第42話 それは小さくて些細な、在りし日の宝物

「‥‥会長、どうしたんです、そのお酒」

「ん? ああ、これはボトルで取っておいてもらってるんだ」

「大学生のすることじゃないと思いますけど」

「日本酒をかぱかぱ空けてるお前には言われたくないぞ」


 いつの間にやら陽向の隣で酔いつぶれていた松田はどかされたらしく、早坂は空いていたグラスに焼酎を注ぐ。


「で、あれは一体どういう状況なんだ?」


 そして、目だけで膝枕を続ける二人を指した。


「普通の介抱みたいですよ、リーシャちゃんが言うには」

「海外だとあの程度のスキンシップは当たり前なのか? それとも若いからか? 若さなのか?」

「私に聞かれても分かりません。ただはじめてじゃないみたいですけど」

「こりゃ本当に通報の必要性がありそうだな」


 そう言いながら、早坂はケラケラ笑った。とはいえ、勇輔との付き合いも一年以上、少なくとも女を悲しませるような人間じゃないことはよく知っていた。だからこそ言える冗談だ。


「にしても」

「なんですか?」


 陽向も焼酎を己のグラスに注ぎ、口をつける。甘くて癖のある香りが口の中に静かに広がっていった。


「確かに勇輔は良い奴だけど、どうして月子もお前もあいつに惚れるのかね」

「ぶっ!?」


 突然早坂の口から飛び出た言葉に、陽向は思わず焼酎を飲み込み、咽た。一気に流し込んできたアルコールに喉が焼け、熱くヒリつく。


「んな、な、何を言って、言ってるんですか!」

「そこまで動揺したら、もう認めてるようなもんだと思うが‥‥」

「それは、会長が突然変なこと言うからでしょう!」

「はいはい分かった分かった、私が悪かった」


 両手を挙げて降参をする会長に、陽向が恨めしそうな目を向ける。ただ、それくらいで酒の入った早坂を止めることはできない。


「でも不思議じゃないか? 月子は明らかにいいところのお嬢様であの容姿、男なんて選び放題だろうし、リーシャはあんな感じだ。なんでまたあいつの周りに綺麗どころばっかり集まるんだろうな」


 早坂は一年前を思い出しながら焼酎を煽る。伊澄月子がこの大学に入学した時は、それはもう男女問わず大騒ぎになったものだ。


 顔に自信のある男子は軒並み彼女にアプローチを取ってはすげなくあしらわれ、その人気に嫉妬してちょっかいをかけた女子たちも全員返り討ちにあった。


 月子が文芸部に入るなんてなった日には、それはそれは大変な事態になったものだ。毎年十人も入れば上々な文芸部の入部希望者数は五十人近くまで膨れ上がり、例年ならあり得ない面接テストまでする羽目になったのだ。


 文芸部アカウントのSNSで「月子が文芸部に入るのはデマ」という噂まで流し、なんとか収拾を付けることが出来たが、今思い返しても集団心理とは恐ろしいものである。


 文芸部も当然、荒れに荒れた。手の早い男が早々に月子に唾をつけようとして撃退されるは、女性に免疫のない男たちが重篤な恋の病に落ちるは、事態はカオスの一言。


 最終的に勇輔と月子がくっついたおかげで沈静化したものの、その時はとにかく驚いた。月子が男と付き合うのも、その相手が勇輔というのも。


 結局二人は別れてしまったわけだが、新入生の陽向は明らかに勇輔を意識しているし、突然現れたリーシャは見ての通りだ。


「そんなにモテそうなタイプには見えないんだけどな」

「さあ、よく分かりませんけど」


 なんとか平静を取り戻した陽向は、酒のせいか別の理由か赤くなった顔のまま言った。


「先輩は良い人ですよ」

「ほう」


 ニヤリと早坂の口角が上がった。


「でもいい人というなら、総司の方がよっぽど色々やってるだろ。見た目も良いし、腕っぷしが強いから頼りがいもある」


 早坂が総司のいいところを指折り数えると、それにつれて陽向の表情が面白くなさそうなものに変わっていく。


「‥‥先輩にも頼れるところはあります」

「ふむ、たとえばどんな?」

「困っている人は見捨てませんし、私の頼みごとはほとんど断ったことありませんし‥‥」

「そりゃ陽向に頼まれたらほとんどの男は二つ返事でオーケーだろう」


 む‥‥、と陽向の唇が引き結ばれる。彼女にも多少の自覚はあった。


「そもそもなにが切っ掛けでそんな勇輔と仲良くなったんだ? 気付いたら一緒にいることが多かったが」

「切っ掛けですか」


 切っ掛け。そう言われて、陽向はぼんやりと靄のかかった頭で思い出す。




 それはほんの数か月前、文芸部の新歓コンパでの出来事だった。


 陽向の両親は一人娘の彼女を溺愛しており、陽向は小中高とミッション系の女子高で過ごしてきた。


 ただそんな両親からの過干渉からか、あるいは天性のコミュニケーション能力を持つ故のストレスからか、陽向は次第に共学というのもに憧れを持つようになっていった。


 髪を染めたのも、男受けのするキャラ作りも、全てはこれまでの自分からの離別であり、同時に憧憬への第一歩だ。


 ある意味で陽向の目論見は成功した。入学式初日から男女問わず多数の友人を作り、興味のあった文芸部への入部も決まった。誰とでも仲良く、憧れていた自由で賑やかな生活。


 ただ一つ彼女に誤算があったのは、『男』という生き物を正しく認識していなかったことだ。


『あれ、ゆかりちゃんだったよね、お酒飲めるの?』


 新歓コンパが始まってから随分経った頃、陽向の前に一人の男性が座った。茶髪にピアスをつけ、爽やかな顔立ちには柔和な笑みを浮かべている。たしか三年生の先輩だったはずだ。


 たしかにその時陽向はカクテルを飲んでいた。大学への入学が決まってから父の晩酌に付き合うことが増え、お酒にも慣れてきたため、誰が頼んだのか分からず残っていたカクテルを貰っていたのだ。


『いいね、新入生であんまり飲める人いないからさ』


 はあ、と曖昧に頷いている間に、気付けば男は陽向の前に陣取り、流暢に喋り始めていた。


 間違いなく陽向のコミュ力は一級品だが、男もまた文芸部の中では『すけこまし』と呼ばれる手練れ。お酒の場という経験が問われる環境もあって、陽向はいつの間にかどんどんお酒を飲まされていた。


『ねえ、紫ちゃん大丈夫?』


 え、と思った時には男は陽向の隣に座り、腕が肩に回されている。女とは違う、硬い筋肉の感触に、耳元で囁かれる低い声。短い時間で取り込んだアルコールによる酩酊感めいていかんに、思考がうまく回らない。


 陽向の目が隣の男から逃れるように周囲を見渡すが、酒の入った文芸部員たちはそれぞれグループを作って話しており、陽向と目があった数人も隣にいる男に気付くと、目を逸らした。


 三年生の中でも、力のある人間。その邪魔をすれば今後サークルでの立ち位置がどうなるのか。今の陽向であれば分かる、どこにでもあるコミュニティーでの生存戦略だ。


 空気は大事だ。人と人とが同じ場所で生きていくためには、その場を支配する空気を敏感に悟った人間だけが生き残れる。それを嫌うのであれば、その空気を操れる立場になるしかない。そして、大学生になったばかりの陽向にはその力がなかった。それだけの話だ。


 ただ、陽向は知らなかった。いや、会ったことがなかったのだ。


『あれ先輩! そんな端っこで飲んでどうしたんですか、俺とも飲みましょうよ!』


 そんな空気なんぞ知ったこっちゃないという人間がいるということを。


『ゆ、勇輔。なんだよ』

『先輩こそ、どうしてそんな嫌そうな顔するんですか。折角なんだから俺とも飲んでくださいよ!』


 片手にビールのグラスを持ち、赤ら顔で現れたのは、山本勇輔。流石の男にも凝視されている中で肩に手を回す度胸はなかったのか、素早く手が外された。


『飲みましょー』

『んだよ、俺は今この子と話してんの。見りゃ分かるだろ』

『先輩は俺との酒が飲めないって言うんですか!』


 明らかに嫌そうな顔をする男に、しかし勇輔はまるで怯むことなく絡む。


 勇輔の声に周囲からの視線が集まり、男は舌打ちをすると席を立った。


 そんな男の背を、勇輔は憮然ぶぜんとした表情で見送る。


『はん、女を口説くなら酒になんざ頼らず正面からいくんだな』 


 そう言って、勇輔はそのままぐったりと陽向の隣に座り込んだ。顔は真っ赤で、呼吸が浅い。見るからに飲み過ぎだ。


『あの、大丈夫ですか?』

『‥‥大丈夫じゃない。吐きそう』


 明らかに飲まされていた陽向よりも死に体だ。顔を上げるのも辛いらしく、腕の中に埋めたまま目だけを陽向に向けてきた。


『俺は山本勇輔だ。君は?』

『私は陽向です』

『陽向か。‥‥いい名前だな』


 あ、勘違いされていると陽向は気付いた。陽向は名字なのだが、名前に間違われることも多い。


 普段ならその場で訂正して終わりなのだが。


『なんだかあったっかくて、穏やかになれる』

『‥‥そうですか‥‥ね』

『おう、名は体を表すって言うしな。流石にあんな輩にまで優しくする必要はないと思うが』


 そう言って勇輔は笑い、そのまま顔を青くさせて机に突っ伏した。


 助けに来てくれた、ということだろう。いささか格好のつかない様であるけれど。その姿を見ていると、気を張っている自分が馬鹿みたいに思えてきて、陽向は思わず笑ってしまった。


『そうですね、先輩。陽向もそう思います』


 周りの人から見たら本当に些細なものだったかもしれないけれど、今陽向が抱く思いのルーツを辿るとしたら、この出来事こそが始まりだ。


 後になって陽向の名前が紫だということを知り、勇輔は悶絶する羽目になるのだが、それはまた別の話。




「とまあ、そんなことがありまして、それからですかね、先輩とよく話すようになったのは」

「はーーーーーーん」

「なんですか、その腹立つ顔は」

「いやーーー、なんでもないけどさーーーー」


 なんでもないと言いながら、明らかににやけている早坂に、陽向は目を細める。明らかに面白がられている。


「何か言いたいことがあるならお聞きしますけど?」

「いやーーー、別にーーー?」

「‥‥会長なんて総司さんをデートに誘うことも出来てないくせに」

「ぶぁっ!? っ、はっ、な、何を言って!」


 陽向の呟いた言葉に、今度は早坂が咽る番だった。勇輔が気付く早坂の気持ちに、たった三か月でも陽向が気付かないわけがない。


 攻守の逆転した陽向は、すぐさま畳みかけた。


「人のこと笑っていられる立場ですか、陽向は先輩と出かける約束はしましたよ」

「ぬ‥‥、私だってただ手をこまねいているわけでは」

「総司さん人気者ですからねー、一年生の中にも狙っている子はたくさんいますよ」

「ぬぐぅ! そ、そういう陽向こそ、今勇輔はリーシャと一つ屋根の下だぞ!」

「はうっ!」


 二人は突き刺さった鋭い痛みに胸を抑えた。


 そしてどちらからともかく顔を上げて言った。


「もう、やめよう」

「そうですね、やめましょう」


 お互いに恋のライバルというわけでもない。ここで二人傷をほじくり合うのは、あまりに不毛だった。


 かたや変人たちを束ねるサークルの長、かたや入学数か月で人間関係の中枢に食い込むコミュ力の塊。


 しかしそんな二人はどちらも女子高育ちの純粋培養。そんな二人が額を突き合わせたところで、意中の相手を落せる妙案が浮かぶこともなく、ただただ焼酎のかさだけが減っていくのだった。

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