第86話 研修三日目

 警察に連絡をしてからは、トントン拍子に話が進んだ。


 元々三人とも地元の人間で、警察のお世話になったことも何度かあるらしい。そういった経緯から、俺と陽向の話もすんなり信じてもらえた。


 陽向の件に関しては未遂で済んでいること、旅行中ということから、簡単な事情聴取で終わらせてくれた。


 あとは携帯を調べて余罪が出れば、あの三人はそれ相応の報いを受けることになるはずだ。


 話を聞いた会長は怒り狂ったが、あまり大事にはしたくなかったので、他の文芸部のメンバーには伏せられることになった。それは陽向の希望だ。楽しい合宿に水を差したくなかったんだろう。


 あんなことがあったというのに、人のことを気に掛けられるのは心が強い証拠だ。


 俺はといえば陽向から離れ、他の連中とバカ騒ぎをする気にもならず。午後はリーシャの水泳の特訓を手伝って時間を潰した。


 頭の中に晴れない靄がかかったまま、気付けば波の色が薄暗い橙色に変わっていた。


 そして次なる事件が起きたのは、夜も更け虫たちも寝静まる頃のことだった。




     ◇  ◇  ◇




 新人研修が始まり、二日目の夜。


 月子と是澤は宿泊しているホテルの一室を使って、ミーティングをしていた。新人を交えた情報交換会は既に終えており、ここにいるのは月子と是澤の二人だけだ。


「‥‥これは想像以上に大変な事態かもしれませんね」


 新人たちからもたらされた情報を精査しながら、是澤は眉を顰める。


 月子も同様に難しい顔で資料を読み直す。


 この二日間、新人たちはよく働き様々な情報を集めてきた。やはり多いのは、傷ついた小動物や鳥の死骸。


 そしてそれらは全てある共通点を持っていた。


 どの動物たちも、傷ついた地点から移動して事切れているのだ。


 それを示すように、道のように続く血痕もいくつか発見されている。


 そしてそれらは全てある方向へと続いているのだ。


「やはり社が原因で間違いないでしょうね。そこを中心に霊災が発生している」

「‥‥そうみたいですね」


 是澤の確かめるような言葉に月子は頷いた。


 ここまでは既に新人たちとのミーティングでも結論が出ていた。今のは別の要因がないか、改めて見直していたのだ。


 どの情報を見ても、やはり血の道は頂上から続いている。


 その付近で何かが起こり、動物たちは傷ついた身体で逃げてきたのだ、下へ、下へと。


 様々な情報を統合した結果、霊災が起きている範囲は社を中心としておよそ半径百メートル程の範囲。


 平地であれば見通すことも容易な範囲だが、斜面で木々が鬱蒼と茂る中では、その全容を把握することは困難だ。


 しかも面倒なことに、外から見る限りは何の異変もないのだ。是澤が持ってきていたドローンで上空からも撮影したが、木々に隠れて社を確認することもできず、それ以外におかしなところはなかった。


 おかしなところがないことが、おかしい。


丙一種へいいっしゅで収まるでしょうか、これ」


 ぽつりと呟いた月子の言葉に、是澤は額を抑えた。


「正直、何とも言えませんね。乙二種、あるいは一種に化ける可能性も十分にある」


 『丙種へいしゅ』と『乙種おつしゅ』の間には大きな壁がある。


 中には『乙種』になってからが本当の霊災だという対魔官も多い。


 即ち、人命を損なう危険性があるかないか。


 現状では小動物の失血死と、人に切り傷ができる程度。故に丙種として分類されているが、もし状況が既にそこを通り過ぎていたら。


 動物たちの死骸に現状人を殺すような深い傷はない。死因はどれも失血か衰弱だ。


 しかしそれがもし、逃げることすら叶わなかった見えない被害の一部だとしたら。


「‥‥」


 月子はずっと言うべきか迷っていた言葉を、意を決して口にした。


「中止にすべきです。恐らく社を中心に結界に近いものが張られています。明らかに新人研修でやるべき内容を超えています」


 新人研修の内容は霊災の実態の調査。それが達成できたとはとても言えないが、これ以上は明らかに危険だ。


 外から見て異変が分からないということは、月子の見立てでは、結界に近い魔術領域が生成されている。


 空間に干渉し得る霊災は間違いなく脅威だ。新人に任せる案件ではない。


 その言葉に対し、是枝はため息をついた。


「正直言うと、私も止めるべきだと思います。今まで乙種の仕事にも何度か関わったことがありますが、今回もそれに近い気配を感じる」

「では」

「けれど止めることはできません」


 是澤は月子を正面から見据えて言い切った。


 あり得ない。場合によっては人死にが出る案件だ。新人研修なんて別のところで仕切り直せばいい。


 是澤は月子が問うよりも早くその理由を続けた。


「先ほど私も現状を上に報告したのですが、続行の指示がきました。社の状態を確認せよと」

「なっ! どうして――」

「私にも分かりません」


 沈痛な面持ちで視線を落とす是澤に、それ以上の言葉は続かなかった。


「本来であれば中止してしかるべき案件です。ですが何度問い合わせても返答は変わりませんでした。恐らくどこかから圧力がかかっているんでしょう」

「‥‥圧力?」

「今回の新人たちには名家の出も何人かいます。その関係でどこかから圧力がかかっても何ら不思議じゃない」


 対魔官は公務員だが、魔術という特殊な技能を扱う特性から、内部の人間関係や勢力図に血筋が大きく関係してくる。


 ふざけるな、そう心の中で呟きながら、それがどうにもならないことを月子はよく知っていた。


 彼女もまた魔術においては名家として数えられる伊澄家の血筋。それが当たり前の世界で生きてきたのだ。


 ――そうか。


 そこで気付く。今是澤は意図的に新人たちに焦点を絞って話をしたが、それは月子に気を遣ったのだろう。


 月子に対する圧力ということも十分に考えられる状況だ。


 パチパチと指の間で火花が散るのを握りつぶし、月子は怒りに蓋をする。


 ここで腹を立てていても仕方ない。今考えるべきはこの新人研修を無事に終わらせることだ。


「分かりました。では明日は私と是澤さんを主体に社の周辺を確認。新人の方たちは後ろからバックアップの形でよろしいですか?」

「そうですね。私もそれがいいと思っていました。伊澄さんには随分負担を強いることにはなってしまいますが‥‥」

「いえ、私のことなら大丈夫です」


 むしろ人に任せるよりも自分が前線に立っている方が精神的に楽だ。


 是澤は表情を和らげると、山の地図を広げた。


 今回の研修で唯一救いがあるとすれば、この是澤が研修を仕切ってくれていることだろう。


「では細かいところを詰めていきましょう」


 連日の調査と引率で疲労が溜まりながらも、二人の話し合いは月が高く昇る頃まで続いた。




     ◇  ◇  ◇




「は、まさか怖気づいて中止にするんじゃないかって思ってたけど、安心したわ」


 新人研修三日目。


 朝から全員を呼んで研修の続行を伝えたところ、第一声そう言い放ったのは軋条紗姫だった。周囲の面々が遂にやりやがったと硬直する中、軋条は傲岸不遜な視線をこちらに寄越している。


 普段の月子なら無視しているところだが、今日はそれに間髪入れず返した。


「第五位階、軋条紗姫」


 魔力を乗せた言葉は重圧を伴って新人たちに叩きつけられた。右藤が身体に力を込め、他の新人たちは思わず顔を俯かせた。

今までは見せることのなかった第二位階としての力が、等しく彼らを包み込んだ。


 月子は続ける。至っていつも通りの口調で、ゆっくりと諭すように。


「威勢がいいのは結構だけれど、仕事の場で無用な軋轢を生みだす言動は慎みなさい。‥‥それと、研修生としての立場を弁えることね。次はこちらもきちんと対応するわ」

「っ‥‥!」


 その言葉とプレッシャーに軋条は目を険しくし、口を固く引き結んだ。


 研修生と指導者、第二位階と第五位階。それは否定しようのない差であり、立場だ。


 月子は今言外に、「公私混同して吠えるな餓鬼」と殴り返したに等しい。


 いくら苛立ったところで、月子がこういった言葉を返すのは珍しい。


 実は昨晩是澤からあるアドバイスを受けていたのである。


『軋条さんなんですが、どうやら伊澄さんに凄いライバル心があるみたいなんですよね』

『はい、そうみたいですね。心当たりはないのですが』

『伊澄さんは有名だからなあ。それでなんですが、もし軋条さんが失礼な言動を取ったら、その場で指導してもらっていいですか?』

『‥‥いいんですか?』

『勿論。私たちも子供の遊びで来ているわけではありませんから。いざというときに上官の命令が聞けない対魔官は必要ありません』


 その言葉に月子は羞恥で頬を赤くした。


 どうせお飾りとしての引率者。自分は指導者ではなく中央の力を見せつけるためだけに呼ばれたのだと判断していたが、是澤は違った。


 この状況でも本気で新人たちを全力で指導しようとしているし、月子にも同様にその仕事を求めている。


 上の情勢に引っ掻き回されようがなんだろうが、自分のすべき仕事に全力で打ち込む。是澤からはそのプロとしての矜持が窺えた。


 指導者としての立場を半ば放棄していたことに気付いた月子は、燃えるような羞恥に襲われたのである。


 故に今日は軋条を力と立場で叩き潰した。


 ここから先は一瞬すらも気を緩められない正真正銘の実戦だ。気を抜くやつは必要ないと精神に刻み込ませる。


 新人たちの顔つきが変わったのを確認してから是澤が前に出た。


「君たちも分かっていると思いますが、正直この任務は乙種に化けている可能性が高い」


 指導者からもたらされた事実に、右藤と軋条以外の新人が顔を強張らせた。


 当然だ。研修だと思っていた場所が、命のやり取りを求める場に変わっていたのだから。


 しかしその不安をかき消すように、是澤は口調を変える。


「ですが安心してください。私たちがやることは解決ではなく、社の調査。何よりここには第二位階の伊澄さんがいる。一人一人がやるべきことをやれば、誰一人傷つくことはありませんよ」


 緊張感は必要だが、過度の緊張は動きを悪くする。


 喝を入れる役目を月子が行い、フォローの役を是澤が行ったのだ。


 そして是澤はそのまま告げる。長い一日の始まりとなるその言葉を。


「では今から調査に向かいます。目標は社とその周辺の確認。決してばらけず、互いの背を守りながら前進します。戦闘は伊澄さん、後方は私が受け持ちます。誰一人欠けることなく、達成しましょう」


 右藤は飄々と、軋条は不機嫌そうに、他の新人たちは緊張した面持ちで頷いた。


 月子はそれを平時と変わらない表情で眺めていたが、内心ではどうにも土御門からもたらされた言葉が忘れられなかった。


 今から踏み入れるのは、人ならざる者たちの領域。血の道が行きつく先に現れるのは鬼か蛇か。その答えを知るのは、そう遠くない未来だった。

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