第339話 神秘の波

     ◇   ◇   ◇




 そこは誰も知らない場所。作者だけが立ち入ることが許される、神聖な仕事場。


 そこで榊綴さかきつづりは床に倒れ、荒い息を繰り返していた。


 目からも、鼻からも血が流れている。


 魔力が身体をうまく流れない。指の先までまともに力が入らず、しばらくは立ち上がることも出来なさそうだった。


 それでも、生きている。


 本来ならあり得ない事態だった。榊は命を捨てる覚悟でギリシャ神話の怪物たちを解き放ち、更に領域そのものを終わらせる存在としてテュポーンを召喚した。


 勇輔たちを殺し切ることはできなくとも、領域内の人々はほとんどが仮死状態になるはずだった。


 それが、斬られた。


 イレギュラーな存在であるエリス・フィルン・セントライズの乱入があったのも大きな要因だったが、たとえ彼女がいたとしても、テュポーンは勇輔では勝てないはずだった。


 思い出すのは、櫛名命くしなみことの言葉。


『意志の強さ。あいつは万の軍を相手にしても、シキンを前にしても、ひるまなかった。必ず勝つという決断をし、それを実行した』


 あの時の言葉の意味がようやく分かった。


 決して折れない意志は、魔術師の持つ剣そのものだ。


 櫛名が無理矢理陽向を拉致し、勇輔への切り札を用意しようとしたのもうなずける。


 あれはなんとかして倒す手段を考えておかなければならない。


 テュポーンが倒されたのは想定外だったが、そのおかげで榊自身も一命を取り留めた。


 今回得られたデータを下に、今度こそ山本勇輔を倒すモンスターを作り出す。


 自分にならそれが可能だ。


 幸いにもこの空間は自分に何かがあっても崩壊しないようにしている。


 時間は掛かるが、次の計画までにはなんとか回復できるだろう。


 そう思い、目を閉じて眠ろうとした榊の目に、何かおかしなものが見えた。


「‥‥」


 それは、白い光だった。


 淡い光が植物の根のように、空間を侵食し、天井に広がっていく。


 あり得ない。この空間は誰も見つけれない場所だ。何故なら世界から隔絶された領域だからだ。


 しかしそこまで考えて思い出した。


 エリス・フィルン・セントライズの魔術。


 彼女が生み出す根は、敵の魔力を吸収し、己の力へと変換する。


 そして根はどこまでも貪欲どんよくに魔力を辿り、伸び続ける。


 まさかあの領域からここまで、ひたすらに根を伸ばして榊を見つけたというのか。


 そうならないように、榊はいくつもの領域をつなげ、無数の行き先を用意していた。


 エリスはおそらくその全てに根を伸ばしたのだろう。


 なんという抜け目のない魔術師だろうか。


 あの短時間で状況を判断し、炎を抑え、モンスターたちを殲滅。さらには術師にまで手を打っている。


 完敗だ。


 榊は掠れた声で、あの人の名前を呼んだ。


「ある‥‥じ‥‥」


 根は空間を掌握し、次の瞬間、敵に向けていばらを放った。


 そして、美しくもはかない、真っ赤な花を咲かせた。




     ◇   ◇   ◇ 

 


 

 時はテュポーンが現れるよりも少し前にさかのぼる。


 燃え盛る炎の中で、一人の男が倒れる女性を見下ろしていた。


 倒れているのは、伊澄月子だった。


 HPバーこそ少しだけ残っているが、身体はピクリとも動かず、完全に意識を失っているのが分かる。


 金髪をオールバックにした男は、月子が完全に動かないことを確認すると、後ろを振り返り、おもむろに膝を着いた。


 既に周囲には火が回り、まともに人が生存できる状態ではない。


 男はそんなことを気にする様子もなく膝を着いたまま、こうべを垂れた。


「お久しぶりでございます。我が君」


 これまで月子に見せていた態度とは、真逆の礼儀正しい声で、そう言った。


 ここには男と月子しかない。


 そのはずだった。


 初めから、いるというカウントに入っていない人物を除けば。


 火の影から、それはゆっくりと立ち上がった。着物でも隠せない鍛え上げられた肉体に、歴戦のしわが深く刻まれた巌のような顔。




 伊澄天涯いすみてんがいが、男を見下ろした。




「おお、すまんな。こんなことのために呼び出して」


 天涯の身体は至る所が血に塗れていたが、よく見れば傷が一つもついていないことが分かる。


 事実、彼は無傷だった。


 いつも通りの飄々ひょうひょうとした顔で言う。


 男は顔を下に向けたまま答えた。


「いえ、こうしてお呼びいただけることが、何にも勝る光栄でございます。我が君に触れた無礼をお許しください」

「そりゃ儂から頼んだことだ。許しを請うような話でもあるまい」

「‥‥ありがたき幸せにございます」

「中々どうして、こういった芝居しばいもやってみると面白いものだ」


 天涯はそう言うと、倒れたままの月子に視線をやった。


 ついこの間、ここで話したばかりの、孫娘も同然の存在だ。


 それに気付いた男が聞いた。


「このままでよろしいでしょうか。ここでの死は本当の死ではありません。必要があれば、申し付けください」

「よい。この子にも、最後まで見届ける権利と、義務がある」

「はっ、申し訳ございません。差し出がましいお言葉でございました」

「構わんさ」


 そう言うと、天涯は月子から視線を外した。


「ほれ行くぞ。いつまで寝ているつもりだ」


 その言葉に反応するものがあった。


 血だまりの中で沈んでいた着物のかたまり。それがもぞもぞと動くと、小さな身体がゆっくりと起き上がった。


 白髪に骨と皮ばかりの老婆ろうば。二九七歳になる伊澄甘楽いすみかんら


 倒れていたのは、彼女のはずだった・・・・・・・・


 しかしそこから現れたのは、まるで正反対の少女だった。


 短い髪は黄金をかしたかのようにつややかで、瞳は周囲で燃える炎よりも赤い。


 細い体は一度も光に当たったことがないほどに真っ白で、老婆であった時とは対照的に、張りと若さに満ちていた。


 およそ一〇歳前後の少女がそこにいた。


 その姿を見て、天涯はため息を吐いた。


甘楽婆かんらばあ、せめて服を着なさい」

「‥‥婆って言い方やめて。はいはい、服ね」


 甘楽婆と呼ばれた少女は、全裸だった。それを恥ずかしがる素振りもない。少女は仕方ないとばかりに、適当に地面に落ちていた着物を拾い上げると、羽織った。


「‥‥」


 天涯はその無造作にまた注意しようかと思ったが、苛々いらいらしている少女の顔を見てやめた。


「まったく」

「まったくじゃないでしょう。何十年もお婆さんの姿で置物してたら、誰でもこうなるわ」

「分かった分かった。そう怒るな」


 少女は天涯の下に歩き出そうとし、足元に倒れる月子に気付いた。


「‥‥」


 一秒にも満たない時間。月子を見た少女はそのまま歩き出した。


「さあ、行きましょう。もうここには用はないんでしょう」

「ああ。これで伊澄天涯と甘楽は死んだことになる。儂らは立つ鳥跡を濁さず、飛び立つというわけだ。そうだろう?」


 そう聞かれた男は、頷いた。


「はい。準備はこちらの方で整えております」

「では行こう。時間というものは必要な時ほど待ってはくれないものだ」


 天涯はそう言うと、燃え盛る炎を踏み潰して外に出た。


 その時、こちらに急速で接近する魔力を感じた。おそらくアステリスの守護者の一人。


 月子を助けに来たのだろう。


「良い仲間に恵まれたな」


 天涯はそれだけを呟くと、男と少女を伴って歩き出した。


 火が揺らめいた時、既にその姿は消えていた。




     ◇   ◇   ◇




 十一月二十七日。現代史において類を見ない本物の霊災は、後に若者の間で『東京クライシス』という言葉が定着するようになる。


 現代人が便利に使い潰した仮想世界の氾濫。


 推定五万人近い人々が巻き込まれ、怪我や精神錯乱を起こした被害者多数。


 およそ千七百人がHPバーと称される体力を完全に喪失そうしつし、仮死状態に陥った。その際の事故により重傷を負った被害者数、三十四人。


 反面、建造物や無機物への被害はほぼ存在せず、不思議なことに事件が起きる前となんら変わらない世界が続いていた。


 唯一火災が確認されたのは、伊澄本家。鎮火した家からは、伊澄甘楽と伊澄天涯と思われる二人の遺体が発見された。


 この日を境に日本、世界中の人々の間で、これまでは科学という絶対の正義の下に、あり得ないと断じられていた超自然的な現象への見方が変わることとなる。


 本来ならそれらの事態を鎮圧するための組織、対魔特戦部は多くの仮死者を出し、ほとんどの活動を止めていた。


 神秘の波が、世界を覆い始めた。

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