第287話 勇輔の知らない過去

     ◇ ◇ ◇




 勇輔たちが水族館にいる頃、一人の男が小高い山の木の上で、枝に寝そべっていた。


 コウガルゥである。


 彼の魔力感知能力は、非常に高い。その気になれば、東京都の半分程度は魔力を探ることが可能だ。また『暴躯アクセル』によって一瞬で戦場に駆け付けることができるので、彼は自分が一番警戒のしやすい位置に陣取っていた。


 風に乾いた葉が擦れる音を聞きながら、コウガルゥは青い空を見上げていた。


 思い出すのは、つい先日のことである。


 彼は勇輔に真実を伝えた。


 二度と会うことはないと思っていた旧友を前に、黙っていることができなかったのだ。勇者の呪いが解けた以上、彼だけが何も知らないというのは、あまりにも不義理だ。


 しかしコウガルゥの思いはそれだけではなかった。


 彼が最も不憫に思ったのは、勇輔ではない。彼をアステリスから追放した、エリス・フィルン・セントライズの方だった。


 あれはいつの頃だったか。


 神魔大戦が終わりに近づき、魔王との戦いに向けて緊張感の高まる時期だった。


 誰もが勇者と魔王との戦い、神魔大戦の行方について思考を巡らせる中、エリスだけは違った。


 王城の中にある古びた書庫で、彼女は寝る間を惜しんで資料を漁っていた。




「‥‥まだいたのか」


 カビと埃の匂いがする書庫で、コウガルゥは呆れた声で言った。


 机の上に積み重なった書物の中で、明かりの魔道具に照らされた緋色の髪が動いた。


「‥‥コウ、起きていたの?」

「こっちのセリフだよ。もう月も降りる頃だ」

「そう──。ごめんなさい。もう少しだけ調べたら休むわ」


 そう言って笑うエリスの顔には、隠しきれない疲労がにじんでいた。


 彼女の作業量は膨大だ。


 昼間は戦場に立つか、各関係機関との調整。合間合間に社交界にも顔を出し、夜はこうして本を読み漁る。


 倒れないのが不思議なくらいだ。


 見かねたコウガルゥは、がらにもないと思いながら、口を開いた。


「いい加減休め。お前が倒れたら、流石にあのにぶちんも気づくぞ」

「大丈夫よ。そこはあなたたちがうまくやってくれるでしょう。それに、私は倒れないわ。今一番辛いのはユースケだもの」


 それはそうなのかもしれない。


 勇輔は勇者として、魔王との戦いという最も重要な役割を担っている。そこにかかるプレッシャーは、常人では耐えきれないだろう。


 しかし今の彼は、それを受けても平然としていた。それが当然だという顔で、戦場に出ては、最大の戦果と共に帰ってくる。


 昔からの勇輔を知る人間ほど、それがあまりにも出来すぎている光景だと分かった。


 『選定の勇者ブレイブフェイス』の効果は、疑惑から確信へと変わりつつあった。


「あいつなら平気だろ。案外、魔王と戦ってもケロッと帰ってきそうだ」

「そうかもしれないわね。そうだったら嬉しいけれど、魔王は勇者と対をなす存在。ユースケに勇者の加護があるのなら、向こうにも同じものがあると考えるのが妥当ね」

「想像以上に、壮大な話になってきたな」


 これまで誰も気づかなかった、あるいは気づいても歴史の闇に葬られた真実。大戦が終わり、無くなってくれればいいが、そうなる保証はどこにもない。


 勇輔が勇者になればなるほど、エリスの心労は重くなっていた。


「そんな気を揉まなくても、手段さえ選ばなければどうとでもなるだろ」

「手段?」

「結局、勇者として認知されていることが問題なんだろ。だったら、勇者は女神の元に招かれただのなんだの言って、いなくなったことにすればいい」

「そんなことして、本当に神にでもなったらどうするつもり?」


 笑うエリスに、コウガルゥは言葉に詰まった。『選定の勇者ブレイブフェイス』は詳細不明の魔術だ。ないとは言い切れない。


「だったら、死んだことにするか。名目はいくらでも立てられるし、あいつだって、お前と一緒にいられるのなら、勇者としての立場に固執こしゅうはしないだろ」


 それは案外いい案に思えた。


 勇者が死んだことになれば、『選定の勇者ブレイブフェイス』の効果も弱まるだろう。多少の信仰心は集まるかもしれないが、少なくとも恐怖や敵意といった感情は向けられなくなるはずだ。


 しかしエリスはそれを聞いて、ただ悲しそうに微笑むだけだった。


「どうした。まさかこの後におよんで、ユースケを勇者として認知させたいとは言わないよな」

「そうね、もうそれは仕方ないことだと思ってる」


 エリスは昔から勇輔が鎧姿でしか認知されていないことに不満を持っていた。


 だが、この状況ではそんなことは言ってられない。


 それでもエリスはうれいを帯びた目でコウガルゥを見つめていた。


「でも、それは無理よ」

「なんでだ? 元の世界に返すより、国の連中だって納得しやすいだろ」

「違う、違うのよ。そのやり方じゃ、根本的な解決にはならないの。ユースケは絶対に、『選定の勇者ブレイブフェイス』から逃れられない」


 エリスはそう言って首を横に振った。


 そして普段の彼女からは想像もつかない弱々しい声で、言った。


「私のせいなの──。私がいる限り、ユースケは勇者でいてしまう。私が、彼を勇者にしてしまう」


 それは告白だった。彼女の中にだけ秘められた、罪だ。


 コウガルゥは言われた意味を理解しようとし、諦めた。


「そんなことはないだろ。お前一人の思いが原因なんて、思いあがりもいいところだ」

「そうね。けれど重要なのはそこじゃないわ。私がいるかぎり、本質的にユースケは勇者でいようとするわ。平穏の中では、暮らせない」

「随分な自信だな」

「当然でしょう。だって、私だけだったんだもの」


 エリスは視線を下に落とした。それは本を見るためではなく、過去を振り返るため。彼女の目には、懐かしい記憶が鮮明に映し出されていた。


「ユースケが召喚された時、誰も彼を勇者として認めなかった。ひどい話よね、勝手に喚んでおいて。その時に決めたの。ユースケを本物の勇者にするって。誰も馬鹿になんてしない、誰もが憧れる勇者にしようって。それが、王家の血に連なる者の責務だって思ったのよ」


 だから、エリスは勇輔のためにどんなことでもした。


 勇輔にも師や友はいたが、誰も彼が本当に魔王を倒すとは思っていなかった。平和な世界から来た、少年だ。死ななければいいと、そう思っていた。


 エリスだけだったのだ。


 勇輔の勇者としての素質を、本気で信じ、支えようとしたのは。


 そんな少女の願いが、呪いとなって彼の首を絞めている。


 エリスは震える声で言った。


「私とユースケは、同じ世界では、暮らせない」


 涙か、血か、言葉がこぼれ落ちる。


 それは、あまりに残酷な話だった。


 最も彼を想う人間が、彼と共にいることが許されない。


(くそったれが)


 コウガルゥは女神を信仰していない。しかしもし女神が本当にいるのだとしたら、どうにかこの二人を救ってはくれないだろうか。


 その願いに答えはなく、またページをめくる音が、静かになり始めた。




 ──チッ、思い出しくないことを思い出したぜ。


 この世界で、勇輔は無事に生きていた。その様子を安堵するとともに、あちらの世界で孤独と罪に苛まれ続けるエリスが不憫に思えた。


 あれは彼女の選択だ。その咎を負うのは仕方のないこと。しかし、それでもエリス・フィルン・セントライズはコウガルゥの仲間の一人なのだ。


 コウガルゥは身体を起こすと、下を見た。


「よおクソ野郎。何しに来やがった?」

「旧知の中。顔を見に」


 そこには一人の男がいた。


 いや、本当に男なのかは分からない。それは全身を体型のでない服で包み、頭には黒子がつけるような白い頭巾を被っていた。


 コウガルゥは彼がここにいることに、少しの驚きと奇妙な納得感を覚えていた。


「不死身ってのは、マジな話か」

「否」

「ならどうしてここにいる、流転セラティエ


 流転セラティエと呼ばれた男は、再び言った。


「顔を見に」

「相変わらず意味不明だな」


 コウガルゥはそう言うと、枝から飛び降りる。


 既にここは彼の間合いだ。その気になれば、すぐにでも棍で殴り殺せる。


 『流転セラティエ』の名が示す通り、この男は魔族だった。それもただの魔族ではない、特殊な二文字の称号は、彼が『魔将ロード』であることを表していた。


 『流転の魔将セラティエ・ロード』は、魔将ロードの中でも異質な存在だ。


 最強の魔将ロードも、時代によって変化する。人族の英雄に殺されるか、あるいは寿命を迎えるか。


 しかし『流転セラティエ』だけは、どの時代の文献にも必ず名前が登場する。


 世襲制かと思えば、そういうわけでもない。


 どの時代にも存在する『流転セラティエ』は、常に同一人物だと言われている。


 先の神魔大戦でも、確実に殺したはずだ。それもコウガルゥがその手で殺した。


 にもかかわらず、あの時と変わらないたたずまい、魔力を纏ってそこにいる。


 魔族には理解できない能力を持った連中が数多くいるが、流転セラティエはその中でもさらに異質だった。


「ならもう用は済んだだろう。殺していいか?」

「不許可。戦闘はしない」

「お前がしなくても、こっちにはする理由があるんだよ。ここにいるってことは、神魔大戦に参加してるんだろ」


 実際、そうでなくともいい。とりあえずぶちのめしてから、情報を聞き出す。


 しかし流転セラティエは思いがけないことを口にした。


「否。神魔大戦に、参加はしていない」

「何?」

「ない。神魔大戦そのものが」

「‥‥」


 何を言っているんだ、こいつは。


 今、実際に神魔大戦が起こっている。だからこそコウガルゥはこうしてここにいるのだ。


 流転セラティエもそのために喚ばれたんじゃないのか。そうでないのなら、どうしてここにいる。


 コウガルゥは棍を出現させると、笑った。


「知っていること、全部教えてもらおうか」

「否。こちらの用、あと数分」

「安心しろ、十秒ありゃ決着だ」


 そう言いながら一歩前に出ようとした時、流転セラティエは手を前に出した


「交渉。我は今、戦えない。一つ、質問に返答」

「それでお前を見逃せと?」

「この戦い。双方に、益がない」


 コウガルゥは目を細めた。そんな交渉に応じる必要はない。


 しかしどうにも気持ち悪さがある。神魔大戦などないと言い切ったその真意が、分からない。


 何も知らないまま戦うというのは、あまり気分が乗らない。


「いいだろう。少しでも嘘と思えば、その瞬間、頭が飛ぶと思え」

「我、虚偽を持たぬ」


 どうだかな。


 コウガルゥは質問を考えながら、腕を組んだ。

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