第279話 残された少女たち

      ◇   ◇   ◇




 勇輔はしばらく一人になりたいと、家を出た。


 責任感の強い彼のことだ。この状況でそう遠くに行くことはないだろう。もしかすれば、屋根にでも上って空を見上げているかもしれない。


 伊澄月子は重苦しい沈黙の中、立ち上がることもできずリビングにいた。


 既にコウガルゥはいない。話すべきことは話したと、早々にどこかに消えてしまった。


 後に残されたのは、突然の話に停止する月子たちだけだった。


(エリスさん‥‥昔勇輔が話してくれた人)


 シェアハウスが始まって少し経った頃、月子は勇輔の部屋を訪れたことがあった。異性と手をつなぐだけで心臓が跳ねる月子からすれば、崖から飛び降りる覚悟だった。


 そこで聞いた異世界の話は、あまりにも突飛で、けれど鮮烈な現実味を帯びていた。


 勇輔が生きてきた世界は過酷だからこそ、輝いて見えた。


 どの話も月子にとっては面白いものであったが、その中でどうしても聞き逃せない名前が何度も出てきた。


 それがエリス。


 勇輔は本当に昔の仲間や友のことを楽しそうに話す。きっとこれまで誰にも話すことができなかったからだろう。自分のことはたいして話そうともしないのに、仲間の話になれば十も二十も自慢が出てくるのだ。


 しかしエリスの話をする時の勇輔は違った。


 壊れてしまった宝物を扱うように、話す。


 あのどこか悲し気で、いつくしむような目を見た時、月子はどうしようもなく心がざわついた。


 それは、月子と勇輔が恋人同士だった時、彼が向けてくれていた目と、似ていたからだ。


 だが、現実は違った。


 勇輔がエリスに向ける思いは、恋や愛などという簡単な言葉で片付けられるものではない。自分と同じなんて、思い上がりもいいところだ。


 その事実を今、月子は噛み締めていた。


「ねえ」


 月子もリーシャも、カナミも黙って座る中、そう声をかけたのは、意外な人物だった。


「少し話す?」


 三人分の視線を受けながら、シャーラはいつも通り眠たげな眼で首を傾げていた。


 月子はゆっくりと頷いた。


 自分に何ができるかなんて分からないが、勇輔の力に、支えになると誓ったのだ。落ち込んでなどいられない。


 そしてそのためには、情報が必要だった。この場でエリスのことをよく知る人物は、シャーラだけだった。


 彼女は他二人の沈黙も肯定だと受け取ったらしい。そのまま話し始めた。


「ショックだった?」

「私は大丈夫です。今は、勇輔が心配です」

「それは心配しなくていい。ショックではあるだろうけど、今のユースケなら自分で折り合いをつけられる。だからコウも話した」

「‥‥そうですか」

「きっとユースケもどこかで気付いていた。今は整理する時間が欲しいだけ」


 シャーラの言葉に、月子は胸が痛くなる。


 彼女もまた、月子の知らない過去、勇輔の隣にいた女性ひとだ。


 自分よりもずっと勇輔を理解している。




「‥‥本当に、そうでしょうか?」




 そんな月子の考えを否定するように、横から声が聞こえた。


 それは普段の彼女を知っていれば、あり得ないような声色だった。


「リーシャさん‥‥」


 リーシャが、赤い目を暗く輝かせてシャーラを見ていた。


 彼女は優しく、献身的な少女だ。敵である魔族にさえ慈悲の心を見せる、聖女。


 月子から見てもどこか非現実的で、浮世離れしたリーシャだが、常に人当たりよく、誰かに怒っている様子は見たことがない。


 そんなリーシャが、明らかに怒りを秘めた目で、シャーラをにらみつけていた。


 そしてシャーラもそれを真っ向から見つめ返す。


「何?」


「ユースケさんが大丈夫なんて、どうして言えるんですか? あんなに傷ついて、悲しんでいるのに、どうして!」


 リーシャ自身、自分の感情に言葉が追い付かないのだろう。


 ただその気持ちだけは、痛い程に伝わってきた。


「どうして、そんなやり方だったんですか‥‥? ユースケさんは、いつだって優しいのに、どうして傷つかなきゃいけなかったんですか。何のゆかりもない、私たちのために戦ってくれた人の終わりが、そんなものでいいはずがありません!」


 彼女は言った。


 理由なんてどうだっていい。おかしい、理不尽だと。


「ユースケさんは今もうなされているんです! 私を助けてくれた日から、何度も何度も夜に起きて、ずっと自分を責めているんです! 私は‥‥私じゃ、どうにもできなくて‥‥シャーラさんや、エリスさんなら、なんとかできたんじゃないんですか⁉ もっと別の、別のやり方をっ、選べなかったのですか‥‥‥‥」 


 最後は嗚咽おえつ混じりで、言葉にならない声が零れた。


 ボロボロと大粒の涙を流しながら、リーシャはシャーラを見つめていた。


 彼女が対峙たいじしているのは、最強の英雄だ。


 それでも退かない。


 納得のいく答えが返って来ない限り、私はあなたたちを許さないと、リーシャの目はそう言っていた。


 そんな少女の問いに、シャーラは初めて視線を下に落とした。そこにある過去を見下ろすように。


「‥‥真実を伝えれば、ユースケは必ずアステリスに残った。それが分かっていたから、私たちは何も伝えなかった。今さら許してほしいとは言わない。私も、コウも、メヴィアも‥‥エリスも、ユースケを傷つける覚悟でその道を選んだ」


 その言葉はシャーラのものとは思えない程に、弱弱しかった。


 過去に同じ選択を取った月子には分かる。


 彼女たちがどんな思いでその選択肢に辿り着き、どれ程の絶望を抱えてそれを選んだのかを。


 そしてその痛みは、月子が感じたものの比ではないのだ。


「そんなの、そんなの身勝手じゃないですか‥‥。ユースケさんはどうなるのですか? 全部、全部失って、生きてさえいればそれでよかったのですか‥‥?」


 ぽつりと言ったリーシャの言葉に、シャーラはうっすらとほほ笑んだ。


 はかなくくも、心の底からそれを喜ぶように。




「生きていてほしかった。生きていてくれて、本当に――よかった」




 その顔を見た瞬間、月子も、リーシャも理解した。


 理解させられた。


『戦うというのなら覚悟を見せろ。俺もシャーラもメヴィアも、そしてエリスも。お前が生半可なまはんかな思いで戦いに参加することは許さねえ』


 エリスだけではない。


 コウも、シャーラも、そして恐らくメヴィアという人も。


 勇輔に生きていて欲しいと、その願いのために全てを投げ打った人間なのだと。


 勇輔がそこにいて、喋っている。共に喜び、悲しみ、話し、触れることができる。月子やリーシャにとって当たり前のそれが、彼女たちにとっては奇跡そのものなのだ。


「‥‥」


 リーシャは何も言わず、うつむいた。


 目の前にいる女性が、どれ程の思いでこの場に立っているのか、勇輔の隣にいるのかを感じ取ったのだ。


 積み重ねてきた年月が、想いが、過去が、違い過ぎる。


 再びし掛かってきた沈黙を払うように、シャーラはパンパンと手を打った。


「落ち込んでいても仕方ない。私たちは、私たちのやるべきことやる」

「――やるべきことですか?」

「そう。むしろ今はチャンス」

「チャンスって、そんなことを思える状態ではないのですけど」


 月子が素直な気持ちを吐露とろすると、シャーラは首をかしげた。


「落ち込んでいる男は落としやすい、姉さまたちはそう言っていた」

「落とすって、別にそんなつもりは――」


 月子が慌てて否定しようとすると、シャーラが被せるように言った。


「ないの?」

「っ‥‥」

「ないならないでいい。姉さまたちもライバルは少ない方がいいって、いつもにらみ合いながら言っていた」

「あの、さっきから出てくる姉さまって誰なんですか?」

「冥神様のきさきたち」


 意味の分からない回答が返ってきて、月子は頭を抱えた。


 対魔官なんて頭のおかしな連中ばかりだと思ってきたが、シャーラはそれを遥かに超えてぶっ飛んでいる。


「でも、一つだけ忠告。もしユースケの気持ちがこのままエリスの方に行ってしまったら、誰も、絶対に勝てない」


 シャーラは断言した。


 その言葉に、月子を含め三人の少女の肩が震えた。


「ユースケは魔術と戦闘に関しては天才だけど、女性の扱いに関しては馬鹿で鈍感」

「ば、馬鹿って、そんな言い方‥‥」

「事実。恨むならエリスを恨んで。そうなるように育ててきたのはエリスだから」


 え、ええぇぇぇえええ‥‥⁉


 サラッと伝えられた衝撃の事実に、月子は思わず声を上げるのをこらえた。


 これまで勇輔に対して、鈍感だなあと思ったことは一度や二度ではない。


 リーシャもカナミも驚きに目を丸くしてシャーラを見ていた。


 事実、エリスは早い段階で勇輔にそれとなく教育を施していた。それは対人能力ヘボヘボな勇輔を、沼よりも腹黒い貴族の子女や、百戦錬磨の暗殺者から守るための手段だった。あるいはそれ以外の意図があったかは、本人にしか分からないが。


「そんな状態でも、ユースケは世界中の美姫びき女傑じょけつたちから想いを寄せられた。けれど、そのほとんどがユースケへの想いを諦めた。それは、エリスがいたから。彼女には、勝てないから」


 二人のかたわらに立ち続けたシャーラの言葉には、絶大な重みがあった。


 誰ともなしに、喉を鳴らす音が聞こえた。


「戦いのためにも、ユースケにはできるだけ早く立ち直ってもらう必要がある。そして、機会は平等。邪魔はなし。早く動かないと、次が来てもおかしくない」


 それはもしかしたら、悪魔の誘いだったのかもしれない。


 しかしその提案に否を唱える人間は、誰もいなかった。

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