第403話 雷対炎 四
月子がその名を口にした時、世界が闇に染まった。
これまでの輝かしい力とは対照的な暗黒が、荒野ごとレオンを飲み込む。
「何? 魔術領域だと」
月子の魔術は雷の発生と操作だったはずだ。
魔術領域の形成は簡単なことではない。リーシャの『聖域』やフィンの『我城』、榊の『
何の準備もなく魔術領域を形成し、維持するのは至難の業だ。それを可能にするとすれば、『沁霊術式』だが。
「そうは見えねーな」
月子が発動している魔術は、沁霊術式ではない。
それに近しいものではある。
間違いなく数分前の月子よりも、近づいている。
それでもそれは沁霊術式ではない。
つまるところこれは、伊澄月子が使える本当の魔術。
彼女は今この瞬間に、魔術師としてのスタートラインに立ったのだ。
──冗談だろ。
それはいくら何でもありえない。
魔術とは曖昧な己の根源に名前をつけるところから始まる。
名前があるから形があり、形があるから原理が生まれる。
これまで月子が使っていた金雷の魔術は、もはや魔術でも何でもなく、ただ魔力を上手に扱っていた程度のものだったということだ。
月子は金雷槍を手に、スゥッと空に浮かび上がった。
空も地面も黒一色で、遠近感が狂う。見えているのに、彼女がどこにいるのか、正確な距離感を掴みづらい。
「さて、待たせて申し訳なかったわ。始めましょう」
「ようやくエンジンかけましたってか。そんな付け焼き刃で、俺たちに勝てると思うなよ」
レオンは動揺を噛み潰し、意識を切り替えた。
どんな魔術だろうが関係ない。『
「今度は逃げ切れるか!」
レオンは剣の一振りで、何十発という『
闇夜に輝く小さな太陽が、大挙して月子へと押し寄せた。
同時にレオンは飛び上がる。
空にいようが関係ない。『
どれだけ距離を取ろうが、関係は──。
「は?」
『
防がれたわけでも、相殺されたわけでもない。
ただ自然消滅するかのように、力を失って霧散した。
同時に気づく。
月子との間にあった距離が、全く縮まらない。
彼女は浮かび上がった時と同じ大きさで、レオンを見下ろしていた。
「まさか、てめぇ──⁉︎」
ここに至って、レオンは『
この魔術領域が何のためのものだったのか、実感と共に理解した。
雷とは、古来神の怒りとして信じられていた神秘と畏怖の象徴。
決して人の手では触れられない暗天から振り下ろされる、最強の鉄槌。
この魔術領域は、それを再現している。
つまり、どんな攻撃も空にいる月子には届かない。物理的な距離の話ではなく、不可侵という概念だ。
そしてそれすら副産物。
そこから放たれる本命の一撃こそが、『
月子が口を開いた。
「『鳴れ』」
たった二音の詠唱。
それだけで空は呼応し、揺れ響く。
金の万雷が、闇を切り裂いて白い傷を残した。
「くそったれがぁあああああああああああぁああああ‼︎」
『
精霊の力は人智を凌駕する。
たとえ自然の猛威を相手にしても、決して怯むことなく、飲み込まん勢いで炎を巻く。
負けない。
負けるわけにはいかない。
不死鳥という最強の精霊に選ばれた自分が、極東の少女に敗北するなど、あるはずがない。
「ガァあああああああああああああああああ‼︎」
不死鳥の翼は、雷を全て弾き切ってみせた。
全身に雷撃がのたうった傷を刻みながら、レオンは剣を振り上げる。
不可侵の概念だろうと関係ない。最強の一撃を持って、この魔術領域ごと一刀両断にする。
「行くぞ‼︎ 伊澄月、子‥‥」
威勢に満ちた声は、折れた。
空からレオンを見下ろす少女に手には、一本の槍が構えられている。
槍はこの
その魔術は天を
天から
彼女は腕を振るう。落雷の如く
「『
それが目前に迫った時、レオンは剣を振り下ろすのをやめた。
どれ程の負けず嫌いであったとしても、これに
そう、思った。
代わりに彼の口は小さく動く。
「ごめんなぁ、ピィちゃん」
その言葉ごと、全てを金の雷光が飲み込んだ。
◇ ◇ ◇
青い空が見えて、レオンは少しの間状況を把握するのに時間がかかった。
生きて、いる。
間違いなく死んだと思ったが、生きている。
指先まで痺れてまともに動かせず、魔力もごく僅かしか巡らない。
それでも命はあった。
「もう意識が戻ったの? 呆れた頑丈さね。それとも、それもピィちゃんのおかげかしら」
頭の上で月子の声がした。
それでも視線を動かすことさえ困難で、レオンは聞くことしかできなかった。
「タイムリミットまでに痺れが切れるようにしておいたから、這えば扉には間に合うでしょう」
──何故、そんな情けを。
言葉は出なかった。
それでもレオンが思っていることは月子に伝わったのだろう。
彼女の声が聞こえた。
「私は対魔官で、人の命を奪うのが仕事ではない‥‥と言ったら
月子の声が遠くなっていく。
「これ以上、一つだって増やすつもりはないわ」
その言葉は、扉の中に吸い込まれていったようだった。
レオンは作り物の空を見上げ、やけに清々しい思いでいた。
──まったくもって、完敗だ。
月子の言葉通り、彼は死力を振り絞れば扉をくぐることができた。これまでのレオンであればそうしただろう。
リベンジに燃え、命を費やしたはずだ。
しかしそうはならなかった。
荒野の扉が迎え入れたのは、一人だけだ。
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