第105話 すれ違いの果てに

『――‼』


 それは妖刀と鬼、どちらの叫びだったんだろうか。


 傷口から黒い魔力が溢れ出し、細い身体がかしいだ。


 鬼の腕から抵抗力が失われ、障害のなくなった雷槍が胴体を半分近く消し飛ばした。金雷はそれに留まらず、全身を内部から焼き焦がす。


 もはやその存在が風前ふうぜん灯火ともしびなのは誰の目に見ても明らか。


 何もせずとも、一分と待たず消え去るだろう。


 しかし鬼は最期の一瞬まで、火を復讐に燃やした。残った腕で野太刀を振り上げ、俺を両断せんとする。妖刀は鬼の身体深くまで入り込み、抜く暇はなかった。


『我ハ、許、サヌ』


 太刀は既に黒を失い、銀色に鈍く輝く。それでも十二分に命を殺す輝きだ。反射的に魔術を組み上げようとするが、完全に気が抜けていた。朧げな意識では間に合わない。


「勇輔ぇ‼」


 月子の悲痛な声が聞こえたのは本物だったのか、あるいは俺の幻聴だったのか。


 噴き出す黒い靄の中で、おかしなものを見た。




 鮮やかな牡丹ぼたんが鬼を覆うように花開いたのだ。




 それが鬼の羽織っていた着物だということには、すぐ気付いた。


 本当なら槍の一撃で千切れているはずのそれは、不自然ささえ感じる程の美しさでなびく。


 ――何が起こってるんだ?


 呆ける俺の前で夢の様に白と赤が揺れた。次の瞬間、着物の裾から華奢な手が現れ、鬼へと伸びる。


 筋張った男の手とは違う、柔らかな女性の手。その指先が、優しい手つきで鬼面を撫でた。


 刀を振り上げたまま、鬼は止まっていた。


 それは妖刀もまた同様だった。握った柄から、驚愕の声が伝わる。


かおる、なのか‥‥?』


 確かにその時鬼を抱きしめるようにして、女性がそこにいた。丁寧にくしけずられた黒髪が流れ落ち、着物に女性らしいシルエットが浮かび上がる。それが誰なのか、妖刀が呟いた名は誰のものなのか。考えるまでもない。


 たとえ復讐に身をやつし、鬼道に堕ちて尚手放せなかった牡丹の着物。それは一滴の返り血も、僅かな傷もなかった。


 言葉はなかった。


 掲げられた野太刀が手から滑り落ち、地面に落ちて黒い塵に変わる。


 何も握らぬ手は宙をかきむしり、ぎこちなく彷徨さまよった。


 どうしてかその気持ちが俺にはよく分かってしまった。自分の手で触れれば、大切なものを汚してしまいそうで。鋭利な指先と加減を忘れた力は彼女を壊してしまいそうで。


 それでも女性の手に引かれ、唯一残った鬼の手が牡丹の着物に触れる。


 はじめは恐る恐る、そして痛いほどに力強く。互いを抱きしめ合う。


 二人は悠久を埋めるように、ただ静かにそうしていた。


 ああ、そうか。


 俺はてっきり鬼が着物を手放せなかったのだとばかり思っていた。


 それだけじゃなかったんだ。


 鬼が怨念に憑りつかれたように、妖刀が責務を果たさんとしたように、彼女もまた待ち続けていたのかもしれない。


 こうして鬼の心に触れるその時を。


 再会は一瞬にも、永遠にも思えた。


 鬼の身体が足元から塵となって舞い上がり、それに寄り添うように牡丹の花が散っていく。


 想い燃ゆる火の粉のように、どこまでも空高く。


 全てが消えようという時、女性の顔がこちらを向いた気がした。美しい黒髪の向こうで、精悍な男と快活そうな女性が優しい目で俺を見ていた。


 口が小さく動くが、その言葉を聞き取ることはできなかった。


 それもすぐ塵の中に溶けて消えて行く。


「‥‥」


 俺はただそれを見つめていた。


 やってきたことがなくなるわけじゃない。鬼は多くの人間を傷つけ、殺してきた。二人がこの後いずこに行くのか、俺には想像もつかない。


 それでも、二人の終わりを否定する気にはなれなかった。


 世界は色を取り戻し、緑の香りと蝉の鳴き声が満ち溢れる。顔を照らす木漏れ日が眩しく、まだ夢の中にいるような気さえした。


「終わったん、だよな」

『‥‥ああ、全てな』


 俺たちは満身創痍まんしんそういの身体で確かめ合う。


 世界と数百年の時を超えた因縁は、今ここに終わりを迎えた。

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