第90話 開戦

 人間には立ち入ってはならない領域が存在する。


 多くの人間は一見何の変哲へんてつもない境界線を無意識のうちに感じ取り、避ける。


 本能的に自分たちの住む領域ではないと判断するからだ。その境界を知ってか知らずか乗り越えれば、後に待っているのはあの世とこの世の際を歩き続ける綱渡りの人生だ。


 怪異を視覚的に捉える見鬼と一般人との違いは、気付きと覚悟。多くの対魔官たちはまずこの境界線を越えるための訓練をする。


 無意識下の拒絶に抵抗し、見たくないものを見つめ、一歩を踏み出す。


 それは想像以上に困難なことだ。


 月子はその時、初めて境界を越えんとした瞬間を思い出していた。


 見た目では一切変化を感じない木立の間。空は明るく、蝉の声と共に夏の熱気がまとわりつく。しかし気のせいかこの周囲だけは陰が重くのしかかり、木陰の奥から冷たい風が流れ込んでくるように感じられた。


 既に月子たちは境界線と目される場所まで進んでいた。


 そこにある薄くも明確な壁。この先は人ならざる者たちの領域だと全身を走る悪寒が警告する。


 それでも月子が止まるわけにはいかない。


 ここで先頭を行く自分が止まれば、後ろに続く新人たちの戦意が折れる。怪異との戦いで心が折れれば終わりだ。魔術は精神の強靭さに大きく影響される。


 後ろを振り返れば、緊張に表情を硬くする新人たちと、飄々ひょうひょうとしている右藤うどう軋条きしじょう。その奥で是澤これさわが月子を見て頷いた。


 もはや退く選択肢はない。


 月子は腕をシャンと打ち鳴らすような鋭さで伸ばすと、服の袖から鋼の部品が組み合わさりながら飛び出た。


 それは瞬く間に月子の身長を超えるほどの長さになった。


 山羊の角を芯に幻想金属で鍛え上げた現代最高峰の魔道具、『金雷槍きんらいそう』である。


 本来なら組み上げた瞬間から雷をまとう槍であるが、現在はほとんど魔力を流していないので、鋼の長物に過ぎない。


 しかしその威容は後ろの人間たちにとっては思わず息を呑む程。


 噂に聞く金雷槍と、それを持つ第二位階。


 新人たちは目に光を宿し、右藤は目を細め、軋条は鼻を鳴らした。


「行きます」


 呟くような声が不思議と響いた。


 そしてそのまま月子は境界線を超えて踏み込む。


 新人たちと是澤もそれに遅れず歩を進めた。




 刹那、世界が色を変えた。




 鮮やかだった緑と茶の光景は霧がかかったようにせ、木漏れ日に輝いていた空気が淀む。


 立っているだけで汗噴くほどだった熱気は夢のように霧消し、肌を震わせるほどの冷たい風が全身を包んだ。


「‥‥」


 驚愕の変化に月子は目を見開くが、決して動揺を表には出さなかった。


 もはやここは怪異の腹中。少しの油断も動揺も見せてはならない。


 下手に魔力を発せば勘付かれる。故に緊急時以外は隠形に徹し、一気に社まで行く算段だった。


 しかし月子の勘は瞬時に告げた。


 ──気付かれている。


 根拠はない、だが間違いない。


 これが丙種へいしゅとは何の冗談か。ただ領域の中に入っただけで理解する、もはや乙種おつしゅの範囲に収まるかも怪しい気配だ。


 月子はハンドサインで警戒レベルを最大限に引き上げ、進み始めた。


 嫌になるくらいの静寂に、土を踏みしめる音だけが大きく響く。新人たちの不安と緊張感が膨らんでいくのを感じながら、月子は油断なく視界を広く意識を研ぎ澄ませていた。


 もう随分と歩いた気がする。あるいはそう感じるだけでほとんど進んでいないのか。


 間違いなく相手はこちらに気付いているのに、何のアクションも起こしてこない。それがあまりにも不気味だ。


 その時、鋭敏になっていた耳がある音を拾った。


 まるで金属同士がぶつかるような甲高い音、何かが地を駆け抜ける音。


「来る」


 口の中で呟くと同時、茂みの奥からそれは現れた。


 飛び出してきたのは二人の人影だ。


 この世の人間ではないと瞬時に判断できた要因は二つ。一つ目は戦乱の世から抜け出したような甲冑姿。二人ともがボロボロの甲冑を身に纏い、手には刃毀はこぼれした刀を持っていたのだ。


 二つ目は、遠目にも分かる枯れ木のような顔。


 もはや生物としての名残を微かに見せるそのつらは、干涸びた樹皮を無理矢理顔の形にくり抜いたようだった。


 二人の武者は刀を打ち合わせ、枯れた喉を震わせて互いの存在を削り合う。


(怪異同士が争っている? ほとんど同種のように見えるのに)


 全く別の怪異同士が喰らい合うというのは珍しい話ではないが、この領域の中にいるということは出自は同じのはずだ。


 一体何が起こっているのか、月子が目を細めた時、二人の決着が着いた。


 片方が刀を跳ね飛ばし、喉を貫いたのだ。


 死んだという表現が正しいかは分からないが、敗れた武者は崩れ地面に転がった。


 そして、残った一方は突き立てた刀を引き抜くと、ぽっかりと空いた黒い眼窩をこちらに向けた。歯のない口が開き、まるで笑っているような表情を作る。


「ひっ‥‥」


 背後で少女の息を呑む音が聞こえた。


 生理的に恐怖を呼び起こすこの世ならざる者の気配。いくら魔術師の家の出であっても、経験がなければ動きが止まるのは避けられない。


 やはり気付かれていた。


 ならばこちらも姿を隠す必要はなくなった。


「ふ――」


 月子は短い呼吸と共に全身へ一気に魔力を回す。髪が紫電をはらんで浮き上がり、槍の穂先で金の火花が爆ぜた。


 あまりにも精緻な魔力操作。周囲のエーテルを取り込みながら魔力へと変質させ、絶え間なく全身を循環させる。勇輔たちが循環式呼吸と呼んでいる呼吸法だ。


 そもそも東洋の魔術は周囲の気を利用しようとする思想が多い。故にこの手の技法は基本技術。月子にとっては意識せずとも行える技だった。


 武者が地を駆ける。


 甲冑を着ているとは思えない速度で武者は足場の悪い地形を駆け抜けた。


 明確な殺意をもった敵の肉薄、本来なら竦んで当然の状況ながら、月子の心は落ち着いていた。


 この程度の脅威、フレイムに比べればなんということもない。


 間合いに入った瞬間喉を抜く。 


 そのつもりで槍を握る手に力を込めたその時、誰も予期せぬ事態が起きた。


 それにいち早く気付いたのは、一番後ろから状況を俯瞰していた是澤。


「伊澄さん、上だ!」

「ッ⁉」


 即座にそれに反応できたのは、月子だったからだろう。




 ゴッ! と大地が爆散した。




 上空から枝葉を散らしながら落ちてきた巨大な何かは、武者ごと大地を踏み潰す。巻き上がる土砂を切り裂くように、月子へと攻撃が降ってきた。


 槍と刃がぶつかり合う衝撃音と共に、雷が灰色の世界で眩く散った。


「こいつ――!」


 凄まじい圧力に月子は思わず膝をつきかけた。反射的な防御とはいえ、それなりに魔力を込めた状態で迎え撃ってだ。


 その正体は巨大な異形の武者だった。壊れかけた甲冑に、握るのは人斬り包丁とでも呼ぶべき大刀。


 なにより目を引くのは、その頭部。


 本来あるべき首がないのだ。


 だがそこから感じる圧は先ほどの武者の比ではない。フレイムの作り出した大鬼や戦士にも匹敵する桁違いの力。


 デュラハンを彷彿とさせる首無し武者は、徐に大刀を下段に構え、腰を落とした。


 同時に尋常でない魔力が渦を巻き、大刀へと収束する。


 ――まずい。


 即座に月子も槍に魔力を込めながら叫んだ。


「全員下がって!」


 直後武者が溜めていた力を解き放った。


 振るわれるのは大地を割る激烈の一撃。


 切っ先の触れていた地面がめくり上がり、樹の根や石ごと波となる。土砂の濁流はもはや壁にさえ見紛う高さで月子たちを飲み込まんとした。


 月子はそれに対し一歩も退くことなく槍を正面へと突き込んだ。


 穂先に集まった金雷がいななき、刺突が土砂へと衝突する。


「『招雷しょうらい――』」


 強大な暴力を前に、槍の一突きなど意味を持たない。


 そんな摂理を嘲笑うように、魔力は雷光を迸らせながら、その全てを解放した。


「『星花火ほしはなび』!」


 金雷が波を引き裂いて四方八方に広がった。


 放電の高音と土砂降り注ぐ低音が混ざり合い、もはや音の爆弾が誘爆し続けているようだ。


 その中にあって、月子は大刀と槍がぶつかり合う確かな手応えを感じていた。


 こうなってはもはや隊列もくそもない。


 なんとか新人たちは逃げていて欲しいと思うが、今の月子に後ろを気にする余裕はなかった。


 細かい砂利や枝に露出している肌を切られながら、月子は決して目を閉じない。


 ここで首無し武者を止めなければ、全滅もあり得る。


 自分が全員の命を背負っている感覚が身体を熱くし、魔力の流れを加速させる。


 それに応えるように、土砂を無理矢理掻き分け武者が踏み込んできた。大刀は上段に振り上げられ、既に魔力を纏っている。


 金雷槍もまた月子の魔力を喰らい雷を宿す。


 現代魔術師と古の怪異は時を超えて正面から衝突した。

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