第三章 領主の改革

第11話 農業着手

11


 レーベンヒェルム辺境伯領は、マラヤデイヴァ国の東部、ヴォルノー島中央に位置する国内屈指の巨大領である。

 北の海と南の山岳地帯に挟まれた領地は、豊かな平野と丘陵が広がって、三〇〇万人もの領民が住んでいる。中でも領都レーフォンは、三〇万人が集う国内有数の大都市だった。

 が、クローディアス・レーベンヒェルムが辺境伯を継いで以来、領民の生活水準は劇的に悪化しており、今では餓死寸前の苦しい生活を強いられていた。

 レーベンヒェルム領では、土地はすべて領主のものであり、領民の私有は認められていない。彼らが日々の糧を得るためには、共和国企業連が営業するプランテーション農園や工場で働く以外の選択肢はなく、過酷な労働環境と低い賃金によってひとりまたひとりと倒れ、幼い子供達までも労働に借り出して、ようやく命を繋いでいるという有様だった。



 復興暦一一○九年/共和国暦一○○三年 紅森の月(一〇月)一〇日。

 クロードは館から数キロ離れた荒地を、四〇ヘクタールほど柵で囲い、領内農業復興のための実験場とした。


「レーベンヒェルム領は、他領との交易を北の海と南の山岳に阻まれて、事実上陸の孤島だ。このまま放っておけば領内に餓死者が続出しかねない。領内で出回っている食料品は海外、共和国からの輸入品がほとんどで、連中はわざと値をつり上げて暴利をむさぼっている。だから、まずは食糧供給の改善から取り組もうと思う。農業改革だ」

「で、その農業改革とこの魚になんのカンケーがあるんだ?」


 エリックは、クロードが近隣の小さな漁港から買い取った、食べられない大量の小魚を大鍋で炊いていた。

 ゆであがった小魚は、アンセルが壺をすえ付けた籠に入れ、ヨアヒムがふたをして石で押さえつけて油を絞っている。が、小魚の品種が悪いのか、手際が悪いのか、油は重量の一割もとれていなかった。


「こいつを干して肥料に使うんだ。でも、いまいち効率が悪いな。よし、このやり方は一旦保留だ」


 クロードが試そうとしたのは、戦国時代から日本で用いられた肥料、干鰯ほしかの製造だ。江戸時代には上方、畿内を中心に普及して、大陸へ輸出されたという記録もある。ついでに魚油も採取して、食品に加工できないかと目論んだのだが、そう簡単にはいかないようだった。


(工場を作って大量生産をするか、油取りは諦めてそのまま干すか。レアがもうすぐ雨季だと言っていた。手を打つなら早い方がいい)


 クロードは魚油の取得は困難と判断し、作業の転換を指示した。


「煮るのは中止。そこのむしろを敷いて、油をしぼった魚と、残りの魚を並べよう」

「なんだそりゃ!」

「干物なんか作ってどうしようってんですかい」


 今日から農業をやると聞いていたのに、なぜか山積みの魚と格闘する羽目になったエリック達の機嫌はことのほか悪かった。


「臭いし、暑いし、疲れるし。やってられるか! だいたい肥料なんていらないだろ。豊作祈願の魔法をかければいいじゃないか!」


 エリックが提案したのは、一時的に大地の栄養素や微生物を活性化させる術式のことだ。確かに収量はあがる。あがるのだが……。


「レアに確認したが、あれは副作用が大きすぎる。栄養ドリンクたらふく飲んで徹夜したり、高利貸しから金を借りてギャンブルに行ったりするようなものだ。僕の目指すやり方は違う」


 そうやって、西部連邦人民共和国企業連がプランテーションに豊作祈願の魔法をかけ続けた結果が、大地の生態系破壊による荒地化だった。安易な手段に頼れば、相応の報いが待っている。地道な努力こそが、未来を切り拓くのだ。だが、そういった説得を行うには、クロードとエリック達の関係は険悪過ぎた。

 正午を過ぎた頃、クロードは作業を中断して、エリック達を屋敷の一室を改装した会議室へと招いた。

 彼としては同じ釜の飯を食うことで親睦を深めるつもりだったのだが、中途で方針を変更した肥料製造の一件もあり、部屋の雰囲気はいちじるしく悪かった。

 エリックはギラギラと憎悪に燃えた目で、クロードに向かって問いかける。


「僕の目指すやり方は違う? じゃあ、アンタは、今度はどんなやり方で人を殺すんだ?」

「エリック、辺境伯様の前でそんな言い方は」


 アンセルがなだめようとするが、頭に血が上ったエリックは止まらなかった。


「俺の親父とお袋は、二年前、この馬鹿が起こした土砂崩れが原因で死んだんだ。共和国企業連が値段を釣り上げているなら、お前がやめさせろよ。こんなふざけたヤツに協力なんてできるか!」


 エリックの言い分は激しかったが、おそらく領民の大半は彼と同じ意見なのだろう。

 クロードは、かつて領営農場で働いていたという農家を御者のボーから聞き出して、協力を依頼したものの、怯えられるか、謝罪を繰り返されるばかりで、誰一人彼の下で働こうとしなかった。

 

『先代のクローディアス様も以前、いくつかの農業改革に取り組まれました』


 レアの説明によると、『収量が足りないのは苗と種が足りないからだ』と異常な密植を行い、農薬の過剰投与と豊作祈願魔法を連続行使した結果、収量が激減して作物がまるでとれなくなったり、『平野で食料が得られないなら山林を農地に変えればいい』と土留めもせずに棚田を切り開こうとしたところ、自壊して流れた挙句に川が汚染されてしまったり、『川が汚れて水が足りないなら持ってくればいい』と付近住民にバケツリレーを課したところ一村が崩壊したり、と散々なものだったという。


(なにその主体農法? クローディアス・レーベンヒェルム。お前、どんだけ無能なんだよ)


 クロードは歯噛みしたものの、独裁者が農業振興をはかり、伝統的な経験農法も科学的知識に基づく近代農法も無視した『ぼくのかんがえたかくめいてきのうぎょう』で無謀な増産を強制した結果、農地を再起不能にしてしまった例はそこかしこに転がっている。

 彼が元いた世界でも、メンデルの遺伝法則を排斥した疑似科学、ルイセンコ学説を推進した独裁国家が大量の餓死者を出しているし、これらの愚行を真似て自国の農業を崩壊させてしまった国はひとつやふたつに留まらない。

 日本でも規模こそ異なるものの、効果が疑問なヤロビ農法を自称リベラル政党や一部農業組合が強引に推し進めたものの、『やっぱりダメだったよ』という当然の結果に終わった例がある。『まず思想ありき、精神論ありきで進める事業なんて、どだい成功するわけがないんだ』とは、旧ソ連のドキュメント映画を見ながら、痴女先輩が呟いた台詞だ。


(一歩間違えば、僕も同じ穴のムジナか)


 人間は万能ではない。

 どれだけコンピュータが進歩しようと、強大な魔法の力が存在しようと、それを扱うのは人間なのだ。大量の人命をすりつぶして達成に血眼になるような独裁者の愚行だけは犯すまいと、深く心の中で戒める。

 クロードは、エリックに向かって頭を下げた。


「すまなかった」

「すまないですむか。この人殺し」

「いい加減にしろ、エリック、この馬鹿っ! ちったあ状況ってものを考えろ」


 ヨアヒムがソフトモヒカンを逆立てて、エリックの短髪につかみかかり、殴り合いが始まった。


「お、おい、喧嘩はよせ」


 クロードは、なんとか割りこもうとしたが失敗し、右側の鼻と、左の耳下に、いいパンチを一発ずつもらってしまった。


「痛う……」

「げっ」

「し、しけい!?」


 げ、じゃないし。死刑にするつもりもないが、痛かった。


「僕が信用できないのはわかる。エリックの言い分も、もっともだ。だけど、正直に言おう。僕に共和国企業連に命令する力なんてない。このまま放置すれば、近い将来、不作になれば大勢の人が死んでしまう。それを阻止するために、どうか力を貸してくれ」

「辺境伯様には、なにか妙案があるんですか?」


 アンセルが、汗で濡れたトウモロコシ色の髪の下、そばかすの浮いた頬を張りつめて質問する。クロードは浅く息を吸って、答えた。


「牛を飼おうと思う」


 熱していた空気が、冷え込んだ。

 ほらみろと言わんばかりにエリックがふんぞりかえり、こりゃ駄目だとヨアヒムが頭を抱え、アンセルは深呼吸して言葉を続けた。


「辺境伯様。おそれながら、家畜はより多くの穀物や野菜を飼料として消費します。それに、マラヤディヴァ国は熱帯気候で牧畜には向いていません」


 知っていた。この二日、考えをまとめるために、船と馬車を乗り継いで首都や他領にも足を運んだが、牧場は皆無だった。

 レアは、乳製品のほとんどが輸入であり、牛乳も生乳ではなく、加糖した加工品が流通していると教えてくれた。

 あと豚と猪は、広まっている宗教で、神様のお気に入りの動物なので食べちゃ駄目なのだそうだ。


「結論を焦りすぎた。牛を飼う目的は、食肉の生産じゃない。土の改善と酪農だ」


 最初から説明すると、クロードは部屋の隅から黒板を引っ張り出し、正方形を描いて四等分した。

 ありていに言ってしまえば、提案したのは世界史の教科書に載っていた、ノーフォーク農業をクロードなりにアレンジした亜種だ。

 農地を四区画に分けて、一年ごとに、陸稲→キャッサバイモノキ→クローバー→ヤムイモを作って、ローテーションをかけて回してゆく。輪作ゆえ、連作障害のダメージも抑制できるし、クローバーはマメ科植物なので、窒素を固定して土壌どじょうを肥やす働きが期待できる。

 もしここに痴女先輩がいれば、『肥料が欲しいんだな。よし、ハーバー・ボッシュ法はまかせろー、公害バリバリ!』『やめて』という展開まで、一足とびに実現しそうだったがぜいたくは言えない。


「クローバーって雑草かよ? 暑さで枯れるし、誰も食わないし買わないだろ」

「エリック、クローバーは牛の餌だよ。領主様、乳牛はクローバー畑で飼うんですね」

「う、うん。熱に強い品種をレアに探してもらった。雨季はクローバー畑を牧場として使って、乾季にもし枯れたら、稲のわらや、毒抜きしたキャッサバの葉、いもの蔦や葉を飼料として与えるつもりだ」


 ノーフォーク農業の弱点として、そもそも家族経営や小規模農家では実行不能、という一点があるが、そこは領主だ。強引に交渉すれば、人数を集めることだけは出来るだろう。


「理屈は通ってるみたいだけど、まともに育つのか?」

「そればかりは、やってみないとわからない」

「でも、辺境伯様、予算はどうするんですかい? まさか、また増税……」


 戦々恐々と聞くヨアヒムに、クロードはあっけらかんと答えた。


「それなら大丈夫。屋敷の金品を共和国に売却中だ」


「「「はああっ!?」」」


 エリックは椅子から立ち上がろうとして転び、ヨアヒムは骨折中の脚をテーブルにぶつけ、アンセルは一瞬意識を失って、鼻の穴から幽体離脱していた。


「な、な、なんだよっ。金はちゃんと銀行に預けているから、ここにはないぞ」

「誰がアンタの屋敷に押し入るか!」

「泥棒なんてしませんよ。オレたちを何だとおもってるんですか!」


 先日押し入ったばかりじゃんキミたち、というクロードのツッコミは、誰も聞いていなかった。


「売って良かったんですか?」

「金が必要だからな。もちろん美術品や芸術品は、ちゃんと残してあるぞ。領内が落ち着いたら美術館を建てて寄付するさ」


「「「寄付!?」」」


 エリック達にとって、強欲で虚栄心が服を着た怪物、クローディアス・レーベンヒェルムがそのような言葉を口にすることは、大地が沈み、海が裂け、天から火が降り注いでも有り得ないことだった。

 空気が完全に凍りつき、会議室はまるで時が止まったかのように静まって、クロードは理由が分からず右往左往したが、レアとブリギッタが昼食を運んでくると、再び時を刻み始めた。


「領主様、皆様方。お食事をお持ちしました。……どうかされましたか?」

「聞いてよエリック。レアさんって、料理がとても上手なの。なにかあったの?」


 クロードは肩をすくめ、エリックとヨアヒムとアンセルは首をぶんぶん横に振った。

 昼食は簡単なサンドイッチとスープ、揚げ物の寄せ集めだったが好評で、これまでの雰囲気が嘘のように和やかに進んでいった。エリック達が見慣れない米料理を手に取るまでは。


「これは、ライスボールってやつか?」

「はい。領主様の好物で、一昨日、首都で買ったお土産を入れてあります」

「ふうん。ま、いいや。ひと口もらうぜ。……ギャー!?」


 うっかり口に入れたエリックは、悲鳴を上げて涙を流してのたうち回り。


「ごふっ」


 アンセルは卒倒して、しかめ面のまま鼻からエクトプラズムのような煙をふきだし。


「しょっぺえ、からいっ」


 ヨアヒムは怪我した足を庇い、片足立ちで跳ね回って転び。


「みず、みずは、どこ!?」


 コップと水差しの水を飲み干したブリギッタは、台所へ走っていった。

 そんな阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄絵図を前に、クロードは涼しいカオで梅干のおにぎりを食べ終えた。


「レア。やっぱり一日じゃ漬けこみが甘いよ。もう一カ月置いておこう」

「領主様。百貨店の品です。わざわざ漬け直す必要はなかったのではないでしょうか?」


 東方にあるガートランド聖王国からの輸入品で、マラヤディヴァ国のごく一部で好評な伝統食品だ。

 発見したときクロードは感動に打ち震えていたのだが、一口食べてみると期待はずれだったらしい。レアは、彼の要望通り赤紫蘇あかじそと塩で漬け直したのだが、万人向けではなくなったように思う。


「レア、だまされちゃいけない。しょっぱくない梅干しなんて、悪しき商業主義が作り出したマガイモノだ。はちみつ? 減塩? 調味液? そんな小細工は無用。梅干しは、しょっぱくてすっぱいんだ。これこそ唯一の真実で、偽物に心を奪われた背教者は、砂糖地獄へと落ちるべきだなんだよっ」

「領主様。意味もなくあちこちに喧嘩を売らないでください」


 途中までは穏やかだったものの、結局エリック達の心に従来とは別の深い傷を残して、昼食は終わった。


「領主様。午後からは、ヴァリン公爵領の大学で、農学者のニコラス・トーシュ教授と面会の予定です。そろそろ出発しましょう」

「わかった。皆、今日はもう上がってくれ。待てよ。一緒に来るか?」


 エリック、ブリギッタ、アンセル、ヨアヒムは顔を見合わせて、頷いた。


――

―――


 レーベンヒェルム領南部にある山岳地帯は、熱帯雨林に覆われていて、越えるためには細い山道を通るしかない。

 熱帯雨林には危険な虫や動物がうようよしていて、古代遺跡から這い出してきたモンスターすら生息しているらしい。また、警察によってある程度のパトロールは行われているものの、夜は食い詰めた盗賊が旅人を襲うため、一般人はまずよりつかないという。


(これじゃ、完全に陸の孤島だ。レアには悪いが、初日にファヴニルから逃げても、僕の命はなかったんじゃないか……?)


 北に向かって海路を使えばあるいは、とも思うが、それはそれで領主と同じ顔というのが枷になる。

 逃げるにせよ、領を復興するにせよ、社会基盤インフラストラクチャ脆弱ぜいじゃくさは、最大の問題点だった。

 道路や橋梁きょうりょう、港湾はつまるところ、国家にとっての血管だ。国が国として生きること、交流によって社会を成立させるためにも、物流によって経済を振興させるためにも、災害の際にいち早く住民を避難誘導し救助にかけつけるためにも、必要不可欠な存在なのだ。


(それを無視して……。いや、あえて、なのか。十竜港を筆頭に、海運の大半は、共和国企業連に押さえられている。レーベンヒェルム領をマラヤディヴァ国の管理から切り崩すための布石のひとつ、か?)


 昔は山道以外にも、他領へ通じる小さなトンネルがいくつかあったそうだが、本物のクローディアスが邪魔だとばかりに埋め立ててしまい、代わりに西部連邦人民共和国の企業が大きなトンネルを掘ったものの、数年もしないうちに崩れてしまったらしい。


(故意にしても偶然にしても、今後インフラを整える時は、絶対に依頼しないでおこう)


 とはいえクロードが元いた世界でも、開通後わずか九ヶ月で橋が崩落するとか、大小あわせて六〇を超えるダムが数時間のうちに連続で決壊するとか、めちゃくちゃな手抜き工事をする国は存在した。

 日本を基準に考えてはダメだと、改めてクロードは心に念じた。


―――

――


「はじめて領から出た。よそは、こんなにスゲーんだ」


 馬車を降りたエリックが、感極まったかのように呟いた。

 ヴァリン公爵領の領都ヴォンは、人口こそレーフォンの四割に満たないものの、人々の暮らしも街の発展ぶりも、比較にならなかった。午後の太陽に焼かれ、汗を拭いながら鍬をふるう農民、人々でごったがえす市場、機械音が鳴り響く工房……。

 特に明確な差異が目の前にある大学だろう。池を囲むように建てられた複数の木造校舎はデザインも清潔かつ合理的で、学生らしい男女が朗らかに笑いながら歩いていた。少し離れた場所にあるのは、食堂と図書館だろうか?

 領民の大半が文字すら書けないレーベンヒェルム辺境伯領と、高等教育機関すら存在するヴァリン公爵領。クロードは胸の痛みを噛み殺して、告げた。


「行こう。もうすぐ約束の時間だ」


 研究室で待っていたニコラス・トーシュ教授は、悪名高い悪徳貴族が訪ねてきたと、当初警戒を見せていたものの、クロードが純粋に質問に来ただけと知ると、徐々に表情を緩めていった。


「ノーホーク? ああ、それなら輪栽式農法ですね。百年以上前に妖精大陸で導入されて、多大な成果をあげたと聞いています」


(すでにやられていた、か)


 特に落胆もなく、クロードはトーシュ教授の言葉を受け入れた。

 フィクションで異世界に転移するなり転生するなりして、知識無双で大活躍できるのは、文明・技術レベルが元の世界より低い場合であり、同水準であるならばまったく意味を為さなくなる。

 

(こっちは普通の高校生なんだ。農業改革なんて手におえるかぁ)


 である以上、専門家に聞くしかない。自分に知識がなくとも、知識を持つ人間は他にいる。それが社会というものだ。


「マラヤディヴァ国でも実現可能だと思います。詳しいプランはありますか?」


 クロードはもちこんだ農園の予定図を渡し、必要な資材や有効な魔法などについて相談した。

 会談はとんとん拍子に進み、クロードが領内の農地が荒廃していること、その復活を目指していることを話すと、トーシュ教授の目の色が変わった。


「では、土壌について説明しましょう。電子と原子の存在は知っていますか? 電荷を帯びた原子をイオンといいます。電子を受け取ったら陰イオン、電子を失ったら陽イオンです。土壌に吸着して、容易に他の陽イオンに置き換わる陽イオンを交換性塩基と言って、一般的にはこれを多量に含む土壌が肥沃とされます。土壌は酸性、中性、アルカリ性の……」


(なぜ農業なのに科学!?)


 ニコラス・トーシュ教授は、日が沈むまで機嫌よく懇切丁寧こんせつていねいに教えてくれた。おそらくは、大学講義の初歩的な部分の解説だったのだろう。しかし、参加者は頭痛で朦朧もうろうとしていた。

 大学を出たクロード達の足元はふらついて、今にも倒れそうだ。


「わかったような、わからないような……」

「俺は農家にならなくて正解だった」

「エリック、晩御飯はどうしようっか。料理は愛情だと思うの。記号じゃないよね」

「オレがなりたいのは商人であって、農家じゃねえっす」


 頼りなさを絵に描いたようなメンツだったが、レアだけはいつもの冷静な顔だった。


「領主様。問題ありません。必要な場合、私がお伝えします」

「う、うん。頼りにしてるよ、レア」


 悪徳であるかはどうかは別にして、我ながらダメっぽい領主だとクロードは自嘲する。

 最後の一人、アンセルは先程からうんうん唸っていて、ボーが待つ馬車が見えてようやく口を開いた。


「辺境伯様、教授は、面白いことを言っていましたね」

「面白かったような、わからないような」

「スライムのことです。遺跡に出没するスライムには、肥料として有用なカリウム、カルシウム、マグネシウムが適度に含まれていて、さらに魔術的な再生機能があるから、死骸を毒抜きすれば、肥料として使えて、土地の生態系を復活させる目的にも沿うだろう、と」


 確かに、そんなことを言っていた。


「アンセル。お前の伝手で人を集められるか?」

「辺境伯様。ぼくは……」

「反抗的だろうと、僕を恨んでいようとかまわない」


 もはや賽は投げられたのだ。ファヴニルと戦うためには、少なくとも領をひとつにし、その力を可能な限り強くした上で束ねなければならない。それが、死んでいった先達への供養だ。


「まずつくるのは、小さな役所と中規模な農園。ここから始める。奪われたレーベンヒェルム領の主権、共和国企業連から取り戻す!」


 クロードの宣言を、レアは瞳を閉じて、エリック達は目を驚きで見開いて受け止めた。


「エリック。明後日、僕を冒険者ギルドに連れて行け。スライム狩りは、僕も参加する」

「「「「ええええええっ!?」」」」


 そして、この日最後の絶叫が、夜空の下で響き渡った。


――

―――


「……なにも、あんな声を上げることはないじゃないか」


 屋敷に戻ったクロードは、屋敷の東端にある一室の扉を叩いた。夕刻の検診を終えた医師が彼を部屋へと招き入れる。部屋にはベッドが据え付けられていて、赤い髪の少女がひとり、目を包帯で覆われて眠っていた。


「……必ず、君を治すから」


 クロードは、少女の手をそっと握りしめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます