第43話 悩める乙女と寝ぼける阿呆

 そんな風にして恋愛弱者の二人が酒に溺れている頃、テーブルの反対側では残った二人が顔を合わせていた。


「‥‥」

「‥‥」


 安い照明の下でも美しく輝く濡れ羽色の髪に、見目麗しい容姿でカクテルをちびちび飲んでいるのは、伊澄月子いすみつきこ


 その対面でビールを飲む赤髪の青年は、金剛総司こんごうそうじだ。


 ゲームが終わってからいつの間にかグループは三つに分かれ、酔いつぶれる松田と勇輔、それを介抱するリーシャ。二人でお通夜のような雰囲気で話す陽向と早坂。


 そしてそんな彼らから取り残されたのが、月子と総司だった。


「こうやって飲むのも久しぶりだな、伊澄」

「そう? 文芸部での飲みがあったでしょ」

「こうやって顔つき合わせて飲むことあったか?」

「それは‥‥ないかもね」


 落ち着いた声色で、二人は淡々と言葉を交わす。どこまで踏み込んでいいのか、言のを重ね合わせ、相手の思惑を探る。


 元々この二人は同級生のサークルメンバー。しかも同じ学部とあって、一緒に飲んだりご飯を食べたりすることは多々あった。


 だが、それは二人きりでというわけではない。


 お互いにお互いが気になっていた勇輔と月子、その二人の間に立つ形で総司は参加していたのだ。


 当然、勇輔と月子が付き合うようになってから総司が二人と一緒にいることは少なくなったし、別れてからは言うまでもない。


 総司の立場は複雑だ。月子と勇輔、どちらも大切な友人ではあるが、付き合いとしては勇輔との方が長い。だからどうしても月子とは疎遠にならざるを得ない。


 ある意味で今日の飲み会は、総司にとってもチャンスだった。


 二人で向かい合って飲んでいても、月子は恐らく気を付けているのだろうが、それでも彼女の視線はチラチラと横を向く。


 総司にもその気持ちはよく分かる。


 友人が絶世の美少女に膝枕をされているのだから当然といえば当然、元とはいえ恋人だった月子は総司の比ではないだろう。


 ――にしても。


 総司はぼんやりと月子の綺麗な顔を見つめながら考えた。勇輔の言い分を聞くに、相当こっぴどくフラれたそうだが、見た所月子が勇輔を嫌っているようには見えない。


 たしかにこの飲みの間、月子は絶対に勇輔と視線を合わせようともしなかった。それは授業、サークルでも同じだ。


 ただそれは本当の嫌悪ではない。本当に嫌っている場合、人は無意識の内にその原因を避けようとする。


 けれど月子は見るからに意識的に勇輔を避けていた。


 今もだらしなくリーシャの太腿で寝こけている勇輔を見ては、感情を隠すようにお酒に口をつけているので、間違いなく意識しているのだ。


 ただ結局のところ、どうして月子が別れたのか、その真なる思いはどういったものなのか、それが分からない。別に二人の仲を取り持とうと思っているわけではないが、同じ学部でサークル仲間だ。気まずい空気は解消した方がいい。


 なので、総司は単刀直入に聞くことにした。


「なあ伊澄」

「なに」

「なんで勇輔を振ったんだ?」

「ッ‥‥!?」


 流石良家のお嬢様というべきか、訓練された戦士というべきか、月子は飲んでいた酒を噴き出すような無様な真似はせず、一瞬複雑な表情をし、すぐにいつもの無表情に戻った。


「別に、関係ないでしょう」

「そりゃ関係はないかもしれんが、俺としては友達に戻れるような理由なのか、そうじゃないのかくらいは聞いときたいと思ってな」

「‥‥どうして」

「いつまでもお前らがその調子だと、俺たちの方が気を使うからよ。せめて普通に話すくらいは出来ないのか?」

「‥‥」


 総司の問いに、月子は逃げるようにカクテルに口を付けた。


 月子も、今の状態がいいとは思っていなかった。


 たとえ恋人には戻れなくても、昔みたいに皆で笑い合える日常に戻れたら、それはどれほど幸せだろうと。


 だが、そう考えると同時に月子の脳裏にはある光景が浮かぶのだ。


 別れ話を切り出した時の勇輔の悲痛な顔が、学校で再会した時の呆然と自分の名を呼ぶ声が。それらは重く胸の中心に食い込み、鈍い痛みを発し続ける。


 今まで感じたこともない痛みに、月子は普段ならば絶対に言わないだろう言葉を口にしていた。


「元に‥‥戻れると思う‥‥?」


 総司が驚いた顔で月子を見ていた。


 この見るからにヤンチャしていそうな青年は、その反面とても心配りの出来る人だ。だから月子が自分の心情を言うことが苦手なことも、弱音を吐いたりしないこともよく知っていた。


 だから、驚いたのだ。月子が本心を吐露したことも、彼女の中で勇輔がそれだけ大きな存在だったことも。


「‥‥うーん、完全に元の関係に戻るってのは、無理だろうな。一回変わった関係はもう同じ形にはなれないと、俺は思う」

「やっぱり、そうよね」


 総司はグラスから手を離し、「けどさ」と続けた。


「新しい形にはなれるんじゃないか。あったことを無しにはできないけど、それを踏まえた上で次の関係をつくることはできるはずだろ」


 人はいつまでも同じ関係でいることはできない。何かがあって、あるいは何もない故にその関係は変わり続ける。


 ただ今回はその変化が急激だった、それだけのことだ。


 月子は『新しい形』という言葉を噛みしめて、総司を見た。


「そう‥‥たしかに、そうね」

「おう、難しく考えるなよ。大学生の付き合って別れてなんて日常茶飯事なんだからさ。誰かが死んだわけじゃない」

「‥‥ありがとう」


 ケラケラと笑う総司に、月子はなんだかホッとした気持ちになった。勇輔と別れて、これまであった関係が全て無くなってしまうんじゃないか、心のどこかで、その恐怖がずっとあったのだ。


 でも、総司も松田も、サークルの仲間たちも、誰も月子を責めなかった。突き放された勇輔でさえ、こうして同じ席についてくれる。


 それがどことなく嬉しくて、擽ったい。時間が経てば、こうやって勇輔とも普通に話せる日が来るのだろうか。その未来はとても暖かくて幸せな気がした。


 ふふ、と随分久しぶりに頬が緩む。


 そうして、本当に無意識の内に視線を横に逸らし、そこで月子は硬直した。




「ん‥‥ぅあ‥‥」

「あっ、ちょっとユースケさん、そっちは駄目ですよ!」

「やわ‥‥らか‥‥」

「ふあ! ユースケさん!」


 勇輔バカが、リーシャに抱き付いていた。


「‥‥」


 膝枕をされていた体勢から、寝ぼけているのだろう、顔をリーシャのお腹に埋め、両手が腰の部分をがっちりホールドしている。微かに見える勇輔の横顔はだらしなく緩んでいた。


 ――は?


 ピシッ! と月子が持つカクテルのグラスに罅が入ったが、そんなこと、彼女の頭の中には入って来なかった。


 頭の中を埋めるのは、湧き上がる激情だ。


 ――あれか、私が全力でこちらの世界に首を突っ込むなと忠告したというのに、それを真っ向から否定したのはこういう理由か。大体柔らかいって言った? 確かに対魔官として鍛えた私の身体は硬いかもしれないけど、まさかそれとリーシャを比べてる? 


 今更ながら、自分の忠告が聞き入れられなかった憤り、その時の勇輔を格好いいと思ってしまった羞恥、それを裏切られたと思う身勝手な自分、リーシャとの仲を見せつけられる嫉妬、そんな全てが混沌に混ざり合う。


 様々な思いに突き動かされ、月子はダン! と立ち上がった。


 対面に座る総司が、あまりの気迫に呆然としていたが、そんなこと知ったことではない。


「‥‥」


 月子は歩き出す。


 新しい関係とかなんだとか全てを忘れて、ただ、ロリコンおっぱい星人の犯罪者に鉄槌を下すために。



    ◇ ◆ ◇



 微睡まどろみは天国で、寝起きは地獄だった。


 なんだかよく分からないが、頭を柔らかい何かが包みこみ、しかも暖かくていい匂いがする。昔デパートで人を駄目にするソファに座ったことがあったが、あれの比じゃない。まさしく極楽浄土。


 ああ、このまま死んでもいいかもしれない。そうぼやけた頭で考えながら、よりより姿勢を追い求める。もっとこの天国を直に感じたい。全力で知りたい。


 それは生物として当然の本能だった。快楽なんて下卑た言葉では表せない、心が浄化されるような心地よさ。


 戦争なんて、魔王討伐なんて必要なかったんだ。人類の全てがこの感覚を知れば、世界は平和になるに違いない。


 そう思っていた時期が俺にもありました。


「‥‥」


 まぶたを挙げた時、その先には平和と対極の位置にあるような目で、月子が俺を見下ろしていた。


 視線だけで殺されると思ったのは久々だ。


 まるで地獄の獄卒かと見紛みまがわんばかりの殺気を発する月子は、無言だ。それが余計に怖い。


 え、なに? なにが起こってこんなことになってんの?


 というか今の俺横になってる状態なのか、それにしてはやけに頭を包む感触が柔らかいな。


 ん、柔らかい?


「‥‥」


 えー、確認しよう。


 何故か今の俺はリーシャに膝枕をされている体勢で、更に俺の両腕はリーシャの腰に回されている。


 ほぼ抱き付いてますね、これは。


 そしてそんな俺をドン引きした様子で見つめる陽向と会長がいて、松田は潰れている。総司はなんとも言えない表情をしていた。


 さて、いつまでも現実逃避していてはいけない。


 正面で仁王像よろしく立っている月子をどうにかしなければ、俺は多分死ぬ。


 まさか魔族と関係のないところで命の危機に瀕するとは。


 そもそもなんで月子はこんなに怒ってるんだ、護衛対象そっちのけで酔いつぶれていたことか、それともそこに抱き付いていたことか。


 まさか、妬いてるなんてことは――、


「‥‥」


 ありませんね、はい。


 あの目は三角コーナーにたかるゴキブリを見る目だ。背筋が凍って折れるかと思った。


 ただ待って欲しい、俺がなにか悪いことをしただろうか。確かに最近は魔術の練習をしていてそのままリビングで寝落ちすると、リーシャに膝枕されていることもあったが、俺はちゃんと止めたんだぞ。


 でもリーシャは止めないし、まさか外でまでされると思わないじゃん。そして一度膝枕されてしまえば、人間はあの誘惑に耐えることはできない。


 寝てる間にしたことはノーカンだろう。


 だからここは毅然とした態度で挑むべきだ。俺は何一つ悪いことはしていない。怒られるようなことはしてないのだと。


「まずは聞いてくれ、月子」

「‥‥それを聞く前に、その手はいつまでそこにあるわけ?」

「‥‥」


 そっとリーシャの腰に回された手を離す。


「聞いてくれ月子」

「何を? いつまであなたの頭がそこにあるか?」

「‥‥」


 スッと上体をリーシャの太腿から起こす。その途中、危うく立派に突き出たお胸様に触れるところだったが、紳士の俺がそんなヘマを犯すわけがない。ちなみにリーシャの顔が何故か赤くなっていた。なにしたんだろう、俺。


 まあそんなことは後でいい。改めて椅子に座り、月子の目を真っ直ぐ見た。


「聞いてほしい、月子」

「言い訳を、聞くと思う?」


 いえ、本当に俺が悪かったので謝らせてくださいごめんなさい。


 勿論そんな言葉を言う暇があるはずもなく、月子の手が俺の首にあてがわれ、鋭い雷が全身を駆け抜けた。

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