第75話 最強の男

 時は遡り八月一日。世の少年少女たちが本格的な夏の到来と夏休みの実感をひしひしと感じ始める時期。


 カツンカツンと甲高い足音に違和感を感じながら、伊澄月子は白い廊下を歩いていた。

 効きすぎた冷房が首筋の汗を冷やし、体温を奪っていく。普段なら気にも留めないそんなことが、今は癇に障った。


 月子が今身に付けているのは普段は着ないパンツスーツだ。クールビズが普及した昨今においてもジャケットまできちんと着込み、足には少し高いヒールのパンプス。顔も通常の三倍は時間をかけて化粧を施している。


 月子がスーツを着ると、小柄で華奢な体格も相まって、どうしても着られている感が強いが、前を見据えるその眼光は京都の大天狗すら震え上がらせる鋭いものだった。


 月子が今来ているのは対魔特戦部の本部である。


 加賀見綾香たちが根城としている三条支部よりも遥かに大きく、冷たい建物。


 本来であれば今頃文芸部合宿のために様々な用意をしているはずだったが、何故人間の形をした魑魅魍魎跋扈する伏魔殿へと足を踏み入れなければならないのか。


 そんなどうしようもない思いが頭の中でとぐろを巻き、今にもそこらに牙を剥きそうだった。


 仕事だから仕方ないとはいえ、その内容が新人研修の引率。


 こんな仕事は今まで月子に振られたことはなかったし、自分自身上手くできるとは思っていない。


 にも拘らず強引に通された案件。そこに感じる妙な作為。


 何よりそんなことで合宿を潰された憤りが腸を煮えくり返す。


 それでも研修の事前説明として呼ばれた今日、本部へと足を運んだのは、綾香や三条支部の立場を慮ってのことだった。


 意図せずに足音が荒々しくなっていくのを自分でも感じながら、月子は目的の部屋へと進んだ。


 誰にも止められない勇往邁進。あらゆる障害物を踏みつぶして進まんとするその歩を止めたのは、全く予想だにしない人物だった。


 まるで突然そこに現れたかのような不自然さで、その男は月子の視界に入ってきた。


 見た目は長身痩躯の優男といった風体で、着ているのは趣味を疑う竜の刺繍が入ったスーツ。この対魔特戦部にいなければホストにしか見えない男だった。


 その男を見た時、月子ははじめ見間違いだと思った。あるいは見間違いであって欲しかった。


 くすんだ灰色の髪を揺らし、男は月子に視線を合わせた。


「やあ、伊澄さん。久しぶりだね」

「‥‥お久しぶりです、土御門さん」


 ニコニコと柔和な笑みを浮かべる男の名は、土御門晴凛つちみかどせいりん


 俄かに冷や汗が噴き出すのが自分でも分かった。先ほどまで猛っていた威勢が空気の抜けた風船のように萎んでいく。


 おかしい。たかだか新人研修の事前説明でこの男が出てくることなどあり得るはずがない。




 対魔特戦部第一位階・・・・――土御門晴凛。




 始まりの草原でラスボスに出会ったような驚愕と戦慄に魔力が泡立ち、指先まで緊張が走る。それすら見透かしたように土御門は柔らかな口調で続けた。


「こうしてきちんと話すのは初めてかな? 新人研修の引率を頼まれたんだってね、お疲れ様」

「ありがとうございます」

「硬いなあ。もう少し肩の力抜いていこうよ。ほら、僕たちは立場的にも近いものがあるだろ?」


 ふざけるな、抜けるはずがない。


 確かに月子は第二位階の対魔官であり、第一位階とはたった一つしか変わらないが、その一つには海溝よりも巨大な隔たりがある。月子から見て土御門晴凛は化け物以外の何物でもなかった。


「ごめんね、これから仕事だっていうのに引き留めて。一つだけ聞いてみたいことがあってさ」

「何でしょう」

「君たちが今対応している魔族ってやつについて」


 ――やっぱりそれ。


 わざわざ第一位階が月子の元まで足を運ぶ理由なんて、それしか思いつかない。


「報告は三条支部の方から上げているはずです」

「その報告なら読ませてもらったよ。僕が聞きたいのは実際に戦った人の経験。それもなるべく実力が近い人のね」


 いけしゃあしゃあとよく宣う口である。


 月子と実力が近いなんて露ほども思っていないくせに。


 しかし情報が欲しいというなら出し惜しみする理由もない。


「所感ですが、戦った魔族という相手の実力は『甲種』に分類されるかと。『甲一種』とは戦ったことがないので何とも言えませんが」

「ふーん、そう。伊澄さんが言うなら間違いないだろうね。魔術を使うと聞いているけど、どんなものだったかな?」

「私が戦った相手は炎の魔術を使用していました。この間出現した魔族は身体を変質させるものだったと聞いています。個々によって使用する魔術が違うのは私たちと同じですが、使い方は随分違う気がしました」

「使い方‥‥、それは一人一人違って当たり前なんじゃないかな?」


 土御門に問われ、月子はあの日のことを思い出した。業火の中に立つ隻眼の男。まるでピアノを奏でるように軽やかな動きで、信じられない奇跡が実現する驚愕。


「説明し辛いですが、発動までのプロセスが完全に異質というべきか、理解度が違うというか」


 そうだ、その異質さはまるで――。


「‥‥へぇ、そうなんだ」


 そう言って笑みを深める土御門。


 そうだ、あの魔族の魔術はこの第一位階のものとよく似ている。普通の人間が踏んでいく階段を、異才の翼で一息に飛び越える理外の怪物。


 土御門は暫く考える素振りを見せてから、いつもの掴みどころのない笑みに戻った。


「話してくれてありがとう。僕の方でもいろいろ調べてみるから、また何か分かったことがあったら教えてよ」

「分かりました」

「そうだ、教えてくれたお礼に一つだけアドバイス」


 アドバイス?


 月子は自然と身構えた。この男が素直なアドバイスなんてするはずがない。したとしても薬に変わる毒くらいなものだろう。


「今回の研修、準備はちゃんとしていった方がいい。鬼が出るか蛇が出るかは分からないけど、あまりいい予感がしない」

「‥‥肝に銘じておきます」

「まあ伊澄さんなら大丈夫だと思うけど。気を付けてね」


 土御門は言いたいことは言ったとばかりに歩き出す。


 その背が完全に見えなくなったところで、月子は大きく息を吐いた。


 やはり最後に残したのは毒じゃないかと思いながら、彼女は崩れていく気力を何とかかき集めるのだった。

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