第224話 全裸の男
櫛名はシキンが苦手だ。いや、真っ当な人間として生きてきて、シキンを得意とする者は存在しないだろう。
そんな思いを表には出さず、櫛名は彼の高い頭を見上げた。
その行為にどれほどの意味もないことを櫛名は知っている。何故ならシキンは本物の『読心術』の使い手である。読唇ではなく、読心だ。相手の考えてること読み取る、神通力。
対象や精度に制限がないとは思わないが、『
「まさかあんたがここにいるとはな、どういう風の吹き回しだ?」
櫛名の問いにシキンはあっけらかんと答えた。
「来ようと思って来たわけではない。修練を終えてうたた寝をしていたら連れてこられただけだ」
「そ、そうか‥‥」
今のはまともな返答を期待した自分が馬鹿だったと思う。櫛名は話を戻した。
「僕は悩んでいたんじゃなくて、この後どうするか考えていたんだ」
「この後か?」
「ああ、僕は『冥開』の魔術を手に入れた。ようやくスタートラインに立ったんだ」
そう言うと、シキンの目が軽く開いた。
「そうか
「知らなかったのか? お前の力なら簡単に把握できるだろう」
「興味がなかったからな」
櫛名は端的な答えに絶句した。
この感覚の違いには一生ついていけないだろう。自分のすべきことではないと判断したからか、あるいは自分がどうとでもすると思っていたからか。
この男にとって櫛名の上げた戦功は、棚からぼたもち程度のものなのだろう。
こいつが動かなかった理由は単純だ。動けと言われていないからである。
実際にその判断は正しい。これが表立って動けば、事態は混乱混沌を極め、策も見通しもない五里霧中と化していたに違いない。
シキンは頷いた。
「であれば我も動けよう」
「は?」
「確か相手には勇者なる者がいたはずだな。修練にも限界を感じていたところだ。丁度いい」
「待て待て待て。あいつらが今いるのは都会のど真ん中だ。あんたがまともに動いたら、街が無事じゃ済まないぞ。それはあの方の思いに背くことになる」
シキンが出て負けることはないだろうが、白銀も十分すぎるほどに強い。シキンが何も考えずに街中で戦闘を起こせば、その被害は計り知れない。
そうなってはこれまで密かに動き続けた自分の苦労が水の泡だ。
「ほう、我が出ると知ってなおそう思うか」
その声は怒りではなく、好奇心に満ちていた。
同時にシキンの目が櫛名を覗き込んだ。心の裏側まで見透かすような眼光。
「っ──!」
読心術だ。
しかも今読まれているのは心の声だけではない。言葉によって想起された櫛名の白銀に関する記憶が、見られている。
数秒か、数十秒だったか。
シキンが目を閉じ、櫛名は全身から汗を噴いた。
「なるほど、異世界の勇者か。にわかには信じがたい存在だが、その強さは本物のようだ」
「‥‥お前に、信じがたいとか言われたくないと思うぞ」
確かに白銀も常識の外を生きる怪物だ。
しかしシキンはそれを超える。
周囲への影響さえ考慮しなければ、白銀を葬るには最適の存在だ。
「ではこうしよう。勇者にはあちらから我の元に出向いてもらう」
「出向くって、どうやってだ」
「確かまだ間諜として潜んでいる者がいたはずだな。それを使えばどうにかなろう」
「間諜‥‥?」
確かに自分達の組織は櫛名を筆頭としてあらゆる場所に人員を配置している。
だが白銀たちを意のままに操れるような間諜がいただろうか。
そこまで考えて、シキンが誰を指しているのか理解した。
「まさか」
櫛名の感覚では、ほぼジョーカーに近い存在を、そんなに呆気なく動かすつもりか。恐らくシキンから見れば、それも誰も大した違いはないのだろう。
確かにその方法ならば、可能だ。
しがらみに縛られないからこそ、目的のためにシンプルに進んでいく。
「‥‥分かった。他の連中はどうする。知らせるのか?」
「必要あるまい。どうあれ知ることになろう」
「そうだな」
他の連中はシキンとは違う。ここにいないというだけで、状況は間違いなく理解しているはずだ。
そしてシキンの動きを知ったとして、横槍を入れるとは思えない。そんなことをすればどうなるか、あいつらもよく分かっているはずだ。
「有益な時間だった。ではまた会える日を楽しみにしているぞ」
シキンはそう言い残すと、忽然とその場から姿を消した。この空間の主が出したのではなく、自分の意志でここを抜けられる人間が世界にどれほどいるだろうか。
櫛名は見られていることも忘れて、息の塊を吐き出した。シキンと会話をする、ただそれだけで精神が摩耗し、仮想の肉体が疲弊する。
白銀の排除という目的のためとはいえ、これでよかったのか。
世界はこれから荒れることになる。せめてその荒波が自分を流さないでいることを、願う他なかった。
◇ ◇ ◇
「‥‥ふむ、戻ったか」
櫛名と別れ、目を覚ましたシキンはあぐらのまま身体を伸ばした。当然こちらでは、裸のままだ。
どうにもあの世界は好かない。意識の離脱を強く感じるのは悪くないが、与えられた仮想の肉体というものが、張り型のようだ。
その感覚そのものが身体に縛られているということであり、未だ修練が足りない証拠だ。
シキンは立ち上がると、今自分がどこにいるのかを思い出した。
陽の光を受けてキラキラと虹色に輝くのは、人間よりも巨大な鱗だ。
牛を数頭まとめて丸呑みできる口からは、大剣のような牙が覗き、光を失った瞳が空を見上げている。
この光景を何も知らずに人が見たなら、腰を抜かしてへたり込むだろう。あるいは夢か
それは龍だった。
天災。幻獣。あるいは神。
古今東西において頂点として描かれる、空想生物。
その龍がシキンの足の下で寝ていた。
否、その表現は適切ではないだろう。
シキンが立っているのは、胴体からもがれた龍の頭だった。
血の代わりに光の清流が鱗を伝ってこぼれ、地面へと吸い込まれていく。これが後に命を育てることになるか、あるいは呪いとなって大地を穢すか、そんなことはシキンにとってどうでも良いことだった。
ただ龍がいると耳に入ったから挑み、殺せるから殺した。
人が触れてはならない神性を、その手で捩じ切ったのだ。
決して許されない蛮行。果たされるはずのない偉業。
それを成したシキンは、しかし大した感慨もなく足元を見下ろした。せめて肉を食い血を啜れば殺した甲斐もあっただろうに、これは概念的な肉体を得たもので、本物の生物ではない。この頭とて数刻もすれば消えるだろう。
シキンが興味を失い頭から飛び降りると、鋭い声が聞こえた。
「貴様! よくも龍神様を!」
「なんということをっ──!」
そこに立っていたのは、二人の男女だった。槍を構え、シキンへと怒りの目を向けている。
恐らくはこの龍に仕えていた守り人だろう。血のつながりを感じる、恐らくは兄妹か。
ここは中国の山間部にある集落が代々守ってきた、龍神の滝壺だった。
歴史が長く、未だ人の手が入らない場所が多くある国では、こういった神性が現代でも形を保っていることがある。
守り神の時もあれば、
全裸のシキンが二人にどう写ったのかは定かではないが、槍はシキンに向けられ、憤怒に揺れていた。
守るべき対象を奪われたのだから、当然だ。
それが分かっていながら、シキンは構えることもなく告げた。
「生き急ぐな。どんな者にも終わりが来る。それまでは安穏に生きよ」
「我らが神を殺して何をのたまうか! 死せ大罪人!」
男が叫び、槍を構えてシキンへと肉薄する。
その速度は常人が出せる速度を遥かに越え、槍が光を瞬かせた。古代の神を守り続けた一族だ、言うなれば最も神秘の恩恵を受けた人間。
その一撃は激烈の威力でもってシキンへと向かった。
「‥‥」
それに対しシキンもまた人差し指を立てて、ゆるりと
衝突の勝敗は、守り人が悔いる間も無く着いた。
人差し指は穂先ごと
触れただけで、腕が通る風穴が開いた。
ボッ、と一拍遅れて音が響き、血肉が男の背後へと散らばった。
「な‥‥」
女の方は動けなかった。自分達の神を殺すほどの怪物だ。初めから勝てないかもしれないという予想はあった。
しかしそれを越えて、シキンは異常だった。彼を前に、覚悟は打ち砕かれていた。
シキンはそんな女の前まで来ると、まじまじとその顔と身体を眺める。
「流石に龍神の守り人か。良い修練を積み重ねている。少し前であれば双修の相手として申し分ないものだが」
「はっ‥‥はぁ‥‥」
女は荒い呼吸を繰り返した。何もできないという事実が心を押し潰す。
やがてシキンは龍同様、興味を失ったように女から目線を外した。戦わないのであれば、もはや相手にする意味もない。
龍殺しの地を後に、彼は考える。
あの櫛名の記憶から見た白銀の騎士。彼であれば、真なる修練の相手として、申し分なかろうと。
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