第132話(2-86)貨幣と経済

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 ブリギッタがクロードの財布から取り出した紙幣とコインを見て、アリスは猫目を大きく開けると、金色の虎耳をぴんと立てて胸を張った。


「むふん、それは、……お金たぬ!」

「詳しく説明してくれないか」

「それだけあれば、お肉とかお魚とか、色んなものが買えるたぬ。それにぃ、貯金するとソフィちゃんに撫で撫でしてもらえるたぬ」


 クロードは、アリスの返答に唇をほころばせた。


「さすがだよ、アリス。お金、つまり貨幣とは、”価値尺度、流通交換、価値貯蔵の三機能を持つもの”を指すんだ」

「た、たぬ? むずかしいたぬ」

「ええっと、アリスちゃん。お金は、皆が認める価値があって、他のモノと交換出来て、蓄えられるモノを指すの。たとえば美味しいおイモがあっても、好きな人ばかりじゃないし、必ずパンと交換できるかはわからないし、何年も保存できないでしょう? でも、お金ならそれが出来る」


 クロードからひきついだブリギッタの説明によって、アリスはふんふんと鼻を鳴らした。


「なんとなく、わかった気がするたぬ」

「人間は、お金という手段を得ることで、集まって街をつくり、効率的に役割を果たすために職業に就いて、より多くの富を得ようと未来を切り開いてきたわ」


 ブリギッタの言葉は、いかにも商人らしい見解であった。

 だが、クロードもまた心の中で同意する。人間は欲深い。しかし、そんな飽くなき欲望こそが、人類史を前へ前へと推し進めてきた。命や幸せは金で買えないが、金で救える命や不幸は確かに存在するのだから。


「だから、お金は人の手を回り続けるの。

 農家が、買った農具を使って芋をつくって売る。

 イモを買って食べた木こりが、丸太を切り出して売る。

 丸太を買った職人が農具を作って、農家が農具を買う。

 といった風に。

 他にも、警察とか軍隊とか冒険者とか、世の中には色んな職業があって、誰もが働いてお金を稼ぎ、稼いだお金を使って生きるために必要なモノを、欲しいものを買うの」


 ブリギッタの解説に、アリスは満面の笑顔で両手を広げた。


「たぬう♪ アリスはお肉が大好きたぬ」


 クロードは、彼女の天真爛漫てんしんらんまんさに目を細めつつも、説明を引き継いだ。


「今、ブリギッタが説明してくれたのが、お金と、お金を仲立ちにつかった物々交換、市場経済の基本だ。市場にまかせて誰もが自由に商売をすれば、必要とされるモノが売れて、相応な値段がつけられる。”まるで神の見えざる手にゆだねられたかのように”必要とされる場所に必要なモノが行き渡る。というのが、経済学の初歩的な考え方だ」


 売り手はモノをつくって市場に出し、買い手は欲しいモノを好き勝手に買う。


『需要と供給が一致する限り、誰もが幸せに充実した生活を送るだろう』


 しかし、クロードは知っている。

 そんなことは有り得ない――

 彼の知る世界の経済史では、とうの昔に否定されている。

 需要は、供給を作りだすかもしれない。

 しかし、残念ながら、”供給はそれ自身の需要をつくり出すことはない”からだ。


「じゃあ、アリス、ある日急にイモが売れなくなった。つくりすぎて、どこの家も、倉庫はイモでぎゅうぎゅうだ。逆に、不作で全く取れなくなったかも知れない。そうなったら。どうなると思う?」

「農家さんは困るたぬ。失業して、お金がなくなっちゃうたぬ」

「ブリギッタの例にのっかるなら、農家が農具を買えなくなって、職人は困るよな。職人も農具が売れないから、丸太を買うお金が無くなって失業だ。丸太が売れなくなった木こりだって同じように失業してしまう」


 クロードが抑揚なく語る姿に、アリスはぶるぶると尻尾を立てて震えだした。


「そ、それじゃ、全滅たぬ。どうしてそんな風になっちゃうたぬ?」

「人が売りたいものが、必ずしも買いたいものと一致しないからだ。アリス、大切なことだから覚えておいて欲しい。

 ”需要と供給、支出と生産、買うお金と売るお金の量は一致する”

 片方が小さくなれば、片方も同じく小さくなる。皆がモノを売りたくても、皆がモノを買わなくなったり、買えなくなったりすれば、お金の流れは止まり、経済はとどこおってしまう。これを不況と言うんだ」

「逆に、皆が働いて、モノやサービスを売ってお金を得て、好きなものを買って……。お金がぐるぐる回る経済を好況と呼ぶわ。人々が物の売り買いを営むことで、お金の動きが大きく拡がってゆく好況と、小さく縮んでゆく不況が発生するの。……でも、不況は悲しく苦しいことよ。夜逃げする人、首をくくる人、強盗や略奪をやらかす人。最悪の場合、戦争にだってなるのよ」


 クロードもまた思い出す。元いた世界で行き着いてしまった不況の代表例を。

 1929年に始まった世界大恐慌は、悲惨な第二次世界大戦へとなだれ込む決定的な契機となったという。


「売りたくても、買ってもらえない。お金がないからモノを買えない。不況って恐ろしいたぬ……」

「アリスちゃんが来た頃は、レーベンヒェルム領はまさに不況の真っただ中だったの。働く場所が西部連邦人民共和国が運営するプランテーションしかなくて、どれだけ頑張って働いても、給金はスズメの涙、食べていくことすらままならなかったわ」


 ハサネが葉巻を取り出し、マッチ棒で火を点けつつ遠い目で呟いた。 


「お金がないからモノを買えない。道がないからモノを売る商人すら来ない。いやはや見事な詰みっぷりでした。プランテーションで働くのを拒めば、ブリギッタさんたちのように命の危険を賭してダンジョンに潜る冒険者になるか、赤い導家士どうけしのようなテロリストに参加して糊口をしのぐかの二択です。ええ、辺境伯様はよくもあの状況を打開できたものです」


 クロードは、わずかに頬を染めて、居心地が悪そうに視線を逸らした。


「アリスちゃん、さっき公共事業が何か知りたいって言ってたわよね。おおまかには、辺境伯様が、これまでやってきた政策のことよ。価格決定のメカニズムが正常に働かずに、お金のやり取りが小さく小さくなってゆくのなら、領が支出=買うお金を増やして、生産=売るお金を大きくすればいい」

「た、ぬ!?」


 アリスは、これまでクロードがやってきたことを思い返した。

 彼女が知っている限り、彼が最初に始めたのは、親友のイスカが遺跡から回収した魔術資材を使い、王国の建設会社の協力を得て、”セミラミスの庭園”の愛称で呼ばれる試作農園を造ることだったはずだ。


「そっか、農園を作る為に働けば、お金がもらえるたぬ。お金があれば、好きなものを買えるたぬ!」


 プランテーションで働いても、満足な給料が出ないから何も買えない。

 逆に言えば、ちゃんと給料が出る仕事が他に有れば、皆お金を稼いで好きなものを買うことができるのだ。


「アリスさんの言ったとおりです。付け加えるならば、農園を作る作業員が集まることで、彼らが食べる芋などの食料や、着る服が売れるでしょう。住むための家だって必要です。だからこそ、刑務所では大工仕事を指導していました。そうなれば、材料である丸太や、加工するための道具も必要だ。需要は需要を生み、消費は更なる消費を招く。縮小していた経済は、拡大して好転を始めました」

「他にも、辺境伯様は色々やったわ。重すぎた税金を減らしたり、街道を整備して移動を楽にしたり、遺跡の利用を冒険者に開放したり。パパたちも武器屋や飲食店を出店して、資材を運ぶための人員を調達して稼いだわ。お金は、回れば回るほどに多くのひとを幸せにする。結局、限られた人たちだけで独占しようとするから弊害へいがいが生まれるのよ」


 ブリギッタの弁は、先代ほんもののクローディアスに対する怒りをこめた糾弾きゅうだんであると同時に、西部連邦人民共和国や緋色革命軍に対する痛烈な皮肉でもあった。

 皆が平等な楽園を享受しよう。目標だけはどれほど尊くても、独裁による管理経済を目論んだ時点で、ごく一部の特権階級が富の独占を始めるのだ。

 クロードは、市場の万能性を信じてはいなかった。同時に、市場が極めて合理的で強力な配分機能をもつことを確信していた。

 共産主義と資本主義が長期にわたって経済で張り合えば、共産主義が孕んだ矛盾から自滅し、資本主義が生き残ることを、彼は元いた世界の歴史から知っていたからだ。


「クロードは、やっぱり凄いたぬ……」


 アリスは、猫目をキラキラと輝かせてクロードを見上げたが、彼は照れてそっぽをむいた。


「アリス、買いかぶりすぎだ。僕やブリギッタがさっきから話してるのは、ヴァリン領の大学教授達から学んだ知識の受け売りなんだ。ハサネもよしてくれ。僕は許可しただけ。政策をちゃんとした形にしてくれたのは、ヴァリン領の教授達やパウルさん達で、実行したのも役所の職員たちじゃないか?」


 クロードの反論に、ハサネは自らシルクハットを指で回して宙へと放り、手のひらでスッと受け止めて頭に被った。


「……方向性を示し、自らの責任のもと決断を下す。その有り方こそ、貴方が、我々にとって得難い領主ロードである証明ですよ」

「辺境伯様とは、比べるのも失礼だけど、ルクレ領とかソーン領とかダヴィッド・リードホルムとか、あのクソッタレた先代のクローディアスとか、駄目な君主なんていくらでもいるわ。――貴方は、アタシたちにとって最高のリーダーよ。それだけは誇って欲しい。うん、男としてはエリックより一枚落ちるけど」


 ブリギッタの長い長い前振りは、最後の最後で、彼氏自慢でオチた。


「ほっとけっ」

「たぬにとっては、クロードが一番たぬ!」

「ハッ、ここは辺境伯様を敬愛する、この私が抱きつく見せ場?」

「ふしゃーッ!」


 ハサネは、わざわざ念写真の魔術道具を据え付けて、手をわきわきさせながらクロードに近づくいたものの、手を爪の生えた虎のものに変化させたアリスによって追い払われた。

 ブリギッタは、そんな三人の様子を苦笑いしながら眺めていたが、説明の〆に入った。


「鉄道敷設計画も、その延長よ。今、エングホルム領から難民が流入して、平均賃金が低下しているでしょう? そして、好況なのは、領都レーフォンとその衛星都市に集中している。難民に働く場所を提供しつつ、移動をより楽にして、お金のやりとりをより広げるのが目的、かしらね?」


 ブリギッタに視線を向けられて、クロードは頷いた。


「軍事面から見れば、部隊人員をより早く展開し、武器や食糧の迅速な補給が可能になる。本音を言おう。今後、緋色革命軍に侵入され、あるいは、ファヴニルの攻撃を受けた際に鉄道があるのとないのでは、守りきれる命が変わってくる。だから、どうしても欲しいんだ。この領、住める場所はともかく、山岳地帯も含めればやたら広いから」


 レーベンヒェルム領の面積は、およそ一五〇,〇〇〇km2。クロードの知る、北海道の二倍近い広さがあるのだ。

 この世界の馬や馬車は、魔法で移動が改善されているため必ずしも同条件とはいえないだろう。それでも、端から端まで即座に部隊展開するのは不可能に近い。


「わかったぬ。わからないことも多かったけど、熱意だけはわかったぬ。たぬも、領軍の皆の説得を頑張るたぬ!」


 そう、アリスが立ち上がってエイエイオーとポーズをとった時、遠くの方で何か爆発するような音がした。

 探知魔術が作動し、警戒の非常ベルが鳴り響く。


「またテロか!?」

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