第110話(2-64)潮目

110


 ドクター・ビーストは、自ら改造を施した異界の獣の姿を穴があくほどに見つめていた。

 長い黒髪、日焼けした肌。虎耳と尻尾こそ生えているものの、ベナクレー丘の中腹で、クローディアス・レーベンヒェルムを背に庇い、守るように立っているのは、まさしく人間の女の子だ。


緋色革命軍マラヤ・エカルラート。お前ら絶対に、ゆるさんたぬー!」


 異界の獣であった少女が、威嚇いかくするようにときの声をあげると、ぶちっという布が裂ける音が響いた。

 彼女の胸部、重量感のある琥珀色の果実が、さらしという窮屈な拘束を逃れてまろびでようとする。


「た、たぬーっ。見栄をはりすぎたぬ!?」


 獣娘は、慌ててさらしを巻きなおし、ああでもないこうでもないと悪戦苦闘している。


「何をやっておるのじゃ、あの異界の獣は……」


 獣から人間という新しい姿を得た少女とは正反対に、ヒトガタを捨てヒトデ形の生物兵器という本性を露わにしたドクター・ビーストは、彼女の奇行に呆れつつも、優れた感知能力で丘下にある森の気配を窺った。――戦況は、悪化していた。


「勝てぬな。潮目が変わったか」


 老いたる博士は、岩陰に倒れている少年、緋色革命軍の宿敵たるクローディアス・レーベンヒェルムに視線を移した。

 彼の全身は、赤い火傷と青い打撲傷で覆い尽くされ、満身創痍まんしんそういむごたらしい有様だ。

 けれど、そんな男が状況をひっくり返した。


「小僧め。右手を切断され、両脚を杭打ちにされ、一度は心臓が停止して、最後は武器も左手も失って、……それでも歯だけでこちらの喉笛きゅうしょを食い破ったか。ゴルトが恐れるわけじゃ。なんという執念、なんという胆力よ」


 緋色革命軍の良き同僚であり、優れた軍事指導者でもあるゴルト・トイフェルは、一度敗北を喫した敵将セイ以上に、クローディアス・レーベンヒェルムという悪徳貴族を警戒していた。

 ドクター・ビーストは、ゴルトの懸念けねん杞憂きゆうであると笑い、緋色革命軍の思惑どおりに敵地深くへと誘導された辺境伯を愚か者だと判断していた。だが、そうではないのだと刃を交えて理解した。


(何のことはない。こやつは、策にのせられたのではなく、エングホルム領の民衆を見捨てられなかっただけのことじゃ。ずっと繰り返してきたのか、こんなめちゃくちゃな綱渡りを。……もしもあの時、わしに小僧と同じ意志の強さがあれば。ひょほほ、言い訳じゃな)


 レベッカ・エングホルムは、いまなお彼女がおねえさまと慕う、辺境伯の女執事ソフィと戦闘を続けている。

 彼女は、邪竜から分け与えられた力を振るって、己が思い人を追い詰めていた。だが、技量に劣るが故に、最後の一線で防御を崩せない。


「レベッカ、狼煙のろしを上げよ。退却じゃ。兵をまとめて領都エンガへ戻れ」

「ドクター・ビースト、改造に失敗したからと言って、血迷ったのですか? 勝っているのはワタシたちです。あと少し、あと少しでおねえさまをこの手に……」

「頭を冷やして、味方識別反応を探ってみよ。生存者はどれだけ残っておる?」


 ドクター・ビーストの問いかけに、紅潮していたレベッカの頬が青白く染まった。


「なんで、兵数に十五倍も差があって。森の中じゃ、銃もろくに使えないはずのにっ。こんなの有り得ない。どれだけ無能なのよ、あいつら!」


 ドクター・ビーストは、レベッカの困惑が手に取るようにわかった。

 必勝を期した追撃戦だった。にも拘わらず、辺境伯を相手に、三〇〇体以上の菌兵士と、二〇口ふりを越える大太刀を喪った。更には、わずか一〇〇人程度の中隊を相手に、丘下の森で交戦している騎兵一〇〇〇人の生存反応が四割近く減少していた。


「あんな弱い男。ファヴニルと契約してもろくに力を使いこなせず、異界の獣やおねえさまに守られる非力で愚かな暗君。そんな奴にどうしてワタシたちが負けるというのっ!?」


 炎のような赤く長い髪を逆立てて、レベッカは天も落ちよとばかりに絶叫した。

 ドクター・ビーストは、いまや彼女の見立てが間違っていることに気づいていた。

 レベッカが、邪竜にどんな出鱈目でたらめを吹きこまれ、あるいはどのような色眼鏡をかけて受け止めたのかは知らない。

 だが、おそらくクローディアス・レーベンヒェルムは、ファヴニルの力を使いこなせないのではない。


 最初から制限を受けているか、あるいは――、本人に使う気が無いのだ。


 そして、ドクター・ビーストが、この時何よりも危惧したのは、レベッカがソフィへの慕情に目が曇って、状況を正しく判断できていないことだった。


「レベッカ。まだわからんか? たとえ影武者であったとしても、クローディアス・レーベンヒェルムは領主おうであって戦士ではない。領主とは、個人の武勇を誇るものではない」

「それはっ」


 レベッカが、歯を食いしばりながら、槍を止める。

 彼女と相対するソフィが、薙刀を構えつつ、深く息を吸って吐いた。


「お主が自身を悪と任じているのは承知しておる。その上で問うぞ。――為政者とは何じゃ? 最強の戦士か、優秀な軍人か、道具を仕立てる職人か、心躍らせる音楽家か、うまい麦をつくる百姓か、それを焼くパン屋か。違うじゃろう! 彼らすべての力を束ね、地と民を豊かにするものじゃろう?」


 最も優秀な為政者が、すべての分野でエキスパートを兼ねる必要など、どこにもないのだ。


「あの小僧、悪徳貴族あくとうとしては失格じゃろうが、領主としては見所がある。昨日ルクレ領艦隊が大敗したという知らせは、お主の耳にも入っていよう。エングホルム領とてもはや危ういのじゃ。殿軍しんがりは、わしと菌兵士どもが引き受けた。次こそは小僧の首を落とそうぞ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます