第124話 突然の離別

 まるで瞑想中の僧侶のように、ただ静かにそこに座っている。


 誰だ、あれ。


 見た感じ俺よりも少し上くらいの年齢に見えたが、草臥れた外套と佇まいは、老練した雰囲気をまとっていた。何にしてもこんな山の中にいるには不釣り合いだ。

 男はこちらの存在に気付いたのか、ゆっくりと立ち上がる。


 ──なんだよ、こいつ。


 その瞬間、夜を押しのけて強大なオーラが叩きつけられた。


 何もしていない。魔力を放ったわけでも、構えを取ったわけでもない。


 ただ立ち上がっただけで、身体が震えそうになる。


 俺も王国を出てから何度も戦いを経験してきた。それこそ死線だって潜ってきた。

 目の前の存在は、そんな自信を容易く打ち砕く。


「やはり来たか。ここで待っていて正解だった」


 男がなんて事のない口調で言う。四人の魔術師を前にして、緊張感はまるで見られない。


「ほう、このような場所で私たちを待っていたと」


 グレイブが一歩前に出た。

 普段はうるさいくらいに明朗な声で喋るというのに、今は落ち着き払っていた。それが逆に不安を掻き立てる。


「俺が待っていたのは一人だけだ」


 男はゆっくりと視線を横に逸らした。青い目が捉えたのは――俺だ。


「そこにいるのが勇者か。用件は言わずとも分かろう」

「『‥‥!』」


 こいつ、やっぱり俺を殺しに来た魔族か。


 勇者は魔王の天敵とさえ呼ばれる存在。これまでも俺の命を狙う魔族は数多く現れた。そのせいで死に掛けたことだってある。


 しかし目の前の化け物はこれまでの誰と比べても強い。まだ戦ってすらいないのに、それが肌で分かる。


 反射的に剣を作り出そうとするが、それを制したのはグレイブの手だった。


「ふむ。勇者と共に旅をすると決まってから、いずれ相まみえるとは思っていたが、意外に早かったな」


 なんだ?


 グレイブの口ぶりは、まるでこいつを知っているかのようだった。

 そう思ったのは俺だけではなかったらしい。男は意外そうに問うた。


「俺の名を知るか、騎士」

「なっははははは、知らぬはずもあるまい。」


 グレイブはいつもの調子で笑うと、歯を剥き出しに獰猛な笑みを浮かべた。


「『歪曲の魔将ディストル・ロード』、ラルカン・ミニエス」


 その言葉に驚愕したのは男ではなく、俺たち三人の方だった。

 特にエリスとリストの反応は顕著で、身体を硬くして目を大きく見開く。乱れる呼吸が俺にまで聞こえるようだった。


歪曲の魔将ディストル・ロードって、あの‥‥?」

「とんだ化け物が出てきたとは思いましたが、まさかこんなところに魔将ロードが」


 これまでどんな戦いでも臆することのなかった二人が、揺らいでいる。

 俺も知識では知っていた。


 魔族の中では魔王に次ぐ実力と権力を持つ強力な魔術師。彼ら一人だけで戦局を塗り替える程の力を持つ。


 魔王を除けば、まさしく最強の敵。


 そんな奴が殺しに来たのか、俺を。


 震える俺をよそに、グレイブとラルカンは言葉を交わし続けた。


「生憎俺に覚えはないが、どこぞの戦場で会ったことでもあったか」

「まさしく。覚えていないのも無理からぬことだ。あの時私は戦場の隅で震えるだけの雑兵であったのだからな」


 それはあまりに意外過ぎる言葉だった。


 俺が知っているグレイブは強者そのもの。師匠という意味不明な存在を無視すれば、知る限り最強の戦士なのだ。


 そんなグレイブが、俺と同じように震えていた?


 一体いつの話をしているんだ。


 グレイブは剣を地面に突き立て、堂々と胸を張る。その身に漲る魔力が戦闘態勢に入ったことを伝えていた。


「しかし今は違う。こうして再び貴様と戦えることを女神に感謝しよう」

「そうか。人族の成長とは著しいものだな。取るに足らぬ一兵卒が少し目を離した隙に将へと駆け上がるのだから」


 ラルカンはそう言いながら腕を持ち上げた。


 刹那のことだった。


「『なっ!』」


 響き渡る轟音と共に立っていたグレイブが真横に吹き飛び、俺の目前にはラルカンが立っていた。


「だが今日はやらねばならぬことがある。どいていろ騎士」


 ――何が起きたんだ。


 いや、起こったこと自体は辛うじて目で追えた。ラルカンがまるでワープしたかのような不自然さで距離を詰め、グレイブを横殴りにしたのだ。


 それが分かったところで何が解決するわけでもない。


 バスタードソードを顕現させようとするが、冷たい一瞥でそれを制止させられる。魔力が上手く回らず、身体に力が入らない。


 なん、だよ、これ‥‥。


「お前たちも止まれ」

「‥‥⁉」

「チッ」


 ラルカンの圧はそれだけに留まらなかった。たった一言でエリスとリストの動きさえも止めた。

 駄目だ。何をしても勝てるヴィジョンが浮かばない。


「お前が勇者か。女神に選ばれたというからにはどれ程の者かと思っていたが、碌な戦闘経験もないというのは本当らしいな」

「『だから、なんだ』」


 言葉を返せたのは虚勢以外の何物でもなかった。


 そうでもなければ無様に座り込んでいただろう。


 今まで俺を殺しに来た魔族たちは皆怒りと殺意に満ちていたが、ラルカンの青い目にはそんなものはなかった。ただ凪いだ海のような果てない広がりだけがそこにはあった。


「お前もまた一瞬の内に強くなるのだろう。それを打ち破れぬのが残念だが、これも使命だ」


 ラルカンの手がゆっくりと俺の首に迫る。


 それが触れた瞬間、俺は死ぬだろう。誰に聞かなくてもそれが分かった。


「ユースケ‼」


 叫ぶエリスの声に、せめてもの抵抗と剣を振るおうとしたが、その一撃は空を切った。

 避けられたのではない。


 今度はラルカンの身体が横に吹き飛んだのだ。


「まったく、いきなりやってくれる。危うく首が吹っ飛んだかと思ったぞ」

「『グレイブ!』」

「なっははははは、どうしたユースケその様は。お前もだリスト、呆けている暇はないぞ!」


 殴られたことなど意にも介さないグレイブの様子に、安心感がじんわり広がる。


 これなら戦える。


 リストもそう思ったのだろう。余裕の戻った声で言った。


「今のは流石に肝を冷やしました。今度は僕も援護します。ユースケは遊撃、姫は大規模魔術で――」


「いや、お前たちはすぐに山を下りて城に向かえ」


 驚きグレイブの顔を見れば、そこにはいつも通りの笑みを浮かべたグレイブがいる。だがその声はとてつもない真剣味を帯びていた。


 エリスが焦った声を上げる。


「何言ってるのよ! 逃がしてくれるような相手じゃないでしょ」

「そうです。それとも一人残って戦うつもりですか?」

「そうだ」


 端的な一言が二人を黙らせた。


「はっきり言って、こいつが戦争に加勢すれば第三騎士団の到着を待つどころの話ではなくなる。何としてもここで食い止めなければならん」

「だったら全員で」

「そしてお前たちを守りながら戦える相手でもない」


 っ‥‥!


 その言葉が意味することは明白だった。


 つまり俺たちは足手まといなのだ。一人の方が勝算が高いと、グレイブはそう判断したのだ。


 エリスは痛みを耐えるような顔でグレイブに聞いた。


「私たちがいても、どうにもならないのね?」

「申し訳ございません、姫様。ですが安心してください。必ず倒して城に合流致します」

「信じて、いいのよね」

「勿論ですとも」


 エリスがそれ以上何かを言うことはなかった。


 グレイブはエリスが生まれてからずっと護衛として付いていたという。二人の間には確かな信頼があった。


 俺は、俺はどうすれば。


「何してるんですか、行きますよ!」

「『リスト‥‥』」


 でもあいつは俺を殺しに来たんだぞ。なのにグレイブ一人を残して逃げるのか?


「ユースケ、グレイブなら大丈夫よ。強いのはよく知っているでしょう」


 知っている。そんなことはよく分かっているのだ。


 でもあいつは駄目だ。魔将とかそういう話じゃない、ほんの少し相対しただけで、ヤバいってのが分かる。


 ここにいても邪魔だってことも分かっているのに、脚が動いてくれなかった。


 そんな俺を動かしたのは、他ならぬグレイブだった。


「ユースケよ。お前は勇者だ。これから先こんなことはいくらでもある」

「『‥‥』」


 こちらに顔を向けることもなく、ただラルカンを見つめたまま静かに。


「立ち止まるな、前を向け。たとえ道別れようと、我らの進む先は常に同じ場所を目指している」


 これまでに見続けてきた頼もしい背中が、俺にはあまりに遠く感じられた。


 手を伸ばそうとし、やめる。


「『分かった、城で待つ』」

「ああ、ここは任せろ。姫様に傷一つでもついていたら承知せんからな」


 グレイブはそう言って笑った。俺はリストに腕を取られ、後ろへと走り出そうとする。声が聞こえたのはその時だった。


「行かせると思うか」


 背後でうねる凶悪な気配。空気を切り裂き何かが俺たちの背後へと迫るのが分かった。見なくても分かる、俺などではどうにもできない威力の一撃だ。


 やばい。


 ギィイン‼ と激しい音と共に衝撃が辺りを揺らした。思わず振り返りそうになる。きっとグレイブがそれを弾いたのだろう。


「振り返るな! 行け!」


 裂帛の声に背中を押される。


 留まろうとする足に無理矢理力を込め、俺は走った。心を侵食する黒い靄を、グレイブなら大丈夫だと、押し返しながら。これが勇者なのかと歯噛みしながら。


 どうにもならない現実を振り切るように、俺たちは夜闇を駆け抜けた。

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