第8話 元カノ、登場す

 夜に沈んだ道路のど真ん中を、女が一人、我が物顔で闊歩する。下駄を履いていれば、天狗かと間違う程に高らかな足音を立てていたことだろう。


 美しく伸びた鼻筋は、まさしく彼女の気位の高さを表していた。


加賀見綾香かがみあやかは、今年二十三歳になる対魔特戦部所属の公務員だ。肩甲骨にかかる程の黒髪をポニーテールにした釣り目の美女で、胸がそれなりにあることが密かな自慢。彼氏はいない。


 そんな綾香は、至極面倒臭そうな顔で街を歩いていた。


 彼女以外に、あたりに人影はない。おかしな話だ。夜とは言っても、人が寝静まるにはまだ早い時間だし、ここは決して人通りが少ない道ではなかった。それにも拘らず、歩く人どころか、人そのもの気配が存在しない。


 異変はそれだけではなかった。どの建物からも完全に光が消え、街並みを照らすのは街灯だけである。この都会において、あり得ない異常事態。


 だが、そんな異質な空間の中で、綾香はまるで気にした様子もない。


 それは彼女が異常に気付かないくらい鈍感というわけではなかった。


 理由は簡単。この状況を作り出したのが綾香たちだったからだ。


 彼女が勤める対魔特戦部というものは、決して表舞台に出ない仕事をこなす特殊な部署だ。しかしそれは別段、政治的、法的な理由から表に出ないわけではない。


 もっと根本的な部分で大衆に認知されないのだ。


 古来より名を変え形を変え、妖や怪異といった異形の物と戦い、超常の天災を鎮めること。それこそが対魔特戦部の人間、対魔官に任された仕事なのである。


 高校卒業と同時にそこに配属された加賀見綾香も、当然と言うべきか普通の人間ではない。


 魔力を込めた特殊な波長を用い、様々な現象を引き起こす波動の魔術師。それこそが加賀見綾香の仕事時の姿だ。


 既にこのあたり一帯には、人が間違っても立ち入らないよう、対魔特戦部によって『人払い』の結界が張ってあった。人の気配がないのは、それが理由だ。


「にしても、なんだってこんな変哲もない街中にね」


 綾香は呟いた。


 普段彼女たち対魔特戦部が行う仕事は、地域信仰の根強く残る僻地や、山、あるいは学校といった人の集まる場所が普通だ。それは、異常を生む人の念と、それが熟すための時間が必要だからだ。


 この辺りで大きな事件が起きた覚えはない。


 にも拘らず、今日綾香は突然ここに召集された。何故召集されたのかは、分かっているが、問題は、どうしてここなのかだ。


 そんな綾香の呟きに、返ってくる声があった。


「これまでも、『フレイム』が現れた場所は基本的に街中だったと聞いているけれど?」


 冷たささえ感じる声に、綾香が声の主を見た。


 そこに居たのは、どこか無機質な美しさと幼げな愛らしさを兼ね備えた少女だった。


 いや、少女というのもおかしいだろう。背丈は女性の綾香と比べても低く、胸元もつつましいものだが、彼女は紛れもなく二十歳を超えた女性である。


 夜の中に溶けそうな濡れ羽色の髪は肩程に伸ばされ、凪いだ水面を思わせる瞳が綾香を見ていた。


 彼女は儚さとは違う、暗闇の中でひっそりと輝く月光花のような美しさを持っていた。


 ――伊澄月子いすみつきこ


 私立崇城大学の文学部二回生であり、文芸部に所属する女子大生。そして同時に、対魔特戦部所属の魔術師だ。


 普段から人に冷たい印象を与える彼女だが、今日は輪をかけて不機嫌だな、と幼少の頃からの付き合いの綾香は気付いた。


「‥‥なに不貞腐れてんの、月子」


「どういう意味? 別にいつも通り」


 そう言うと、月子は綾香から視線を外して前を見た。


(やっぱり不機嫌じゃない)


 綾香は肩を竦める。理由は分かっていた。


「そんなに後悔するくらいなら、彼氏くんと別れなければよかったのに」


「っ――!」


 バッ! と月子が綾香を勢いよく振り返った。何か言いたそうなその顔は、しかし、すぐにいつもの表情に戻る。


「関係ない。彼と一緒に居ても、未来がない。私がそう判断して別れたの」


「はいはーい、そうですねー」


「‥‥何か言いたいの?」


「別になにもー?」


 綾香は強情な幼馴染に何か言うのを諦めた。


 一度自分で決めたことについては頑固な女なのだ。何故月子が一年間付き合った彼氏と別れたのか、しっかりと理由を聞いたわけではないが、綾香は何となく察しがついていた。


 とはいえ、ここは女子会の出来る喫茶店の中ではない。


 夜の街並みに現れた異変に、綾香は顔を引き締めた。


「ま、そろそろ無駄話も終わりね。あいつ、本当隠す気もないわね」


「‥‥気を付けて」


「誰に言ってるの?」


 月子の言葉に、綾香は口の端を吊り上げて笑う。



「いい加減、今日は仕留めさせてもらうわよ」



 まるで、その言葉が切っ掛けのようだった。


 等間隔に並ぶ街灯の向こうから、黒い影がぼんやりと浮かび上がる。


 それはゆったりとした足取りで、真っ直ぐに綾香たちに向かってきた。


 人払いの結界によって遮断されたこの空間は、たった一人のために作られたものだ。その存在が確認された瞬間から、対魔特戦部が事を起こすために準備した戦場。


 靴音と共に、ポツポツと声が綾香と月子の耳に聞こえ始める。


「ああ、分かってるよ。――え、でも君も言っていたじゃないか、間違いなく『鍵』はこのあたりにあるはずって。――うん、大丈夫だよ、まだ近い」


 それは明らかに会話をする声だ。


 だが、聞こえてくる声は一人分だけ。靴音も、光の下徐々に露わになる人影も、一人分。


「‥‥狂人め」


 綾香は思わず吐き捨てるように言った。


 彼女と月子の見つめる先、声の主の正体がついにその姿を見せた。


 黒い外套に包まれた身体は二メートル近い。そのフードの中で、白髪が見え隠れしている。


 白髪の下から覗く顔は、皺が刻まれた壮年の男の顔だ。だが明確に常人のそれとは異なる点が一つ。


 男の左眼は、義眼だった。


 それもただの義眼ではない。明らかに人の物ではない大きさの義眼が、枠で強引に広げられた眼窩に押し込まれている。その義眼は、何かを探すようにギョロギョロと蠢いていた。


 大概魔術師なんていう人種は人間的におかしい輩が多いものだが、そんな連中を多々見てきた綾香と月子から見ても、この男はあまりに異質だった。


 何より、その身体から漏れ出る魔力が尋常ではない。


 人は本能的に恐怖を避け、自身の常識を超える事態が起きた時、それを認識しない防衛反応が働く。


 だからこそ、普通の人間はこの男を感知出来ず、逆に魔術師は凄まじい危機感と共に知るのだ。化け物が、そこにいると。


「――ん? ああ、君たちは確かこちらの魔術師だったかな?」


 綾香と月子の存在に気付いた男が、独り言をやめて言った。


 まるで意にも介されてないような物言いに、綾香は歯噛みする。


 この男と綾香たちが相まみえるのは、これで三度目だ。


 男がこの周辺に出没するようになったのは、ここ最近。ただ膨大な魔力を撒き散らしながら、規則性もなく、意図も分からず街を練り歩く男の姿は、魔術師からすれば銃火器で武装した人間が野放しになっているようにしか見えない。


 一度目の捕縛作戦は、その在り方と脅威を正しく認識しておらず、まるで相手にもされず一蹴された。二度目はしっかりと人員を確保し、作戦を立てて挑んだ。


 結果は惨敗。死者がほとんど出なかったのは、意図的にこの男に手加減されていたからだ。


 それ以降、対魔特戦部はこの男に『フレイム』と識別名を作り、これを捕縛するために本腰を入れて対策を立て始めた。


 フレイムは、ふむと顎に手を当てる。


「私としては、今君たちを殺すのは時機ではないのでね。手加減するのも苦手なんだ、退いてくれると助かるのだが」


「‥‥まるで、勝ちを確信したような物言いね?」


 綾香が言うと、フレイムは心底不思議そうに彼女を見た。


「それは当然だろう? 私たちが君たちのような劣等種に負けることなどあり得ない。なんだいシシー? ――成程、そうか。それが分からないのが人族というものだったね。謝罪させてもらおう、今のは君たちの愚昧さを考慮しない物言いだった」


 フレイムは少しの嘲りすら見せず、そう言った。


 最初から、こうだった。 


 この男に綾香たちを馬鹿にしているつもりはない。本当に、心底から人間を対等だと認識していないのだ。


 せいぜい会話の出来る畜生かなにかだと思っているに違いない。


「まったく、やっぱり会話なんてしようとするもんじゃないわ」


「自業自得でしょ」


 月子の冷たい言葉に、綾香はなによーと口を尖らせた。


 こうしてつい軽口を叩いてしまうのも、無意識の内に緊張を和らげようとするためだ。


 それ程までに、フレイムから発せられる魔力のプレッシャーは凄まじい。


 綾香はそれを自覚すると、深呼吸した。心が乱れれば、呼吸が乱れ、それは技にも如実に表れる。


 左脚を前に一歩踏み込み、綾香は構えを取ると魔力を練り始めた。


「それじゃ、行くから。月子、よろしくね」

「了解。無茶はしないで」

「分かってるわよ」


 本当に、無茶をしないで終われればいい。


 綾香はそう思いながら、地を蹴ってフレイムへと駆けだした。

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