第288話 悪魔の契約

     ◇ ◇ ◇




「どうでしょう。私の言うことが、信用できたでしょうか」


 鬼灯ほおずきの言葉がどこか遠く聞こえた。


 陽向がこの部屋に連れ去られてから、どれほどの時間が経っただろうか。既に紅茶は冷めきっていて、その間に語られた話は、どれもこれも信じ難いものばかりだった。


「先輩が‥‥異世界‥‥? そんな、馬鹿な話‥‥」

「ええ、そうでしょう。混乱するのも無理はありません。ですが今見ていただい通り、全ては事実なのです」


 山本勇輔が異世界で勇者をしていた。伊澄月子は魔術師である。


 どれもこれも、普段の陽向ならば漫画の読みすぎだと笑い飛ばす内容だ。


 しかし鬼灯からもたらされたものは、言葉だけではなかった。


 机の上に置かれたタブレットで、いくつもの動画を見せられた。不透明な騎士のような何かが戦っている姿。槍を構える月子。そして映画のような派手なエフェクトと、壊れる景色。


 勇輔の姿はそこには映っていない。


 しかし光を纏うリーシャや、銃を持つカナミを見せられて、勇輔が関わっていないとは思えなかった。


 勇輔の周りに突如現れた少女たち。異様な喧嘩強さ。今、連絡が取れなくなっていること。


 否定したいのに、それをできない自分がいた。


(──これ、ドッキリ? でもこんなお金のかかる動画なんて、作れるわけないし、わざわざ誘拐してまで、そんなことする?)


「そうですね、これでも信じてもらえないというのであれば」


 鬼灯はそう言うなり、陽向の前のカップに指をかけた。


 何を、と思ったのも束の間。


「なっ⁉︎」


 カップに白い霜が降り、紅茶の表面が凍りついていく。ほんの数秒もかからず、口をつけてない紅茶は凍ってしまった。


「そんな‥‥」


 ありえない。手品にしても、でき過ぎている。


「長くなってしまいましたね。また温かい紅茶をお持ちします」


 鬼灯はそう言うと、カップを片付けて部屋を出ていった。


 話を聞く前の陽向であれば、今のうちと部屋を出たかもしれないが、今は足が動かない。


 与えられた情報に、頭が混乱する。


 そんな中で、一番陽向の頭を占めていたのは、ある一つの思いだった。


 勇輔が本当に勇者だったとして、リーシャやカナミは異世界の人間だろう。そして月子は、魔術師というファンタジーの存在。


 陽向だけが、何もないのだ。


 どこにでもいる一般人で、漫画で言えばモブ。現に今もこうして、蚊帳の外にいる。


 好きな人も、恋のライバルだと思っていた人も、実はまったく別の次元に立っていて、自分だけがそれに気づかず飛び跳ねていた。


 ──あんまりだ。


 そんなの、勝ち目があるわけない。自分は勇輔の抱えていたものになんて、少しも気付かなかった。


 きっと、月子が別れたのも理由があるんだろう。自分では想像もつかないような、二人だけの理由が。


 陽向は下を向いて、拳を握りしめた。


 涙がこぼれそうになるのを、必死で耐える。自分のピエロさが、恥ずかしくて、憎い。


 それでもまだ、好きなのだ。


 陽向を助けた時と同じように、今も誰かを助けるために戦っていると知って、余計にそう思ってしまった。


「先輩‥‥」


 ただの後輩ではなく、特別な人になりたい。


「その願い、叶えられますよ」


 突然投げかけられた言葉に、陽向は思わず顔を上げた。


 部屋を出ていったはずの鬼灯が、陽向を見下ろしている。


「悲しいのでしょう。悔しいのでしょう。好きな人になんとも思われていないどころか、自分が何の役にも立てないことに、絶望しているのでしょう」

「‥‥」

「分かります。私もそうでしたから。けれど、初めに言ったでしょう。あなたは、彼の助けになれる」

「私、が‥‥」

「ええ。彼は過去に仲間から手酷い裏切りをされ、心に傷を負っているのです。あなたの彼を想う心が、それを癒やす力になる」


 想い。そうだ。想いだけならば、月子にも、カナミにも、リーシャにも、負けない。同じ場所に立つことができれば、勇輔も自分を見てくれる。


 鬼灯は陽向のすぐ近くまで歩み寄ると、しゃがんで手を取った。


「約束しましょう。私があなたの心を、必ず彼の元に届けます。ですから、どうか私に力を貸してくれませんか?」


 それは悪魔の囁きだった。


 同時に陽向は気づかない。その瞬間、鬼灯──櫛名命くしなみことの魔術『不平等サイドコスト』が発動していることに。


 普段の陽向であれば、断っただろう。


 しかし今の陽向の心は、ほとんど折れかけていた。


 藁にもすがる思いで、勇輔の隣に立つ自分を想像する。


 あの場所に、自分も──。


 陽向は、小さく頷いた。


「はい、お願いします」


 そうして契約はなされ、魔術は完成する。


 悪魔の笑みを浮かべた櫛名命は、そのまま陽向の胸に手を置き。




 突き刺した。

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