第85話 病気

 行っちゃだめだと分かっているのに、恐怖で身体が言うことを聞かない。


 震えが止まらず、目に涙が溜まって足元が歪んだ。


 こんな奴らの前で泣きたくなんてないのに、言いなりになんてなりたくないのに、逆らえない。


 その時脳裏に浮かんだのは、初めての飲み会で自分を助けてくれた先輩。いつもはへらへらと頼りないのに、陽向が助けてほしい時はいつも手を差し伸べてくれる人。


 それは悪夢の中に浮かんだ儚い希望だった。現実逃避と言い換えてもいい無意味な空想。


 しかし陽向は知らない。


 根拠のない微かな希望へ、全力で駆けつける人間はいる。




「おいお前ら、何してんだ?」




 その声を聞いた時、陽向は夢だと思った。


 反射的に振り返ってその姿を見た時、思わず泣きそうになった。


 山本勇輔が、見たことのないような険しい顔で立っていた。


「あ? 何お前」


 長髪も振り返り、圧のある声で返す。


 悪事を平然とやってのける螺子の外れた凄みに、陽向は思わず肩を震わせた。


 けれど勇輔は少しも歩みを緩めず、男たちと距離を詰める。


 そして陽向と男たちの様子を一瞥いちべつし、「ああ」と呟いた。


「こっちにもいるのか、お前らみたいな奴が」

「何言ってんだお前、舐めてんの?」

「正義のヒーローのつもりなんじゃね」

「馬鹿だなぁ、人とか呼んでくりゃいいのによ」


 男たちはそれとなく陽向の傍から勇輔を取り囲むように立ち位置を変えた。


 一触即発の気配に息を呑む。


 もしも殴り合いになんてなってしまったら、明らかに喧嘩慣れした男三人と勇輔では、どうなるかなんて火を見るより明らかだ。


 そんな陽向の心配をよそに、勇輔は徐に手を上げた。


 その手に握られているのは、男が持っていたはずの携帯だ。


「未遂じゃ大した罪にもならなさそうだけど、こっちは調べりゃ色々出てきそうだな」

「‥‥は? おい待ていつの間に!」


 男が驚くのも無理はない。


 陽向にも勇輔がいつ携帯を奪ったのか、全然分からなかった。


 だが相手を挑発するようなことをすれば当然、血の気の多い男たちの敵意は一気に膨れ上がった。


「てめぇ!」


 長髪が拳を振り上げ、勇輔へと踏み込んだ。


「先輩!」


 陽向が声を上げるのと鈍い音が響くのはほぼ同時だった。


 思い切り長髪が勇輔の頬を殴りつけていた。骨と骨がぶつかる嫌な音と共に、勇輔の顔が弾かれる。




 刹那、返しの拳が長髪の鳩尾みぞおちを深く抉った。




「‥‥え?」


 何が起きたのか分からず混乱する陽向の前で、長髪がひざから崩れ落ちた。


「ぉぐ‥‥、うぇっ、えっ」


 そのまま長髪の男は赤ん坊のように丸くなると、えずきながら涙を流してもだえる。


 それを見下ろしながら、勇輔は殴られたことなどなかったかのように口を開いた。


「この後のことは警察に任せる。けどな」

「お、お前! こんなことしてどうなるか分かってんだろうな!」


 引き攣った顔で拳を握る男二人を前に、彼は続ける。淡々と、怒りを隠すように。


「可愛い後輩泣かしたんだ、一発くらいは覚悟しろよ」


 直後言葉通りに勇輔は一発ずつ男たちの鳩尾に拳を叩き込んだ。抵抗や逃走など一切許さず、後ずさる男の懐に踏み込み、殴り上げたのだ。インパクトの瞬間、足が宙に浮く様子から、陽向にもその威力が凄まじいことは分かった。


 全員を瞬く間に殴り倒した勇輔は、そのまま陽向の方へ歩いてくる。


 正直何が起こったのか分からなかった。


 総司ならともかく、勇輔が喧嘩に強いなんて聞いたことがなかったし、そもそも今のは喧嘩にすらなっていなかった。


 自分の知らない姿はあまりに暴力的で、想像の埒外らちがい


「大丈夫か陽向? 変なことされてないよな、後は俺がやるからもう安心していいぞ」


 なのにその安心させるような笑顔はいつものままで。


「先‥‥輩‥‥」


 陽向は自分でも気づかない内にボロボロ涙を流していた。


 恐怖、安心、驚愕と自分でも整理のつかない気持ちがぐちゃぐちゃに混ざり合って、歯止めが利かなくなったのだ。


「泣くなよ。大丈夫だからさ」


 そんな陽向に勇輔は安心させるように言った。


 訳が分からないくらい混ざり合った気持ち、破裂するんじゃないかという荒々しい鼓動。顔が熱く、いくら呼吸をしてもずっと息苦しさを感じる。感情が次から次に涙になって溢れていった。


 その中で一つの想いだけが明確だった。


 酷い混乱の中で、決して見失うことのない強い輝きは、あらゆる感情を飲み込んで暴走する。





 ――やっぱり、病気だ。




     ◇   ◇   ◇




 陽向がいなくなったことに俺が気付いたのは、黒井さんが一人で読書しているのを見た時だった。


 あれ、さっきまで陽向も一緒にいたと思ったんだけど。


「黒井さん、陽向は? さっきまでここにいなかったっけ」

「ひなさんなら高山先輩と飲み物を買いにいかれましたよ」


 高山?


 一瞬誰のことか分からなかったが、思い出した。そう、お洒落髭の名前が高山だ。お洒落髭のイメージが強すぎて名前を忘れていた。


 それにしてもそうか、あいつも遂に動いたのか。基本陽向は俺たちと行動してたから、声を掛けるタイミングはそうそうなかっただろうし。


「‥‥」

「どうかしたんですかユースケさん?」

「いや、なんでもないんだけど」


 あれだけ邪魔するなって言われたし、誰が誰にアプローチをかけようと、犯罪でない限りそれは自由だ。


 でもなあ、何故だろう。なんか微妙な不安感が付きまとう。


 胸騒ぎというか嫌な予感というか、あえて言うなら勇者としての勘である。


 本来なら一笑に付すような理由だが、残念なことにこういった勘程よく当たる。勇者時代、に磨かれたセンスは嫌になるほど研ぎ澄まされていた。あまりいい思い出はないけど。


「悪いリーシャ、カナミ。ちょっとトイレ行ってくる」

「分かりましたわ。リーシャは私が見ておきます」

「私も赤ん坊ではないんですけど‥‥」


 ぼやくリーシャをあとに残し、俺は海の家の方へ向かった。


 酒も買うはずなので、自販機じゃなくなこちらに来ているはずだ。


 しかしその予想も虚しく、二人の姿は見つからない。


 うーん、どこか別のところに買いにいったのか。というかそんなムキになって探す必要もないわけだし。所詮は嫌な予感というだけだ。お洒落髭はナンパ野郎だけど決して悪い奴じゃない。


 やっぱり帰るか。


 そう思って踵を返そうとした時、こちらに歩いてくるお洒落髭が目に入った。心なしか髭がやつれ、必修単位を落とした時よりも残念そうな顔をしている。


 更に不思議なことに、一緒にいるはずの陽向の姿が見えなかった。


 向こうも俺に気付いたらしく、こちらに歩いてきた。


「どうしたんだ、そんな死にそうな顔して」

「んな顔してねーよ。それよりお前、陽向探しに来たのか?」

「別にそういうわけじゃ」


 追ってきたというのも流石に後ろめたくて、思わず適当にはぐらかした。


 そんな俺にお洒落髭はくたびれた老人のような声で言った。


「まあなんでもいい。向こうの広場にいるからよ、ちょっと迎えに行ってやってくれ。戻り辛いかもしれねぇ」


 ああ、そういうこと。


 まことに遅ればせながら、お洒落髭がこんな顔をしている理由も、陽向がここにいない理由も合点がいった。


「‥‥元気出せよ」

「うるせえ! 男に慰められても全く嬉しくねぇんだよ!」


 気持ちは分かるが落ち着け。


 とりあえず陽向の居場所も分かったし、お洒落髭が変なことをしたわけでもない。


 ぶっちゃけ迎えにいく必要もないんだけど、確かに戻りにくさはあるかもしれない。


 俺はそのまま広場の方へ向かって歩き出した。


 そこで見えたのだ。


 三人の男たちと、その隙間から微かに覗く茶色い髪が。


 嫌な予感が一瞬で現実へと変わる戦慄せんりつ。緊張感が電流のように駆け抜け、頭で考えるよりも先に駆け出していた。



 

「おいお前ら、何してんだ?」




 口から出た言葉は自分でも驚くほど冷たくて重い。


 陽向じゃないかもしれない。たまたま話をしていただけかもしれない。


 そんな甘ったるい希望は、不機嫌な男たちの表情、そして目に涙を浮かべる陽向を見た瞬間吹き飛んだ。


 後に残るのは、はらわたが煮え立つような怒り。


 それでも頭の中で冷静な部分が残っていたのは、こういう経験が初めてじゃなかったからだ。


 前線に近い場所になればなるほど、敵意と悪意は境界がぼけていく。傷つけることに慣れ切った人間は、容易く悪に手を染める。


 そいつらと同じ、暴力を振るうことを躊躇わない目だ。


 今すぐにでも殴り倒してやりたい気分だったが、ここはアステリスじゃない。やるからにはルールを守れ。


 拳を握ろうとする怒りを抑え込み、携帯を奪って相手を逆上させる。


 あとは簡単だ。一発こっちがぶん殴られれば、正当防衛が成り立つ。やり過ぎなければ問題ないはずだ。


 やり過ぎるな、感情をコントロールしろ。


 そう自分に言い聞かせ、一発ずつ男の腹に拳を叩き込む。


 手加減したから大きな怪我にはならないだろうが、暫くは臓腑がよじれる痛みに呼吸も苦しいだろう。


 男たちに起き上がる気配がないことを確認してから視線を下げると、そこでは陽向が目を大きく見開いて俺を見上げていた。


 瞳の中に映るのは、困惑、恐怖、安堵。


 ――ぁ。


 頬を思い切り殴りつけられた気持ちがした。


 ――ああ、そうだよな。


 頭の中にフラッシュバックする幾つもの光景。助けた側がいつも感謝されるなんてことはない。敵が恐ろしければ恐ろしいほど、それを打ち破る味方だって恐ろしい。


 何度も向けられてきた畏怖の視線。


 鎧の中身にいるのは人か化生か、助けた人間から向けられる疑惑と恐怖程心を抉るものはない。


 しかも陽向は一般人だ。戦いが身近なアステリスの人間ですらない。暴力なんて無縁の世界で生きてきた人間。


 そりゃ怖いよな。


「大丈夫か陽向? 変なことされてないよな、後は俺がやるからもう安心していいぞ」


 できるだけ怖くないように、安心させられるように笑え。


「先‥‥輩‥‥」


 ボロボロと溢れ出す涙。怖い思いをさせてしまった。嫌な予感がした時点でもっと全力で行動してれば、もっと別の方法で解決していれば。

 後悔先に立たずとはよく言ったものだ。


「泣くなよ。大丈夫だからさ」


 ここで抱きしめたり、頭をなでたり、寄り添える人間だったらもっと陽向を安心させてやれるのかもしれない。


 けれどできない。





 

 ――やはり勇者おれの手は、汚れている。

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