第289話 血と水が
「団長! うしろっ!」
「なにっ!?」
手下に声を掛けられたヴァフターが慌てて振り返る。
ヤツの目の前には赤いサメが鋭い頭をそちらに向けていた。ただし小さい。それこそ金魚くらいのサイズだ。三センチくらいだろうか。
彼女が育て続けてきた【鮫術】と、俺のコールでこの場で新たに取得した【血術】の結晶がそこにある。すなわち【血鮫】。小さいけれど。
いろいろと狂言を演じた結果、この部屋にいる人間の位置取りは窓から扉にかけて、順に俺、ヴァフター、騎士が二人、そして綿原さんと
そんな状況で綿原さんが小さな【血鮫】を浮かばせたのはヴァフターの背後。騎士がヴァフターに警告することができる、絶妙のポジショニングだ。
さすがは綿原さん。取ったばかりの【血術】であっても、サメとなれば容易く扱ってのける。
彼女が作った【血鮫】の材料はもちろん俺が流した血だ。足元にあったはずの血だまりは、いつの間にか消えていて、俺の進むべき道を示してくれていた。
「ふっ」
大声を出さず、痛みを堪えながら小さく息を吐き、俺は背中を向けたヴァフターに突撃をかける、なんてことはせず、その脇を駆け抜けた。
手にしているのは血を帯びたガラス片のみで、こんなものは推定十三階位以上の騎士に対して武器にはなり得ない。同じく体当たりでも似たようなモノだろう。どれだけ上手くいっても一瞬体勢を崩せるかどうか。だから、そういうムダなことはしない。
むしろさっきまで醜態を晒していた俺が、実はそうじゃなかったということで動揺と警戒を誘う方を優先する。
「がっ!?」
目の前のサメと背後から傍を駆け抜けようとする俺の両方に気を取られたヴァフターが、突如苦悶の声を上げた。
バカめが、大口を開けて驚いているからだ。
我らが【熱導師】、笹見さんの創りだした小さな『熱水球』を口に放り込まれれば、どんなに優れた外魔力を纏っていようとも気管がやられてタダではすまない。彼女の熱水は三層の魔獣を火傷させるくらいの威力を誇っているのだから。
そんな笹見さんの水球がどこから現れたのか。この部屋には彼女の【熱術】を警戒し、水気のあるモノなど存在していなかったはずなのに、ってか?
答えとしてはテンプレとしか言いようがない。この手の世界において魔法で水を絞り出す場合の常套手段、大気中に含まれる水分の凝縮だ。
一年一組の【水術】使いたち、すなわち【熱導師】の笹見さん、【氷術師】の
最初の頃は一年一組の秘匿技術として活動していたが、勇者担当者たちと仲良くなってしまってからは、水に関する大師匠の【湯術師】アーケラさんも参加して、今でも研究は続けられている。
結論からすれば、やはりイメージが重要ということになった。
風呂場の湯気のようにある程度見えていれば、さらには湿気を認識できればイケるようになったのだ。見えていなくてもそこに水はあるのだというイメージだ。典型的だよな。珍しく異世界あるある知識がストレートにはまった形になって、俺や
ただし、近くに水源があればそっちの方がはるかに手っ取り早いということで、水に溢れるアラウド迷宮や、そこかしこに水路が巡らされた水の城たる王城では、ついぞ出番のない技術でもあったのだけど。
ついでにいろいろな水も試された。
塩水、砂糖水、色を付けた水、ジュース、あとは先生には見えないようにしてアルコールも。
結果としては何もしていない水、とくに迷宮の水が一番だということで落ち着いた。次点でアラウド湖の水。このあたりはアウローニヤでも研究されていた分野だったので、再確認は簡単に終わり、シシルノさんがドヤ顔をしていたのを思い出す。
ちなみに体液、すなわち血だけでなく涙や唾液なんかも試してみたが、
さすがに『下』は止めておいたのも追加しておこう。藤永が渋々実験台になったが、尊厳的なレベルでムリだったらしい。
『【涙鮫】ってアリだと思わないかしら?』
などと言ってのけた綿原さんの根性はすごかったなあ。
汚い話は置いておいて、そう、湿気だ。
早朝のアラウド湖はモヤに包まれ幻想的なムードを醸し出すが、それは水気の集合体だ。
俺が窓に頭突きをした理由、それは逃走のためではない。もし窓から逃げ出すなんてことが可能なら、ヴァフターは窓に近づく俺を、最初から押しとどめていただろう。
俺が窓に求めていたのは、気を引くための異常行動と、自らを切り刻むためのガラス片、そしてアラウド湖からやってくる水気を帯びた風だった。
さらにはより広範囲から水を集めるために、笹見さんは【魔術拡大】を取得した。これも俺の指示だな。押し付けになってしまったのは申し訳ないが、緊急事態なので許してほしい。
それら要素が噛み合って、笹見さんは敵三人の死角になる部屋の天井付近に水球を形成し、俺が錯乱を偽装している時間を使って、じっくり【熱術】をつっこんだのだ。
空気を直接熱する『熱球』は即効性は高いが、さっきヴァフターに弾かれたように、簡単に高温領域を散らされる。
それに対して『熱水球』は温度を上げるのに時間を要するが、一度高温になってしまえば、術が解けても物理現象として熱水は残るのだ。それがヴァフターの喉元に叩き込まれた。【痛覚軽減】でも持っていない限り、階位でどうにかできるものではないだろう。
ざまぁ。
◇◇◇
「うおっ!?」
片膝を突き、喉に手を当て苦しむヴァフターの目に、ついでとばかりに赤いサメが体当たりを仕掛けた。最初は右で、すぐに左に。
もちろん魔力の相殺により直前で術は解けるが、塊となった血が目にぶつかればどうなるか、水などとは違い粘性があるのが血液だ。ある程度の時間は目潰しとしての効果を発揮するだろう。原材料が俺の血っていうのが精神的には微妙なところだけど。
やったのはもちろん綿原さんだ。【多術化】を持つ彼女は、三匹のサメを同時に操る。
ここまでが綿原さんが最初に【血鮫】を登場させてから、ものの数秒の出来事だった。
「こういうのを初見殺しって言うんだよな」
意想外の状況にヴァフターに駆け寄ろうとする残りの騎士二人を見て、俺はほくそ笑む。バカめ。
なにせ綿原さんと笹見さんは、慌てる騎士のうしろに、最初から陣取っていたのだから。
騎士たちとて背後に女子二人がいたのはわかっていたはずだ。だが、所詮は術師。トリッキーな攻撃でヴァフターにダメージを入れたもののそこまでのはず、だと。
「どっらぁぁぁ!」
「いよいしょぉぉ!」
そこの彼女たちは【身体強化】と【身体操作】を持つ、パワータイプの術師である故に、魔術を行使しながら物理攻撃が可能だ。この部屋に用意されていた鈍器を持ち上げ、振り下ろすことができる。ソファーともいうな。
さっきまで俺たちが座っていた木製で革張りのソファーは、大人が四人は座れるサイズだった。当然重量もそれなり以上だろう。そんな物体を十五歳の女子二人は両手で持ち上げ、上から叩きつけたのだ。
狙いは騎士ではない。ヴァフターだ。
相手は騎士団長にふさわしい高階位の持ち主のはず。最低でも十三と見込んで間違いは無いはずだが、それでも騎士二人は喉を負傷し、目潰しを食らったヴァフターを守る選択をした。
もちろん正解はヴァフターなど放っておいて、避けてからの反撃だ。あんな物体が当たったところでヴァフターが倒されるはずもないし、騎士たちならば見てから回避することもできたはずなのに。
対人では考えられない巨大な鈍器、騎士としての矜持、もしかしたらヴァフターへの信望なんていうのもあったのかもしれない。
両手を交差させた騎士たちはうずくまるヴァフターの前で、敢然とソファーを受け止めてみせた。すごい絵面だな。
ここで目が見えなくてもヴァフターがなにかしらの指示を出せていたら、また違った展開になっていたのかもしれない。俺はいいからヤツらを倒せ、とか言って。
「くっ!」
「がぁっ!」
真正面からソファーの直撃を食らった騎士たちは、それでも防御の姿勢を崩さずに立派にヴァフターを守り抜いてみせた。砕け散るソファーの破片がそこらに振りまかれるが、そんなものを気にも留めていない様は、立派な騎士だといえるだろう。だからどうしたという話だが。
「貴様らぁっ! あがっ!?」
「ぐあっ!」
両腕をクロスさせて防御をしてみせた騎士二人が反撃に出ようとした瞬間、それぞれの目に赤いサメと熱水がぶつかった。ご丁寧に二人ともが右目に血を受け、左目は熱湯だ。あれ?
「ついでに【多術化】も取っちまったよ。こりゃあ階位を上げないとねえ、八津」
今も空気から水気を吸い上げているのだろう、ふたつの水球の体積を増やしている笹見さんが、アネゴっぽくニヤリと笑った。調子が戻って来たじゃないか。
「やりすぎだよ」
「だけど役に立っただろう?」
だから俺も不敵に笑ってやるのだ。笹見さんが肘を突き出し、俺も血を流していない方の腕でぶつけ合う。こういうのって、俺にとってはマンガの向こう側の世界だったのに、こっちに来てからは普通にできるようになってしまったなあ。
「ねえ、ねえっ、八津くんっ。大丈夫なの、その傷っ。ああっ、血がいっぱい」
「落ち着きなよ。
「だって、
俺の左腕からしたたり落ちる血を見た綿原さんが取り乱した声を上げるが、その実、床に落ちた血は今も彼女の【血鮫】に吸収されている。こうやってみると吸血鬼的なナニカだな。
慌てふためいているのは本当なんだろうけれど、やるべきことはシッカリやってくれるのが彼女のすごいところだ。とくにサメが絡むとなると。
綿原さんが俺を心配する気持ちには疑問など欠片も感じていないのだけど、この状況では取り乱す綿原さんを宥めるのは笹見さんの存在だ。当事者の俺が落ち着けといったところで、だよ。
「……ブチ殺すってわけにはいかないのよね?」
「さすがにそれは」
物騒すぎる空気を取り繕わない綿原さんは、右手に太い木の棒を持っていた。
三十センチくらいの硬そうで歪な木の棒。あれは、ソファーの脚だったものか。
「よくも八津くんにぃ! どおぉらぁぁ!」
「がぁあっ。ぎっさまぁ」
「だぁぁい!」
「ぐごぉあ」
綿原さんは目や喉に受けたダメージで痛みに苦しむヴァフターたちを、ヒットアンドアウェイで何度も打ちのめした。とはいっても攻撃目標はあくまで膝と足首で、すなわち目的は相手の行動を不自由にするためのモノ。先生や
それでも相手は高い階位を持つ騎士だし、どれほどのダメージを与えられているものやら。
それに加え笹見さんも攻撃手段を瞬発力のある『熱球』に切り替えて、何度も相手の顔にブチ当て、敵の戦意を崩壊させていく。怖い、怖すぎるぞ、この二人。
俺が引き金を引いたとはいえ、この惨状は。
「大丈夫、八津くんが流した血は、わたしが全部活用するからね」
綿原さん、君はいつからヤンデレ系になったのかな?
「心配しなくてもいいわ。しばらく助けを呼ぶ声なんて出せないと思う」
「ごめん。ドン引きだよ」
「なに言ってるのよ。八津くんがそんなになったのは、全部アイツらのせいなんだから」
完全に吹っ切ったように語る綿原さんの脇には、小さな赤いサメが三匹揺蕩っている。完全復活だな。
綿原さんにサメは満たされた。
「で、どうすんだい? 八津。コイツらを人質にできるならまだしもさあ」
満身創痍のヴァフターたちを人質にしたところで、俺たちは弱者の立場だ。数で押し切られたら受け止められるわけもない。
「逃げる一手だ」
俺の言葉に二人が頷く。
本来ならここで、ヴァフターと取り巻き二名にトドメを刺しておくのが安全確実だというのはわかっている。だけど、俺たちはそれをしない、というかできない。精神的にも物理的にもムリだから。
奪われた視覚と焼ける喉を抱えながらも、ヤツらは必死にガードの姿勢を崩さないし、不用意に近づけばカウンターが飛んでくる可能性がある。というか、狙ってるはずだ。
それに高い階位を持つ者は、総じて傷の治りが早い。顔中を火傷塗れにしているが、喉のダメージはそう長く続かないだろう。もしかしたらだが、ウチの
割れた窓からの転落を恐れるヤツらは不用意には動けていないが、俺だって出血が多いのだ。あまり長居時間をかけるのは、ちょっと。
だから綿原さん、笹見さん、ヴァフターたちへの恨みはわかったから、そのへんで……。
「じゃあはい、八津くん。……それと、ガラスは持っておいて」
綿原さんから投げ渡されたのは、さっきまでヴァフターたちをボコっていたソファーの脚のひとつだった。合計八本あったのに残りは三本って、綿原さんはそこまで考えて相手をボコっていたのだろうか。
一分程度を使ってヴァフターたちをボコった二人は、妙にスッキリした雰囲気になっていた。やっぱり怖い。
それにしてもガラスを所望とは、……イザとなれば笹見さんや綿原さん自身の血までも使うという意思なのだろう。それを止めることを俺はしないぞ。ここまできて女子の肌に傷をなどと言うつもりはない。必要ならばやればいい。
木の棒を装備した俺たちは、閉じ込められていた部屋から飛び出した。
「ま、で」
か細いかすれ声が背後から聞こえたが、繰り返すぞ、ざまあみろだ。
ヴァフター、アンタはわかっていなかった。綿原さんと笹見さんは動ける術師で、対人戦でこそ輝くタイプだということを。
◇◇◇
木製の扉には鍵がかけられていたわけでもなく、ブチ壊すひと手間を省くことができた。
王城は基本、迷宮産の石で造られていて、階位で力持ちになれるこの世界でも、そうそうに壁を抜くなんてマネはできない。代わりというわけではないが、それ以外のオブジェクトは相対的に脆いとも言える。
本当の重要区画や牢屋なら、厳重な鉄の扉や窓には鉄格子なんていうのが使われているので、そう易々と脱走などはできないが、今回はそうではなかった。
たぶんヴァフターたちは俺たちの『価値』を知っていても、戦闘力を舐めていた部分があったのだろう。後衛術師が三人程度など、高階位の騎士が三人いれば簡単に制圧できると。
そうでもなければ、言いたいことがあったとしても真犯人たる宰相が直々に登場するなんていうフラグじみたマネをするわけがない。
俺の力を認めてはいたようだが、それはあくまで地図師や指揮官としての能力で、直接戦闘では比較にもならないという考えだったはずだ。大正解だよ、それは。
「調査会議で俺たちが絡め手を使ったの、観てたくせにな」
「先生と
ボツリとこぼした俺の呟きを、すかさず拾ってくれる綿原さんはさすがだ。通じ合ってる感がたまらないな。
「見張りもいないとか、どういうことさ」
「宰相の見送りに何人かつけたってところかな」
水を浮かせた笹見さんが周囲を警戒するが、廊下には誰もいなかった。
この状況でほぼ確信できたのは、この件に関わっている『黄石』は少ないだろうということだ。
ヴァフターが言っていた平民騎士には好きにさせているというのは、おそらく本当のコトなんだろう。だからといって全員が中立というわけでもないだろうし、廊下の先には敵対的な見張るがいる可能性だってある。
「どっち? 八津くん」
ここからのルート選択は当たり前に俺の仕事だと、綿原さんは確信しているようだ。是非とも応えてみせないとだな。
「とりあえず、下を目指そう。あっちだ」
それ程長くない廊下の右側奥に階段らしきモノがある。とりあえずはといったところか。
「さすがは【遠視】持ちだねえ」
「こういう時の八津くんはすごい頼りになるわよ、
「はいはい。なんで
「いいじゃない」
女子二人の軽口と共に、俺たちは走り出した。
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