に帰る方法は、あるのか?」
「知らない。少なくとも、ボクは聞いたことがない。おとぎ話にある七つの鍵で世界樹の門を開けて、虹の橋を渡るくらいしかないんじゃない?」
この世界独特の言い回しだろう。ファヴニルが彼にかけたという翻訳の魔術はちゃんと機能していたが、さすがに故事や慣用句は直訳じみたものに聞こえるらしい。
「でも、心配することはない。ボクと契約さえ結べば、キミはカミサマに等しい力を手に入れる。第三位級契約神器ファヴニルの力をね!」
大言壮語する割には、一位じゃないのか。うさんくさげに見やるクロードを気にも留めず、ファヴニルは聞いてもいないのに、酔ったように話し始めた。
己がいかに凄いか、素晴らしいか。それは、相手を契約に誘う口説き文句というよりは、自慢話だった。
曰く、この世界には魔法という力があるという。先ほど目にしたような、何もないところから火をだしたり、空間を引き裂いたりする力。あるいは、言葉の異なるファヴニルとクロードの間に意思疎通を可能とする力。……厳密には、”自分の思う通りに世界を書き換えてしまう力”だという。
しかし、人間に使える魔法の力には限界があった。火を
クロードが知る世界の常識に当てはめるなら、数百キログラムの重量を支えられる力持ちがいたとしても、一○トンの荷物を担いで時速一○○キロで走るスーパーマンはいない。といったところか。
そんな非力な人間に、限界を超えた超常の力を与えるのが、ファヴニルのような契約神器だという。
最低位にあたる第六位級契約神器は、ニンゲンの魔術師のおよそ一○人分の魔力を契約者に与える。
次に、第五位級契約神器は、ニンゲンが乗り込む巨大なヒトガタ兵器を思いのままに操り、ニンゲンの魔術師のおよそ一○○人分の魔力を契約者に与える。
更に、第四位級契約神器は、空を飛び、海に潜り、あるいは地中を潜る異能の力をもち、ニンゲンの魔術師のおよそ一,○○○人分の魔力を契約者に与える。
そして、第三位級契約神器は、神話の”役名”を名乗るに値する奇跡の力を行使し、ニンゲンの魔術師のおよそ一○○,○○○人分の魔力を契約者に与えるのだ。
(最後だけひとケタとんだぞ。一位と二位の説明はどうしたんだ……?)
クロードは、馬鹿馬鹿しいと感じつつも、否定しきれない自分に腹が立った。
もしも本当ならば、この悪魔は一人で小都市の人口並みの魔力? とやらを契約相手に与えるということになる。
(まさにワンマンアーミー、あるいはアクションゲームのなんちゃら無双でBASARAMONO、オケハザマのイマガワ軍だって怖くない。ふざけるな。冗談じゃないぞ……)
そうだとすれば、この世界では、悪魔と契約を交わした個人が国家に匹敵する軍事・生産力を保有していることになってしまう。クロードが元いた世界の常識なんてゴミ箱へ直行だ。
(だけど今の説明で、この悪魔が契約をゴリ押ししてくる理由にアタリがついた。一○万人分の魔力なんて大口を叩く割には、あの炎はいかにも力不足だ。この悪魔が契約を結ぶことで、人間に絶大な力を与えるというのなら、逆に人間と契約を結んでいない今、きっとこの悪魔もまた全力を発揮できない)
「どう! ボクってば凄いでしょ。だから今すぐボクと契約しようよ!」
ファヴニルは、これだけメリットを説明したのだから当然だよね、と言わんばかりに契約を迫ってくる。
「代償は何だ。大昔から、契約ってのは取り引きだ。一○万人分の魔力と引き換えに、お前は僕に何を望んでいる? 僕の魂か、命か?」
「そんなツマラナイモノはいらない。ボクが欲しいものはただひとつ。ボクを愉しませて」
クロードの全身から、血の気がひいた。
「むずかしいことじゃない。好きにすればいい。何を奪っても、誰を殺しても、ボクが楽しければ構わない。ああ、以前の盟約者はヘタレだったから出来なかったけど、戦争っていうのも良いね。気に入らない? だったら、こう善行とやらを積むのもいいんじゃない? 争いのない平和で平等な世界を作るとか」
「敵対する者を全部滅ぼして世界征服ですね。わかります」
「きっと愉しいよ!」
クロードの唇が、苦々しく歪んだ。
そういう物騒なお誘いは、是非先輩方にでも言って欲しい。
(あのひと達なら”きっとこの悪魔だって骨抜きにして成し遂げるだろうから”……って、どんな先輩だよ!)
やはり記憶が曖昧らしい。
クロードがわずかに思い出すことが出来た演劇部は、誰も彼もが非常識なまでに得意分野に長じた変人の巣窟だった。ある先輩は人並み外れた運動能力をもち、ある先輩は教員すら裸足で逃げ出すほどに博学で、しかしどいつもこいつもやることなすこと無茶苦茶だった。
クロードは疑う。まさかとは思うが、この先輩たちの記憶は、ひょっとして自分の思い込みに過ぎないのではないか――と。
(もしそうだとすれば、僕自身の
な、なんだってー!? というテンプレ的合いの手が聞こえた気がしたが、残念ながらこれこそが幻聴だった。ファヴニルはクロードの手をとって、クルクル回りながら勧誘を続けていたのだから。
「黙ってないで。ね、ボクと契約しようよ。契約!」
「考えさせてくれ」
二年女子先輩。確か男装という、服の趣味が特異な先輩が入部したとき、宗教にはまった彼女の母親が部員の家族に対し、強引な機関紙の契約やらセミナーへの勧誘やらを繰り返して、一度部が空中分解寸前まで追い詰められたことがある。
不良と抗争になったり、祭りの助っ人に強制参加する羽目になったり、色んなトラブルに巻き込まれた演劇部だが、……クロードが憶えている中ではあの一件こそが最大の危機だ。
以来、演劇部員は政治経済が別世界の他人事ではなく地続きの現実であると知り、自衛のため独学や議論に励むようになったが――、もしもあの時、部員の誰かが安易に契約をしたり勧誘に応じたりしていたら、下手をすれば取り返しがつかなかった。
「アハハハハっ。キミ、最高だ。今までのニンゲンだったら、みーんな首を縦に振ったのに。愛しいなあ」
悪魔が胸の中に飛びついて、上目遣いでそんな馬鹿なことをノタマッタが、クロードはドン引きだった。
「わ、悪いけど僕は同性には興味ないんだ」
男にやおい穴なんてファンタジーなものはない。ないったらない。
大事なことなので、自分に言い聞かせるように、クロードは心の中で二回繰り返す。
「そう? だったら今からキミを女の子にしてあげる」
「やめてくれ!」
誰が得をするというのだ、そんな腐った展開。
クロードが脳裏に思い描く痴女先輩が、ぶんぶんと手を大きく振っていたが無視を決め込むことにした。あんたの出番じゃないんだ。座ってて。
「でも、きっとキミはボクと契約を結ぶよ。さあ、外の世界だ。ようこそ、ボクのオモチャ箱、マラヤディヴァ国レーべンヒェルム領へ!」
長い、長いらせん階段も遂に終わり、錆びた観音開きの金属製の扉が開かれる。
真っ先に見えたのは、懐かしい夜明けを告げる太陽の光。次に、石で組み上げられた魔法陣と馬車のような乗り物、そして――
なにもない。真っ赤な一面の荒野だった。
―― ―― ―― ――
あとがき
お読みいただきありがとうございました。
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