第338話 君としたかったこと

     ◇   ◇   ◇




 ぼふん、と空から落ちた俺は、柔らかな感触に受け止められた。


 あわい色の花びらが舞い上がり、重力を思い出したようにひらひらと降りてくる。


 俺の足元にだけ花畑が広がり、クッションになってくれたらしい。


 すでに魔力は尽き、『我が真銘』も解除されてしまっている。これがあったおかげで、余計な怪我をせずに済んだ。


 誰がこれを用意してくれたのか。考えただけで心臓が早鐘はやがねを打ち、血が音を立てて全身を駆け巡る。


 その時、通信機からノイズ混じりの声が聞こえた。


『‥‥ユー‥‥。ユースケ様。聞こえますでしょうか』

「あ、ああ。カナミか。聞こえるぞ」

『良かったですわ。こちらは、月子様の安全を確保いたしました。それ以外の皆様も無事でございますわ』

「そうか――。よかった」


 助けに行けなかったことがずっと気になっていた。イリアルさんたちに頼んでおいてよかった。


 周囲を見回すと、領域が光の破片となって崩れていくところだった。完全に自己崩壊するよりも先にテュポーンを斬ったので、榊綴さかきつづりは死んではいないだろう。


 しかし今の俺にはそれを探すだけの余力は残っていない。


 どちらにせよ、これだけの無茶をしたのだから、しばらくは何もできないはずだ。


『‥‥また、のちほど』


 カナミはそう言うと、通信を切った。


 もう今の俺にできることはない。


 だから、少しだけ。


 少しだけ時間が欲しい。


 不安と希望が入り混じった数秒が過ぎ去り、その時は来た。


 破れたあかのドレスをなびかせて、全身で荒い息を吐きながら、彼女はそこに現れた。


 久しぶりに見た彼女の顔は、すすと砂ぼこりに汚れ、玉のような汗がにじんでいた。


 それでも彼女は綺麗だった。


 こぼれ落ちる魔力の光よりも、思い出したように降り注ぐ日差しよりも、彼女は輝いて見えた。


 俺が知る顔よりもさらに大人びて、少女らしい可愛らしさから、女性らしい美しさにみがきがかかっている。


 あの時から変わらない、燃えるような緋色ひいろの髪が、きらきらと光の粒子を風に乗せて揺れた。


 エリス・フィルン・セントライズが、そこにいた。


「  」


 言葉を出そうとして、何も出ないことに気付いた。のどかわいて、声にすらならない。


 そもそも俺は何を言おうと思ったのだろうか。


 彼女に何と声を掛けるべきなんだろうか。


 別れを告げられた湖畔こはんで、俺たちの関係は一度終わった。


 そのことに対して怒りを覚えなかったと言えば、嘘になる。


 けれどそれは俺を救うための苦渋くじゅうの決断だったと、コウに聞かされた。


 どうして話してくれなかったのだろうと思い、彼女の徹底した優しさに、打ちひしがれた。


 俺は気付けたはずだ。


 もっと彼女のことをよく見ていれば、彼女が抱えた苦悩と、痛みに気付いてあげられたはずなんだ。


 しかしあの時の俺は自分のことばかりで、それに気付けなかった。


 ならば謝ればいいのだろうか、感謝を伝えればいいのだろうか。


 目の前の彼女を見て、そんな考えは頭の中から吹き飛んでいた。


 今求められているものは、そんなものじゃない。そう、感じた。


「――――」


 その時、驚くべき姿が見えた。


 彼女の大きな深緑の目から、涙がこぼれ落ちたのだ。


 声はなく、目をつむることもなく、ただ俺を見つめたまま、彼女は泣いていた。 


 そして、力を失ったようにその場に膝を着いた。


 舞い上がった花びらがゆらゆらと踊る。


 彼女は決して目をらさなかった。


 ただその真摯しんしひとみが、大粒の涙を流しながら、俺に何かを伝えようとしていた。


 どんな声を掛けるべきかと悩んでいたのが馬鹿だと思えるくらい、俺は自然と一歩を踏み出していた。


 今の俺たちは、きっとどんな言葉を、どれだけ重ねても、この気持ちの一欠片ひとかけらだって伝わらない。


 歩き出して、想像よりもずっと自分の身体からだに力が入らなくて、俺は数歩をつまずきながら歩き、最後には倒れるようにして彼女の下に辿たどり着いた。


「ぁ――」


 そして。


 魔王を倒し、勇者の呪いに自分を見失っていたあの時、彼女がそうしてくれたように、俺は彼女の身体を抱きしめた。


 子どものころから追いかけ続けた彼女の身体は、思っていたよりもずっと華奢きゃしゃで、力を入れたら壊れてしまうのではないかと思えた。


 それでも、優しく、力強く抱きしめる。


 あるいはそうしなければ、俺自身が不安だったのかもしれない。彼女がまた消えてしまうのではないかと、全身でその存在を感じる。


 体温を感じる。


 鼓動が聞こえる。


 触れられる。


「っ――‼」


 彼女が、ここにいる。


 ゆっくりと、俺の背中に彼女の手が回り、強く抱きしめられる。


 首筋に熱い感触が広がった。それが彼女の涙だと気付いた時、俺もまた泣いていた。


「ぅっ、ぁあ、ああぁ」


 嗚咽おえつこぼれ、どうにもならなくなった。


 忘れようとした。


 違う人生を生きようとした。


 けれど心のどこかでそれはずっと涙を流したまま、消えることなくそこにいた。




 エリス。




 エリス。




 ずっと君に会いたかった。




 ずっと、こうしていたかった。




 涙におぼれ、何も見えなくなって、それでも俺たちは手を離さなかった。


 失った時を二人で数えるように、俺たちはいつまでもそうしていた。

 

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