第93話 必殺の魔術

「マジかよ‥‥」

「何よあいつ、むかつくわね」


 こめかみを冷や汗が流れる。肌に突き刺さる殺意があまりに鋭い。距離にして五メートル強、右藤であれば二歩で斬り込める。

 だが恐るべきことにこの距離は、既に相手の間合いに入っていた。


 奴はその気になればあの位置からでも打ち込んでくる。戦いの経験を積んできた右藤だからこそ、それが分かる。


 半月武者はおもむろに槍を構えた。穂先から石突までが一直線になり、右藤の眼からは点にしか見えなくなる。


 何気ない構えさえも、一級品。初めに槍の長さは頭に叩き込んだが、全体像が見えなくなるだけで格段に攻撃の予想がし辛くなる。


 右藤も右手と左手それぞれで小太刀を引き抜いた。順手の二刀流。


 相手の方が先手を取れるのであれば出し惜しみする理由はない。


 何より今は右藤の力だけで倒す必要はないのだ。攻撃を捌きさえすれば後は軋条の魔術で決められる。


 右藤が逆手から順手に持ち替えたのも同じ理由だ。わざわざ長さというアドバンテージを消すような逆手持ちをしていたのは、相手に武器の間合いを見せないため、防御の意表を突くためである。


 完全に受けに回るなら、順手の方がよほどやりやすい。


「やれ軋条!」

「言われなくても分かってるわよ!」


 軋条が叫び、後ろから音楽が鳴り響いた。どれ程流せばこいつをやれるのかは右藤にも分からないが、長くとも一分はかかるまい。


 その程度ならもたせられる。


 そう思い小さく息を吐いた瞬間だった。


 半月武者の一突きが来た。


 意識の隙間を狙い通した一撃。胸の中心へと迫るそれは、銃弾もかくやという速度だった。空気を切り裂く音を後から引き連れ、穂先は心臓を貫かんとする。


 防御が間に合ったのは判断してのことではなかった。恐るべき殺意に身体が勝手に反応したのだ。


「ぐっ⁉」


 小太刀を十字に槍を受け、外に逃しながら身体を捻って避ける。


 凄まじい衝撃。


 灰色の中で爆ぜる火花に目を焼かれながら、全身を強化し何とか必殺の一撃を凌いだ。


 あまりに無茶苦茶な膂力だ。致命傷は免れたものの身体は威力を殺しきれず後ろに吹き飛ばされ、全身に鈍い痛みが走る。


 それでも右藤は転がりながら即座に体勢を立て直した。


 半月武者はそんな右藤を見つめながら、油断なく槍を構えている。


 もし今追撃されていたら右藤でも対応しきれなかっただろう。


 半月武者が警戒していたのは右藤ではない、軋条の『千首神楽』だ。黒い罅は歌声と共に広がっていき、半月武者の目前へと迫りつつある。


 ここで距離を取られたら面倒だ。


 歯を食いしばって鈍い痛みを無視し、右藤は小太刀を逆手に握り直した。今ので突きの速度は分かった。初撃さえ躱せれば懐に入って脚を止められる。


 走り出そうとしたその時、右藤は思わぬ光景に動きを止めた。


 半月武者が槍を下ろし、脱力したのだ。


 目前には軋条の『千首神楽』が迫っているというのに、防ぐことも逃げることもしようとしない。


(まさか魔術の脅威を認識してないのか? そんな馬鹿な)


 軋条の反応は顕著だった。『千首神楽』を甘く見られたと思ったのだろう。


 声量が上がり、テンポが速くなる。歌詞が徐々に過激になっていき、それに呼応して罅も凶暴性を増した。


 空間が軋み、歌に翻弄され風が荒れ狂う。


 何百と枝分かれした死の手が半月武者へと殺到する。もはや避けることは不可能。


 それに対し、半月武者は顔を上げて罅を見据えた。




「喝ッッ‼」




 爆音に罅が砕け、世界が揺らいだ。


「な‥‥」


 立っていられず膝をついてから、右藤は半月武者の咆哮を受けたのだということに気付いた。


 砕けた罅がむなしく黒い塵となり散っていく。


(う、そだろ。無茶苦茶すぎる)


 音楽、言葉、術式。軋条家が積み重ね、紗姫の圧倒的なセンスによって完成された『千首神楽』が、魔力を込めた一声でねじ伏せられた。


 精緻に組み上げられた必殺の魔術は、無慈悲な暴力によって砕かれたのだ。


 その余波で脳を揺さぶられ、立ち上がれない。


 詰みの盤面をひっくり返され、物理的にも精神的にも劣勢。その中で行動を起こしたのは軋条だった。


「ふざ、けんな」


 彼女もまた右藤同様、脳が揺れ立っているのでやっとの状況。しかし自身の最強の魔術を、正面から、しかもあんな野蛮なやり方で破られて黙っていられるはずがない。


 スピーカーの音楽を消し、マイクモードに切り替える。


 そっちがその気なら、こっちも全力でぶっ潰す。


 言葉にしなくても分かる気迫が痛みを凌駕した。軋条は全身の魔力を一気に喉に集め、強引に術式を組み上げる。


 後先考えない一撃。目が充血し視界は赤く染まり、喉は焼けるように痛い。


 だがそれでも軋条は止まらなかった。極限の集中力で魔術を発動し、己の怒りと魔力をたった一つの言霊にして放つ。


「『軋め‼』」


 マイクを通して増幅された音は、原初の暴力性を伴って半月武者へと向かった。


 全魔力を用いた言葉の砲撃は、もはや罅とは言えぬ黒い稲妻。


 これを受ければ半月武者といえど無事では済まない。そんな一撃を前に敵は槍を振った。


 風を切る鋭い音を鳴らしながら槍が構えられる。兜の下で口が割れ、裂帛の気合を迸らせながら刺突を打ち込んだ。


 そして穂先と言霊が激突する。


 言霊は槍を伝って武者へと黒を伸ばし、魔力を纏った槍はそれを弾き飛ばし続ける。耳を劈く悲鳴が辺り一帯に木霊した。


 あと少しで言霊が届く。


 その瞬間半月武者の足元が爆発したかのように土を巻き上げ、槍が暴れた。纏わりつく全てを吹き飛ばさんと獰猛に唸る。


 銀閃が瞬くたびに言霊は儚く消えていった。


「なん‥‥く‥そ‥‥」


 掠れた声で悪態を吐きながら軋条が倒れていく。全ての魔力を使い切ったのだ、立っていることも難しく、何とか意識を失わないようにするので精一杯だった。


 そんな軋条を横目に、右藤は全力で半月武者を見据えていた。


 今彼女を救うために取るべきは、逃亡じゃない。


 半月武者は軋条の魔術を防ぐのに相当な魔力を使い、更に体勢も攻撃を出し切って死に体の状況。


 ここで詰めなければ、勝ち目はない。


 右藤は身体強化をしながら全力で地を蹴った。もはやここからは時間との勝負。半月武者に立て直す余裕を与えずに切り殺す。


 桜吹雪のように黒い塵が舞う中を右藤は駆け抜けた。半月武者に肉薄するまでにかかった時間は一秒にも満たない。


 しかしその一瞬で半月武者も槍を引き戻していた。この距離で突かれれば避けるのは不可能。


 故にこの刹那を見極める。


 半月武者が腰を落とし、手の中で槍を捩じるように握った。


 ――来る。


 そう判断した時、既に右藤の魔術は発動していた。


 『千首神楽』のように破壊力はない。汎用性も低く、ここぞという瞬間しか使用が許されない。その代わり対魔術師に特化した力は、相手の意表を確実に突く。




 『天地返し』。




 陰は陽に、天は地に。時には魔術の効果すら強引に反転させる不条理の術式。


 今の右藤が発動するそれは、相手の天地を強制的に入れ替えるものだった。


 即ち半月武者は頭を地に脚を天に、身体が上下にひっくり返ったのだ。まさしく驚天動地の出来事だろう。


 逆手持ちの小太刀も、鍛えぬいた身体強化も、全てはこの隙を貫くためにある。


「シィァッ‼」


 右藤はまるで地を這う狼の様に滑らかな走りで更に距離を詰めた。


 敵からの反撃はあり得ない。刺突のために踏ん張っていた脚は宙に浮き、槍と甲冑は不安定な重りとなって地面に引っ張られる。受け身を取ることさえ困難。


 狙うは首。止まることなく最高速で切り抜ける。


 右藤の右手が撓り、走る速度をそのまま切っ先に乗せて必殺の一閃を放つ。


 そのはずだった。


 驚くべきことが起きた。


 武者の刺突が右藤の脇腹を抉ったのだ。冷たい刃物が肉の中に潜り込み、熱を伴って血が溢れ出す感触。


「ぉぐっ‥‥!」


 心臓を突かれなかったのは幸運に過ぎない。たまたま攻撃しようとしていた右の小太刀が槍とかち合い、狙いが逸れたのだ。


 半月武者は天地返しを受けながら左手一本で全体重を支え、右手だけで突いてきた。全く予想だにしない反撃。


 右藤は血をまき散らしながらバランスの崩れた体勢を何とか立て直そうとする。


 だがスピードの乗った体は思うように制御できず、無様に地面を転がった。


 枯葉と土を巻き上げながら、せめて距離は取らんと勢いそのまま転がっていく。


 そんなことが無意味であることは、右藤自身よく分かっていた。立ち上がろうと地面に手を着くも、脇腹の痛みで思うように体が動かない。集中力が途切れ、身体強化もほとんど消えかかっていた。


(やべえ‥‥しくじった)


 まさかあの状態から反撃されるとは思わなかった。完全に己の魔術を過信した結果だ。


 このままでは二人とも殺されるだろう。


 自分が死ぬのは恐ろしいが、仕方ないと割り切れる。対魔術師なんて家系だ。そう長生きできるとは思ってない。


 けれど、視線を後ろに下げれば、そこには軋条が倒れていた。


(紗姫だけは、何とか逃がさねえと‥‥親父さんたちに合わせる顔がねえ)


 その一心が指先に力を込め、地面を削って掴む。


 右藤真理と軋条紗姫は、幼い頃から交友がある幼馴染だった。それも子供同士だけでなく、家ぐるみで長い付き合いがある。


 それは本来ならあり得ないことだった。


 右藤家は対魔官や魔術師の中でも特に疎まれている家柄だ。古来から魔術の私的利用によって社会の法則を乱す魔術師を捉えてきた血筋。


 どの家も家系を紐解けば誰かしらは右藤家に処されているだろう。理屈と感情は別物だ。その歴史は越えがたい溝となる。


 魔術師の世界は狭い。生まれながらに異端とされた人生は、どうにもならぬ孤独と怒りに満ち溢れていた。


『あんた、魔術師殺しの魔術師なんだって? 私どうしてもぶっ倒したい奴がいるのよね、教えなさいよ、そのやり方』


 そんな中、紗姫だけが真理を恐れなかった。


 あの性格だ、物怖じなんて言葉とは無縁。その当時から天才と持て囃されていた伊澄月子を目の敵にし、積極的に真理の技術を知りたがった。


 紗姫と真理は、妙に馬が合った。


 軋条家の人たちも忌むべきはずの真理に良くしてくれたのだ。


 紗姫がどんな思いで真理の近くにいてくれたのかは知らない。案外体のいい下僕くらいに思っていたのかもしれない。


 それでもよかった。彼女に救われたこの人生、何としてでも報いなければいけない。


「ぐっ‥‥ちくしょう」


 脇腹の傷は臓器まで達していない。血さえ止めればまだ動ける。


 だがここで立ち上がれたところで何ができるのか。


 呻く真理の前に半月武者がゆらりと立った。


 兜の下から覗く黒い眼窩が敗者を見下ろしていた。


「‥‥紗姫、逃げろ」


 届くかどうかも分からない。それでも言わずにはいられなかった。もう自分にはどうすることもできないから。


「真理!」


 紗姫の呼ぶ声も虚しく武者の槍が持ち上げられる。血濡れの白刃が灰の中で光り、切っ先が心臓を向いた。

 死を覚悟し、それでも槍を睨み続ける真理は、その時あり得ない光景を見た。




 何かが真理の頭上を飛び越え、武者へと躊躇なく突っ込んでいったのだ。




 その正体は分からない。だが明らかなのは奇襲を仕掛けた程度で半月武者は揺るがないという事実。


 即座に槍は真理から乱入者へと向けられ、爆発的な加速を得た。


 空中では避ける術はない。どこの誰かも分からない乱入者は急所を貫かれて死ぬだろう。


 しかしその予想は甲高い金属音と共に裏切られた。


 槍が大きく弾かれ、半月武者の上体が反った。


 乱入者はまともに踏ん張ることさえできない空中でありながら、あの凶悪な突きを打ち払ったのだ。


「な‥‥」


 実際に槍を受けた真理だからこそ分かる。それがどれ程の難易度なのか。受けるどころか受け流すだけで精一杯のふざけた膂力。それを腕力だけで弾くとなれば、それはもう人間業じゃない。


 真理の驚きを笑うように、乱入者の動きは止まらない。地に脚が着いた瞬間に身体を捻り、半月武者の空いた腹を蹴り飛ばす。


 ゴッ! と巨体が浮き上がり、強引に後ろに下がらせた。 


(一体誰がこんなことを)


 月子は前で戦っているからあり得ない。是澤も真理の見立てでは近接戦闘が得意なタイプじゃなかったはずだ。


 真理と武者の間に立ったのは、見覚えのない男の後姿だった。


 半袖のシャツにジーンズというこの場にはあまりに相応しくない出で立ち。


 その中で異質な存在感を放つのは、右手に握られた一振りの太刀だ。


 至る所が刃毀れし、今にも折れそうななまくら


 それを独特の姿勢で構え、男は武者を見据えた。


 もはやこの男がどんな人間かはどうでもいい。ただ明確なのは、この男の勝敗によって自分たちの運命が決まるということだけだった。

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