第106話 重なる傷

 戦いが終わったと思ったら、ドッと疲労が押し寄せて力が抜けた。


 倒れる前に妖刀を地面に突き刺して身体を支える。


『大丈夫か小僧。相当斬られておったが』

「傷はそんなに深くないから大丈夫だ。少し血が足りないからクラクラするけど」


 どちらかというと疲労の方が酷い。魔術なしで大立ち回りなんていつぶりだ。


 まあこんなのは数日寝れば治る。頑丈な体に感謝だ。


 それより今は気になることがあった。


「ふぅ」


 深呼吸をしてから魔力を回し、身体を起こす。


 横を向けば、そこには月子が立っていた。


 はかまを模した服は至る所が血で汚れ、綺麗な黒髪も酷く乱れている。大きな傷は肩とお腹の二か所。見た目の凄惨さに反して姿勢はいつも通り凛としていた。


 よかった。致命傷ってわけじゃなさそうだ。


 月子は何も言わずつかつかとこちらに歩いてくる。


 考えてみれば月子とまともに顔を合わすのは、ルイードとの戦いの後に喧嘩別れして以来だ。


 そっちの問題は一切解決してないんだよなあ。とりあえず今日はそっちに無理に触れる必要もないか。


「月子、怪我は大丈夫なのか?」


 月子は俺の問いに答えず、手が触れ合える距離まで来ると俺の服の裾を掴んだ。


「脱いで」

「は?」

「手当てするから、早く脱いで」


 いや、この程度の傷なら身体強化を使ってれば出血自体はすぐ止まる。


 しかしそんなことを言えるはずもなく、俺は悩んだ末に答えた。


「分かった。それなら自分でするから、道具だけ貸してくれるか?」

「‥‥分かったわ」


 てっきり拒否されるかと思ったら、月子は案外あっさりと頷いた。それから様々な治療道具を取り出し、説明しながら渡してくれる。


 俺は服の下で手早く血を拭い湿布のような止血シートを貼り、その上から包帯を巻いていった。


 その間月子は何も喋らなかった。


 まるで何かを我慢するように口を真一文字に結び、手当てが終わるのを待っている。


 近くに月子がいることがやけに不思議な感じがした。付き合っている時は隣にいるのが当たり前だったのに、今はそれが遥か昔のことに感じる。


 それでも彼女が近くにいるだけで、心臓が大きく跳ねた。


 一通りの処置を終えたら服を着直して立ち上がる。


「ありがとう、助かったよ」


 使った道具を渡すと、月子はそれを受け取るが、小さな手から包帯が落ちた。


「おっと」


 転がっていくそれを拾おうとして、止まった。


「――して」


 小さな声が聞こえたからだ。


 それは耐え切れなくなった月子の口から零れ出た言葉だった。


「‥‥どうして、ここに来たの?」


 彼女の目は伏せられて見えず、どんな表情をしているのかは分からない。


 俺は地面に刺していた妖刀の柄に手を添えた。


「それがさ、合宿の最中に黒井さんがお土産だってこれを買ってきたんだけど、今回の鬼と因縁のある妖刀だとかで、ここまで連れてこさせられたんだよ。俺が戦えたのだって、全部こいつのおかげだ」


 嘘は言ってない。ただそれが全てでもない。


「そう‥‥」


 月子は小さく呟いた。


 まさか俺が鎧の騎士だと疑ってるのか? 確かに最後の方は刀の使い方じゃなかったし、月子なら動きで勘づいてもおかしくはない。


 ただ次に月子から告げられた言葉は全く思いもよらないものだった。


「昔、勇輔の身体を見たことがあるの」


 月子は顔を上げ、俺の目を見ていた。透き通る黒曜石みたいな瞳に映るのは、間の抜けた俺の顔だった。


 彼女は続ける。


「たまたま部室で着替えていたところに扉を開けてしまって。その時に見えたの」


 言いながら、細い指が俺のシャツを撫でた。


 ――いや、違う。彼女が触れているのは、その更に奥だ。


 月子の言いたいことを理解して、冷水を頭から被せられた気がした。高ぶっていた鼓動が、絞め殺されるように潰れていく。




「傷だらけだったわ」




 指が、触れる。隠してきた罪を優しく掬い上げるように。


「‥‥」


 俺は何も言えなかった。月子が言っているのは今日できた傷じゃない。勇者時代に刻まれた戦いの爪痕。


 一番大きなものは魔王に付けられた胸の傷で、他にも大小さまざまな傷跡が俺の身体には残っていた。


 聖女の魔術で大分薄くしてもらったから、普段の生活では気にならない程度だけど、胴体に残る魔王や『ガレオ』から受けた傷は完全に消すことはできなかった。


 なるべく人に見られないように気を付けてきたつもりだったけど、そうか、見られてたのか。

一番見られたくない人に。


「昔教えてくれたわよね。自分は中学生から数年間分の記憶がないんだって。神隠しみたいにいなくなって、気付いたら帰って来てたって」

「‥‥ああ」


 確かにその話はしたことがある。


 調べれば出てくる話だし、家族や昔の話になればどうしたってそれに触れずにはいられなかったからだ。


 ただその間のことは何も覚えてないということになっている。家族も、世間も、月子も。


「私には何があったのか詳しくは分からない。‥‥でも、予想ぐらいできる。きっとあなたは信じられないくらい辛い思いをして、たくさんの痛みを抱えて」


 月子の指がシャツを掴む。


 その手は氷雨ひさめに打たれるかのように、小さく震えていた。


「こうやって誰かを助けるために、戦ってきた」

「‥‥」


 月子にそう言い当てられ、俺は無様にも答えを告げることはできなかった。


 しかし彼女もまた正否を求めていたわけじゃなかった。


 俺を見る目が歪み、口元が言葉を紡ぐ。ふと気を抜けば感情の全てが決壊してしまう、そんな危うさの中で、懸命に。


「私は‥‥私は、もうあなたに傷ついてほしくないの。それが我が儘でも、結果的に勇輔と離れることになっても、それでも」




「私の、大事な人だから」




 その小さな声は、胸の奥深くに突き刺さった。


 それは突然の出来事だった。雷に打たれたかのように、月子の顔と、俺を突き放したエリスの顔が重なる。


 似ても似つかない二人。




『もう、あなたは必要ないの。ねえ、分かるでしょ。この世界にとっても、私にとっても、邪魔なだけの存在なのよ』




 言葉は違うのに、今にも泣き出しそうな顔が。震える声が。


 ――――――――――――――あ。


 理解した。してしまった。あるいは今までその可能性から目を背けていたのかもしれない。


 気付かなければ恨んでいられた、優しい嘘と残酷ざんこくな真実に。


 俺は、今も、昔も、選択を間違えたのだ。


 力が抜け、地面が揺れ始める。何とか立っていられたのは、これ以上みっともないところは見せられないという下らない虚栄心故だった。


 月子の手がシャツから離れ、彼女は顔を伏せた。


「ごめんなさい、助けに来てくれたのにこんなこと。本当にありがとう。あなたが来てくれてなかったらどうなっていたか分からなかったわ。すぐに他の対魔官と合流して、きちんとした医療道具と着替え、持ってくるわね」

「あ、ああ」


 離れ行く彼女に言えたのは、それだけだった。

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