第84話 異変

 失敗したと後悔したのは、砂浜から少し離れた広場に来た時だった。


 陽向は口からこぼれそうになるため息を抑え込み、笑顔を崩さないように心がける。


 隣では文芸部の先輩が饒舌じょうぜつに話し続けていた。


(あー、これなら誰かついてきてもらえばよかったな)


 そもそもの発端は、海での遊びがひと段落して、ご飯でも食べようかと拠点に戻ってきた時だった。


 本を読んでいた黒井華と喋りながらお肉を摘んでいると、先輩に声をかけられたのだ。丁寧に整えられた髭が特徴的な、確か高山さん。


 何度か複数人の飲み会の時に一緒になったことがある。個人的に飲みに誘われたこともあったはずだ。


 面倒見はいいし、悪い人じゃない。


「陽向、ちょっといいか。悪いんだけどさ、飲み物少なくなってきたから買いに行くの手伝ってくれん?」

「あ、はい。分かりました」


 ついいつもの癖で二つ返事をしてしまった。こういうのは後輩の役目だし、隣にいたはな相手だと頼みにくいというのも分かったからだ。


 それから二人で海の家まで行こうとしたところ、高山が突然言った。


「そういえばさ、この近くに海が見渡せる広場があるらしんだけど、ちょっと寄ってこうぜ?」

「広場ですか? でも飲み物買いに来たんじゃ」

「まだ残りもあったし、少しくらい時間かかったって問題ねーよ」

「そうですか、じゃあ折角ですし」


 先輩からの誘いは無下にはできない。陽向は仕方なく笑顔で頷いた。


 そのまま高山の話を聞きながら歩いていくと、確かに彼の言う通り広場が見えてきた。広場と言っても、芝生にいくつかのベンチが置かれた簡素な場所だ。時間も昼時でビーチが近いせいか、人影はほとんどない。


 わざわざこんな場所に二人きりで行こうなんて、その意図は明白だ。


 高山はそのまま広場の端まで陽向を連れて行った。


「どうだ? 中々いいだろ」

「はい、とっても綺麗‥‥こんなところがあったんですね」


 広場は少し高台になっている場所にあるせいか、光を反射してキラキラ輝く海が広く見渡せた。潮風が陽向の濡れた髪を揺らす。


 確かにここはとてもいい場所だ。見事な景色に目を奪われていたせいで、一瞬どうしてここに来たのかを失念してしまう程に。


「なあ陽向、今付き合ってる人とかいるの?」

「えっ? いえ、特にそういう人はいませんけど」


 心構えを解いていた時に突き込まれた質問は、想像以上に鋭いものだった。横を向けば、真剣な顔で高山がこちらを見ていた。


 この後に続く言葉は、聞く前から分かっていた。


「じゃあさ、俺とか候補に入んないかな? ずっと陽向のこと気になってたんだよね」


 ああ、やっぱり。


 大学に入ってから告白された回数は何回目だったか。好意を寄せられること自体は嬉しい。けど、それを断らなければいけないのは、やっぱり辛い。


「ごめんなさい」


 たった一言だけ。陽向はそれ以上のことは言わず頭を下げた。なるべく重くならないように、いつも通りの自分の声で。


 下げた頭の上から、残念そうな声が降ってきた。


「そっかあ。いや望み薄いかなあとは思ってたんだけどさ。やっぱり、他に気になる人とかいる感じ?」

「‥‥」


 その質問をされるのも、初めてじゃなかった。


 答えは決まって「そういう人がいるわけじゃないんですけどー」と笑いながらはぐらかす。


 良くも悪くも目立つ陽向は、自分のそういう話題が面倒な噂を引き起こすことをよく分かっていた。


 そうなったら、間違いなく勇輔たちに迷惑がかかる。それが嫌だった。


 しかしこの時、陽向の口は勝手に動いていた。


「います。気になる人」


 高山は一瞬驚いた顔をして、それから笑った。


「そうか、悪かったな突然こんな話して。ま、もし候補に入ることがあったら教えてくれよ」


 そう言うと高山は陽向を置いて広場から出ていった。飲み物は全部買って行ってくれるらしい。


 陽向も気まずい空気の中で一緒に飲み物を買いに行くのは辛いので、その気配りはありがたい。


 それにしても、


「言っちゃったなあ」


 高山が言いふらすかどうかは分からないが、こういった話は一度口に出した時点でどこからか漏れ出すものだ。飲み会大好きゴシップ大好きな大学生に、沈黙を期待するほうが無理がある。

別に言うつもりはなかったのに、つい口から出てしまった。


 会長と飲み会で話した時とは違う。あの時は否定したが、今回は明確に好意を口にだしたのだ。 それは何が原因だろう。


 勇輔の周りにたくさん集まる魅力的な女性たちや、絶対に超えられない昔の恋人。あるいは、胸に仕舞っておくことができなくなったのは、もっと単純な理由だろうか。


 そこまで考えて、陽向は自分のことを鼻で笑った。


「病気ですね、ここまで行くと」


 それからどれくらい広場で漫然と海を眺めていただろうか。


 そろそろ高山も戻っているころだろう。


 あとは何食わぬ顔でタープに戻って、適当に話を合わせておけばいい。


 そう思い、後ろを振り返った時だった。




「君一人? こんなところで何してんの?」




 三人の男たちが陽向をとり囲むように立っていた。


 全員が海の男といった出で立ちで、日焼けした筋肉質な体を晒している。


 ――しまった。



 そう判断した後の陽向の行動は迅速だった。


「いえ一人じゃないです。友達と来ているので、戻らないと」


 こういった手合いは足を止めて相手をしてはいけない。多少強引にでもその場を離れるのが最善だ。


 しかし男たちはさり気ない位置取りで陽向の行く手を遮った。


「いや俺たちもたまたま見かけたんだけどさ、別れ話?」

「何か辛いことがあるなら話聞くよ?」

「何でもないです。大丈夫なので通してもらっていいですか」


 のぞき見されていたことに無性に苛立ちがつのり、陽向は普段になく強い口調で言い放った。


 その言葉に、初めに声を掛けてきた長髪の男が眉をしかめた。


「その言い方はなくね? こっちも心配して声かけたんだけど」

「大丈夫ですから、お構いなっ!」


 突然、長髪が陽向の腕をつかんで無理矢理上げた。


 自然と顔が上がり、いやらしい笑みを浮かべた顔を見上げる形になる。


「お、やっぱ可愛いじゃん。なあ、あれ別れ話かなんかだろ。俺たちが話聞いてやるって」

「‥‥離してください。声出しますよ」

「別にいいけど、そういうことされるとさ、俺たちも手が滑っちゃうかもしれないぜ?」


 にやにやと笑う長髪が隣を顎でしゃくると、もう一人の男が携帯を陽向に向けていた。


「っ――⁉」


 ゾッと恐怖が喉元を締め上げた。


 上着を羽織っているとはいえ、今の陽向は水着姿。男たちの力で少し力を入れれば、剥ぐのは簡単だ。自分たちの言うことを聞かなければ、別のやり方で従わせるという脅し。


 助けを求めて男たちの隙間から広場を見ても、人影はない。


「な、あっちに車停めてあるからさ。友達にだって連絡入れとけば大丈夫だよ、すぐ済むから」


 この人たち、手馴れてる。


 そもそも人通りの少ない場所、視線を遮るような立ち方。脅しまでの流れ。


 よく見れば水着を着ているのに全員濡れている様子もない。最初から泳ぐために来ているわけじゃないのだ。


 そこまで気付いて、陽向の呼吸が徐々に浅く速くなっていく。


 自分に向けられる剥き出しの悪意に、立ち向かおうという意志がしぼんでいくのが分かった。


「ほら、こっちだよ」

「いやっ、やめて!」

「あんまりうるさくするなよ。それともここで撮影会でもしちゃう?」

「それは‥‥」


 たったそれだけ。その言葉と向けられたカメラが陽向の抵抗を奪い取る。


 男たちの歩きに合わせるように、陽向もまた自然と歩きだしていた。

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