第290話 愚かな女
櫛名命は状況が自分の思う通りに行ったことに、高揚していた。
陽向紫は契約を承諾した。
『私があなたの心を、必ず彼の元に届けます』
その言葉に嘘はない。その心がどのような形をしているかは、こちら次第だ。
櫛名は陽向の胸に突き刺した手で、彼女の恋心をつかんでいた。
そして確信した。
この想いは、人を殺せる。
これを弾丸にし、山本勇輔に撃ち込むことができれば、いくら勇者といえど、無事では済まない。
何故なら、弾丸は肉体ではなく心を破壊するからだ。
ただの殺意や敵意では、ダメだ。奴はそれらに対して強い耐性を持っている。それでは意味がない。
後輩の純粋な恋心だからこそ、防御をすり抜け、届く。
手を通して熱く脈動する心を感じながら、櫛名は笑みを深めた。
もう計画は本格的に始まろうとしている。ここで勇輔を排除することができれば、障害が少なくなる。
後はこの恋心を取り出して、弾丸に成形すればいい。
その後に彼女がどうなるかは、正直分からない。ただ勇輔への恋心がなくなるだけならばそれでいいが、人の心はそう単純なものではない。
これだけ強い恋心だ。失うことで廃人になってしまったら、少しだけ後処理が面倒になる。
それでも、仕方のないことだ。
櫛名は握りしめた陽向の恋心を取り出そうとした。
既に契約はなされている。もはや誰にも櫛名の行動を止めることはできず、陽向は勇輔への想いを失うことになる。
それは凶器へと姿を変え、彼女のまったく知らないところで、勇輔に届くだろう。
「ははははは」
もはや隠すこともない。
櫛名は笑い声を上げながら、腕を引き抜く。
瞬間、誰かが彼の腕を
「は?」
この場には陽向と櫛名以外に、誰もいない。扉の外にはコーヴァが立っていて、侵入は不可能だ。
ならば誰が止めたのか。
「おい待て、どういうことだ!」
櫛名は笑いから一転、
それも無理はない。
何故なら彼の手を掴んで止めていたのは、他でもない、
ありえない。
契約が結ばれた時点で、既に意識はないはずだ。
しかも、
(動か、ない‥‥⁉︎)
いくら身体能力に自信のない櫛名であっても、そこらの女子大生に力で負けるはずがない。
しかしそんな当然を
何かが起きている。
それも笑えないような、異常事態が。
「ぐ、ぅおぉぁあ!」
ミシミシと陽向の手が筋肉を潰し、骨を
同時に気づいた。
光を失っていた陽向の目が、櫛名を見ていた。先ほどまでの弱々しい少女の目ではない。狩人が獲物を見るような、冷淡な目だった。
櫛名が驚いたのは、それだけではなかった。
瞳にゆらめく炎のようなオーラ。
──馬鹿な。そんなはずがない。陽向紫は一般家庭の生まれで、血筋の中に魔術師もいない。そして本人にも、その素質は一切ないはずだ。
だが、その目は間違いなく魔力を宿していた。
それも底の見えない深淵を覗いたような、重く深い魔力だ。
「乙女の恋心に無遠慮に触れるとは、この恥知らずが。その無礼、死をもって
脳内でけたたましく響くアラートに従って、
たとえ殺してでも、ここで止めなければまずい。
その判断は正しかったが、無意味だった。
ゴッ‼︎ と体内から鈍い音が響き渡り、体がバラバラになるような痛みと衝撃が弾けた。
そして。
「ぅごぉっ‼︎」
部屋を覆っていた結界ごと、壁をぶち破って櫛名は吹き飛ばされた。
庭に転がった櫛名は、痛みをこらえて顔を上げた。
穴の空いた壁から、陽向がこちらを見下ろしていた。
その姿は既に、先ほどまでの陽向紫のものではなくなっていた。
全身を濃密な魔力が覆っている。それを示すように、茶色だった髪は濃い桜色に染まり、長く波打っていた。
まっとうな人間の魔力ではない。
それこそシキンや、あるいは魔族といった、世界のルールから外れた存在。
理由は分からない。
それでも立場は逆転している。櫛名がどんな魔術を使おうが、今の陽向には勝てない。常日頃から化け物たちに囲まれている櫛名は、すぐにそれに気づいた。
「‥‥」
陽向が穴から降りてきた。
冷たい怒りを秘めた視線が、櫛名を貫く。
その拳が叩きつけられるよりも先に、それは来た。
「っぶなー。これ、どうなってんすか」
櫛名を抱えて距離を取ったのは、扉の外に待機していたコーヴァだった。
「来るのが、遅い‥‥!」
「そう言われても、いきなりでかい音鳴るし、扉は歪んで開かないし、何事かと思いましたよ」
「僕だって知るか! 陽向紫は魔術と何の縁もない一般人だ、あんな力があるなんて聞いてないぞ!」
「調査したのは先輩じゃないっすか」
コーヴァは櫛名を地面に下ろすと、陽向を見た。
櫛名の言う通り、彼女は少し見ない間に、魔術師へと
「あー、こんなこと聞くのも変かもしれませんけど、あんた、誰?」
それは答えを期待しての質問ではなかった。
しかし予想に反して、陽向は答えた。
「私は陽向紫。けれど、今のあなたたちが欲しいのは、別の答えですよね。ですから、あえてこう答えましょう」
彼女は言った。
本来、二度と口にすることのない、その名を。
「恋に溺死した愚かな女。『
シキンによって殺されたはずの、魔族最強の
戦争にはまるで参加せず、しかし挑んだ人族の英雄たちをその圧倒的な力で一蹴した、最強の恋する乙女。
兵士の間で恐れと共に伝えられる通り名は、『
『
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