第286話 毒

     ◇ ◇ ◇




 目が覚めると、そこはどこかの洋室だった。


「‥‥え、あれ? 私、大学から帰って、なんで?」


 陽向紫は、混乱する頭をなんとか整理しようとする。


 そうだ、確か大学が終わって、総司や松田、華たちと別れて帰ろうとしていたはずだ。


 いつも通りの、なんの変哲もない帰り道。


 しかし、そのいつも通りが、途中で途切れている。


 家に帰った記憶はなかった。


 陽向は革張りのソファに座らされていた。とくに体が拘束されていることもなく、目立った外傷もなければ、服が乱れている形跡もない。


 ひとまず、乱暴されたわけではないことに安堵しつつ、陽向は恐る恐る立ち上がった。


「ここ、どこ‥‥?」


 部屋は一般的な洋室の客間といったよそおいで、おかしなところはない。


 陽向は思い出したようにスマホを取り出し、地図を開くか家族に連絡を取ろうとした。


「だめ、繋がらない‥‥なんで」


 こうなれば、文明の利器も役に立たない。


 とにかく場所を確認しなければと窓の方に歩くが、なぜか窓の外は真っ暗だった。


 深夜であっても、街の明かりくらいは見えそうなものだが、そこに広がっていたのは輪郭のない闇だけだ。


「‥‥」


 陽向は言いようのない不安に襲われ、ドアの方に小走りで近づいた。


 もしかしたら、自分をここまで連れてきた人間と会ってしまうかもしれない。それでも、この部屋にずっと居るよりはマシなはずだ。


 ドアノブに手をかけようとした瞬間、ひとりでにドアが開いた。


 誰かが、開けたのだ。


「おや、もうお目覚めでしたか」


 入ってきたのは、想像とは違う人物だった。


 女性だ。それも綺麗で人当たり良い笑顔を浮かべている。手にはお盆を持ち、そこにはケーキとティーセットが置かれていた。


 強面こわおもての誘拐犯を想像していた陽向は、どう答えれば良いか迷った。


「あ、あなたは」

「まあまあ。聞きたい話も多いでしょうから。まずはお茶をしませんか。このケーキ、私のお気に入りなんです」


 女性はそう言うと、慣れた所作でテーブルに準備をし始めた。


 異様な光景だった。漫画やドラマでは見たことのあるシーンでも、実際に自分が直面すると思考が停止する。


 逃げようと思えば逃げられるかもしれない。


 女性相手ならば、振り払ってドアから出られる。


「ああ、逃げようとしているのならやめたほうがいいですよ。外にはあなたをここまで連れてきたこわーい人が立ってますから。私たちも不必要に怪我はさせたくないですし」

「‥‥」


 考えを先に潰され、陽向は歯噛みした。


「さ、座ってください。紅茶はミルクと砂糖も用意してありますよ」


 女性の笑顔が、怖い。海で出会った男たちにも恐怖を覚えたが、この女性は何か、別だ。


 しかし陽向に選択肢はなかった。


 今は、なんの目的で陽向がここに連れてこられたのか、情報を探りながら、時間を稼ぐしかない。


 陽向は女性の対面に座った。


 白いティーカップに淹れられた紅茶が、湯気を立てている。


「まず謝罪をさせてください。私は鬼灯ほおずきと言います。今回は、陽向さんにお話があって、少々無理矢理な方法でお連れさせていただきました。不安にさせてしまったこと、申し訳なかったです」

「‥‥」


 陽向は何も答えなかった。あまりにも怪しすぎる。丁寧な言葉遣いだからといって、油断してはいけない。狼は、いつだって羊の皮を被って近付いてくるものだ。


「そんな簡単には信頼できませんよね。私たちも苦渋の決断だったんです。あなたの周りは、今とある組織によって監視されています。構内に、普段見かけない人を見ませんでしたか?」


 鬼灯の言葉に、陽向は眉をかすかに動かした。


 確かにそう思っていた時だった。


「驚くかもしれませんが、あれはあなたたちを監視していたんですよ」

「私、たちを?」

「ええ、正確には、山本勇輔と伊澄月子に近しい人物を、でしょうか」

「っ──」


 陽向は、思わず出そうになった声を押しとどめた。


 まさかここで二人の名前を聞くことになるとは思わなかった。二人の姿と、監視という物騒な言葉が結びつかない。


 鬼灯は紅茶を一口飲むと、続けた。


「驚くのも無理はありません。あの二人は、少々特殊なんです。他の人にはない力を持っている。それを狙う組織が、二人とその周辺の人物を見張っているのです。だから、強引なやり方でお越しいただくほかなかったのです」

「‥‥」


 否定したい。


 いきなりそんなことを言われても、受け入れられるはずがない。


 しかし、納得できてしまう部分もあるのだ。月子の独特な雰囲気、勇輔の異様な喧嘩強さ。そして、なんの理由もなく二人で消えたこと。


 一つ一つなら、納得できたことが、重なることで違和感になる。


「それで、どうして私を」


 陽向に聞けたのは、それだけだった。


 まだ半信半疑だが、二人が特殊な人間だったとしよう。


 だが、その話を陽向にする意味が分からない。自分が普通の人間であることは、自分がよく知っている。


 鬼灯は、微笑んだ。人を安心させるような柔らかな声で、言う。


「今山本くんは、とても大変な状況にあります。彼を助けることができるのは、陽向さんしかいないと思い、こうしてお話しさせていただいているのです」


 二人だけの部屋に、言葉の毒が染みていく。


 鬼灯と名乗った櫛名命くしなみことは、陽向の動揺にほくそ笑みながら、その表情を隠すように目を伏せた。


 ここは新世界トライオーダーが昔から持つ拠点の一つ。魔術的に存在しないこの部屋には、誰も辿り着けない。


 陽向紫を助けに来る者は、誰もいない。

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