第111話(2-65)別離

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「わかり、ました。悔しいけど、ここは退きます」


 ドクター・ビーストとレベッカ・エングホルムは、前日のボルガ湾海戦がまたもセイの勝利に終わった、ということしか掴んでいなかった。実際のところ、レーベンヒェルム領艦隊は、ルクレ領艦隊を相手に中型以上の武装商船がことごとく中破し、すぐに動ける状況ではなかった。

 だが、正しい情報を掴んでいたとしても、ドクター・ビーストはレベッカに退却を勧めただろう。アリス・ヤツフサはなお健在であり、森の戦況はひっくり返されつつあったのだから。


「ゴルトにな、詫びにバーカウンターの酒をやると伝えてくれ」

「レディをメッセンジャーに使わず、自分で直接伝えなさいな」


 レベッカはドクター・ビーストの頼みを聞き流しつつ、疲労困憊ひろうこんぱいといった風のソフィから離れて、撤退を告げる赤い狼煙と花火をあげた。


「レベッカ、必ずじゃぞ、あの酒は良いものじゃ」

「はいはい。撤収が終わったら、さっさと帰ってきなさいよ」


 レベッカは、憤懣ふんまんやるかたなしといった表情で、一輪鬼ナイトゴーンに乗りこみ、ベナクレーの丘を後にした。


「騒々しかったが、楽しい時間じゃったよ。お主の本願が叶うことを祈っている」


 ドクター・ビーストは、燃える炎のような赤い髪とワインレッドのカクテルドレスが見えなくなるまで見送って、ほうと重い息を吐いた。


「ひょほほほっ。満ちたるをもって、欠けたるを討とうとしてしくじったか。ゴルト、悪徳貴族は強くなるぞ。ひょっとすれば、かの邪龍にすら挑める程に」


 生き延びた悪徳貴族クローディアス・レーベンヒェルムは領地を富ませ続け、一の革命家ダヴィッド・リードホルムは社会を破壊し続ける。

 両者が行き着くところは火を見るより明らかだ。千載一遇の好機を逃がした以上、緋色革命軍はいずれ窮地に陥るだろう。

 しかし、それは生き残ったものたちが考えることだ。ドクター・ビーストの本願はまさに今、叶おうとしていたのだから。


「おっちゃん、もういいたぬか?」


 律儀に待っていたのだろう。身だしなみを整えたアリスが、声をかけてきた。


「待たせたな。ではやろうか、異界の獣よ。わしは、クローディアス・レーベンヒェルムを殺さねばならんのでな」

「クロードはたぬが守る。そして、たぬの名前は、アリス・ヤツフサたぬ。友達に貰った、呼んでほしい名前たぬ!」


 異界の獣娘、否、アリス・ヤツフサが大地を蹴る。音速を超える速度で肉薄し、虎と変わらぬ力でドクター・ビーストを殴り飛ばす。


「盲点じゃったよ。いやあえて見ないふりをしたのか。人の知恵を得た獣、獣の力を得た人、単純故に強い。じゃが、わしに物理攻撃はきかんぞ」


 ヒトデの表皮を覆う透明な粘液が、殴打の衝撃を吸収する。

 殴り飛ばされたドクター・ビーストは、丘の斜面に穴を空けつつも、さしたる損傷を負っていなかった。


「たぬは頭にきてるたぬ。ローズマリーちゃんや、たくさんのひとがおっちゃんのせいで迷惑してるたぬ。お前の悪事は、これで最後にしてもらうたぬ」


 黒く長い髪をなびかせて、褐色肌の獣娘が再び突撃してくる。彼女の弾劾を受けて、ドクター・ビーストは懐かしい記憶を思い出した。


「これで最後か。奇遇よな。最初に施術した被検体は、ショーコという気立てのよい美しい女子でな。実は、わしの自慢の娘じゃった……」

「たぬっ!?」


 ドクター・ビーストが郷愁にふけりながら繰り出す触手の乱れ撃ちを、アリスは両手のラッシュで捌いている。


「最強のスライムを作ったのだよ。あまたの分身を生み出し、あらゆる兵器を溶かし、核を破壊されても再生するという傑作じゃった。ゆえに、危険視されて異界に捨てられたよ」


 アリスが眉間にしわを寄せて、金色の猫目を縦に細めた。


「まさか、おっちゃん、娘を、ショーコちゃんを見捨てたぬ?」

「ああ、そうじゃ」


 アリスは、右手に魔力を纏わせて螺旋らせんの竜巻を創り、人差し指から小指までを伸ばした四本貫手ぬきてと共に発射する。

 ドクター・ビーストもまた、攻撃に重ねるようヒトデの怪人体中央にある口を開き、極太の凍気をレーザーのように放射した。


「このダメオヤジー!」

「ああ、そうとも。だから、わしは……」


 自ら望んで、狂魔科学者マッドサイエンティストになったのじゃ。

 最後の言葉を喉奥に飲み込んで、ドクター・ビーストはアリスを迎え撃った。

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