第291話 二人だけの暗闇

     ◇   ◇   ◇




 月子との水族館は、何だか昔のデートを思い出して、懐かしいような、くすぐったいような、不思議な気持ちがした。


 月子は俺が嫌いになって別れたわけじゃないらしい。


 もしかしたら、まだ俺のことを憎からず思ってくれているのだろうか。


 そんなことを思ってしまうくらい、月子は楽しそうにしていた。


 ふと気づいた時、つい手を繋ぎそうになっている自分がいた。


 エリスの話を聞いて、リーシャと食べ歩きをして、月子と遊んで、頭の中で彼女たちの姿がぐるぐると回る。


 これはあれか。もしかしてモテ期というやつか。


 いや、でも二人とも気を使ってくれているんだろうし。カナミなんか、エリスのことを聞いてから毎日挙動不審だ。同じ王族として、いろいろ思うことがあるのかもしれない。


 しかしあれだな。


 アステリスにいた頃も、女性に誘われることはたくさんあった。


 数だけなら、世の男たちに殺されても仕方ないくらいあったと思う。


 まあ、そのほとんどは打算なわけだけど。俺も毒が入っていると分かっていて手を出す気にはならない。というか手を出したらエリスに殺されていただろう。


 当然、中には純粋な憧れから好意を向けてくれる子もいたけど、彼女たちが見ているのは勇者『白銀』であって、山本勇輔ではない。


 きちんと俺を見てくれて、好意を寄せれもらうってのは、それだけで嬉しいものなんだな。


 そうして家に帰ると、そこに彼女は待ち受けていた。


「待ってた」


 シャーラは、そう言って俺を見上げた。


「‥‥」


 待て待て。落ち着け俺。


 なんでこいつは俺の部屋の俺のベッドで寝ているんだ?


 確かに手紙には、夜に話そうとは書いてあったけど、それにしたっておかしいだろ。ちょっと風呂に入って部屋に戻ってきたらこれだ。エロゲーか?


 とはいえ、シャーラが勝手にベッドに入っている程度は、向こうでなら日常茶飯事だ。それに気づいて突入してくるエリスもいないわけだし、彼女の奇行の中では比較的穏やかとも言える。


「勝手に人のベッドに入るなよ」

「温めておいた」

「頼んでないぞ」


 こういうことをされると、温もりだけでなく、香りまで移るから厄介なのだ。熟睡どころか妙に興奮して寝付けなくなる。


 誰かこいつに思春期男子の生態って講義をしてほしい。リモートでやってくれないかな。


「はぁ」


 言っても仕方ないので、ベッドの横に座る。


 改めて、シャーラと二人だけってのは、妙に違和感があった。


 こいつがいる時って、大体近くにエリスかメヴィアがいたしな。


 背後でモゾモゾと動いたシャーラが、毛布から顔だけを出した。頬と頬がくっつきそうな距離に人形みたいな顔が来て、一瞬びっくりする。


「おい、その生首ドッキリやめろ。心臓に悪い」

「湯冷めしないようにしてる」

「冥府で生きてきた女が何を‥‥」


 この部屋より、君が生きてきた世界の方がよっぽど寒いわ。初めて行った時は、肉体もないのに、凍死するかと思った。


「ううん、冷えてる」

「はいはい。冷えてる冷えてる。というか、話って一体──」


 俺の言葉は最後まで言えなかった。


 突然伸びてきた両腕が俺の体を掴むと、凄まじい力で引き上げたのだ。


「はっ? ちょっ何するんだよ!」


 抗議しても無駄だった。俺はすぐさま布団の中に引きずり込まれた。どういう腕力をしていたらこれが可能なのかは知らないが、シャーラならさもありなんである。


「‥‥」

「‥‥」


 微かな光が隙間から入っているのか、薄い闇の中で、目の前にシャーラの顔があった。 


 それこそ、鼻と鼻がくっつきそうな距離で、互いの吐息が入り混じるのが分かる。


 布団の中はシャーラが元からいたおかげが、暖かく、やっぱりいい匂いがした。


「いきなり何するんだよ」

「だめ?」

「だめとか、そういう問題じゃないだろ‥‥」


 俺たちは小声で言葉を交わす。


「ここにはエリスもいない。こうしていても、怒られない」

「それはそうかもしれんが、わざわざこんなことしなくてもいいだろ」

「私が、こうしたかった」


 シャーラはそう言うと、俺の左手を持ち、自分の胸に引き寄せた。


 柔らかな感触が、手を包む。


「冷たい」

「そんなわけないだろ。さっきまでハイパー長風呂してたんだぞ」

「違う。冷たいのは、私」


 何言ってるんだ? もしかして冥府いじりを気にしているんだろうか。


 シャーラはさらに俺の手を胸に押し付ける。もっと深く、深く。


「ユースケがいなくなって、ずっと冷たかった」

「‥‥」

「私に、こんなことを言う資格はない。でも、寂しかった。ユースケのいない世界は、冥府よりも寒い」


 ‥‥そうか。


 シャーラを冥府から地上に連れ出したのは、俺だ。それを放り出してしまうような形になってしまったのは、申し訳ないと思っている。


 俺はシャーラの手を握り返した。


 熱と鼓動が、手を通して伝わってくる。


 目と鼻の先で、シャーラが言った。


「ユースケは、今、幸せ?」


 それは随分と抽象的な問いだな。


 幸せ、か。


 アステリスからこの世界に帰ってきた時、俺は二度と幸せになんてなれないと思っていた。一生この絶望と孤独感の中で生きていくのだと、信じて疑わなかった。


 世界と隔絶した四年間。両親からは腫物扱いされ、寝ても覚めても別れの瞬間がフィードバックする。


 それが今はどうだ。


 毎日馬鹿みたいに笑って、この世界には楽しんでいないものがたくさんあって。大切な人たちと近くにいられて。


「幸せだよ。あっちにいた時と今、どっちの方が良かったのかは分からないけどな」

「そう──」


 シャーラはそう言って目をつむると、そのままゴソゴソと動き、近寄ってくる。


 え、これ以上は正直洒落にならないんだけど。


 しかしそれを言う暇もなく、シャーラは俺の胸元に潜り込んでくると、両手を背中に回して抱きしめてきた。


 アステリスではよくあった。


 けれど今はそれまでのものと違う。何がと言われても誇り高き童貞には分からないけれど、明らかに違う。


 布団にくるまっていたから分からなかったけれど、くっつかれて気づいた。シャーラは確実に薄着だ。


 薄い布の向こうで、柔らかで確かな熱を持った肌が存在を主張する。


「ちょっ、シャーラ、これは流石に」

「これでも我慢してる」

「嘘だろ」

「今はいろいろと面倒。何もなければ、押し倒してる」


 冗談に聞こえないからやめてくれ。


「私はユースケを愛してる」


 胸の中で、くぐもった声が聞こえた。


 それは、何度も聞いてきた言葉だった。はいはいと受け流してきた言葉だ。


 世界を超えて伝えられた言葉は、そんな軽くはなかった。心臓が早鐘を打つが分かる。きっとこの鼓動は、彼女にも聞こえているだろう。


「シャーラ」

「別に答えはいらない。ただ」

「ただ?」

「私だけじゃない。ユースケには、みんなの思いに向き合ってほしい」


 それはどういう意味なんだ。


 みんなって、そんなモテたことはないぞ。


「受け入れなくてもいい。でも、冥神様は、姉さまたち全員に本気で向き合ってた。ユースケならできる」

「神様と一緒にするなよ」


 確かにあのひとはすごいけどさ。何人嫁さんがいるのか、結局把握できなかったし。


 でもハーレムにはハーレムの苦労があるんだなって学んだよ。決して浪漫だけでは語れない世界である。


 向き合う。向き合うかあ。


 簡単なようで、中々な難題である。


 俺が思わずため息をつこうとした時、俺たちは同時に気づいた。


「っ、今のは」


 布団を跳ね除けて、体を起こした。


 恐ろしい魔力の発露。


 それこそラルカンやシキンにも匹敵する、膨大な魔力がどこかで放たれた。


 しかし俺はこの魔力を知っている。そこに感じる、よく知った二つの気配。


 どういうことだ、何が起こってる。


「‥‥ユースケ」


 シャーラが俺の手に手を重ねた。


「来た。また一人」

「マジか。そんなことあるのかよ」

「ユースケなら、大丈夫」


 何を根拠に。


 そう毒づこうとした時、扉がけたたましい音を立てて開かれた。


「勇輔、大変‼︎ 陽向さんが──」


 部屋に入ってきたのは、月子だった。


 ああ、そうだろうな。


 何が起こっているのか、本気で分からないけれど。これは俺が出るべき場面だ。他の誰でもなく、俺が行かなきゃいけない。


「シャーラ、月子。ここは任せる」

「え、ええ」

「いってら」


 俺は月子から無線の魔道具を受け取ると、家を飛び出す。


『勇輔君⁉︎ ごめんなさい、完全にやられたわ! 偽の通信で気づくのが遅くなった、陽向さんが誰かに誘拐されたみたい!』


「はい、大丈夫です。こっちでも今確認しました。後は俺がなんとかします。加賀見さんは、バック

アップお願いします」


 どうして君たち二人がそこにいるのか、意味が分からないが。


 すぐに行くぞ、陽向。


 俺は『我が真銘』を発動すると、暗い空に跳び上がった。


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