第10話 姉の責務

(殺さないで捕縛ってのが理想だったけど、そんなこと言ってられる相手じゃなかったわね‥‥)


 綾香は巻き上がった砂塵を見つめながら思った。


 フレイムは現状、なにか大きな罪を犯したわけではない。ただそこに居るだけで危険であり、なにをするか分からなかったから拘束を試みて、叶わなかった。


 結果、その脅威と言葉の端々から感じられる危険な価値観から、フレイムの処遇はデッドオアアライブとされたのだ。


(それにしても、フレイムの物言いはなにかを探してるみたいだったわね。確か、鍵とかなんとか‥‥、一体なんのことだったのかしら)


 そんな風に思考していた綾香に背後から声がかけられた。


「綾香」


「あ、お疲れ月子。どうしたのよ」


 振り向いた先にいた月子は、軽く伸びをしながら綾香へと歩いてきていた。既に彼女の身に吹き荒れていた魔力は収まり、雷もなりを潜めている。


「処理班の人が来るなら、私はもう帰ってもいいわよね?」


「いや、いいわけないでしょ。この後は口頭での報告と報告書の作成と、色々やることあるんだから」


「‥‥」


 綾香の言葉に、月子はあからさまに嫌な顔をした。


 元々対魔特戦部の仕事にはあまり乗り気ではなく、普通の生活を望む月子のこういった態度は珍しくもないが、最近は特にひどい。


 彼氏がいた時期は言葉少なでも、明らかに上機嫌で、仕事もしっかりこなしていたのだが、彼氏と別れてからというもの、月子のモチベーションは下がる一方だ。


 それなら別れなければよかったのに、と綾香は思うのだが、否定されるだけなので口を噤む。口は災いの門である。


 とはいえ、彼女は今回大役を見事にこなしたばかりだ。


 書類仕事は自分がやればいいし、報告だって月子がいなくてもどうとでもなる。彼女に求められているのはそういった事務能力ではなく、戦闘能力なのだから。

 

 あからさまに不機嫌な状態で上司の前に立たせても顰蹙を買うだけだろうし、もう月子は帰してしまおうか。そう綾香が考えた時だった。


 凶悪な光と音が夜を貫き、膨れ上がる爆炎が砂塵を吹き飛ばした。


「なっ‥‥!?」


「っ!」


 綾香と月子は目元を庇いながら爆発のあった場所、つまりフレイムの居た場所を見る。


 ――あり得ない。


 思わず綾香は叫びそうになった。


 月子も言葉こそ出してはいないが、苦々しい表情で目を細めていた。


 月子の使った『天穿神槍』は、金雷槍の魔術の中でもトップクラスの威力を誇る魔術だ。普段は強大な怪異に使うもので、人相手ではオーバーキルそのもの。灰すら残らず消し飛ばすだろう。


 にも関わらず、



「ふむ、こちらの魔術師など呪鬼程度の奇術師崩れしかいないと思っていたが、少々考えを改めなければならないらしい」



 宙に消えていく赤の向こう側で、静かな声が響く。コツ、と道に燻る残り火をブーツが踏み潰した。


 白髪が夜の中で不気味に浮かび、蠢く義眼が綾香たちの姿を嘗め回す。暴虐の限りを尽くした炎が消えた後、そこにはフレイムが悠然と佇んでいた。


「まあ、それでも所詮ゴミはゴミであることに変わりはないが」


 無傷のフレイムは、つまらなそうに語る。まるでくだらないと唾棄するように。


 『雨格子ノ結界』に波動の魔術、そして『天穿神槍』。並の魔術師どころか、頑強な鬼でさえも跡形もなく消し飛ばす連携だ。


「‥‥冗談にしても笑えないわね」


 綾香はこめかみに冷や汗が流れるのが分かった。


 フレイムの様子は、まるで最初と変わらない。あれだけの猛攻をほとんど抵抗らしい抵抗もなく受けたというのに、着ている外套すら破れてはいなかった。


 一体何をどうやって防ぎ切ったのか。綾香にはまるで想像もつかないが、とにかくフレイムにとってそれが大したことではないということは分かった。


 ふざけてる。RPGの序盤で、攻撃の通らない相手に負けイベントを挑んでいる感覚だ。


 どうすればこの男を倒せるのか、そのビジョンが今の綾香にはまるで浮かんでこなかった。


 しかし、その場での停滞をよしとしない者もいた。綾香のすぐ隣で、魔力が鳴動する。


「金雷槍」


 瞠目どうもくするばかりの綾香の隣で、月子が動いた。名を唱えることで手元に金雷槍を召喚すると、地を蹴って猛然とフレイムへと突貫する。


 金の雷が彼女の身体を覆い、解き放たれた矢の如く月子は瞬く間に距離を詰めた。


「まっ――!」


 綾香の制止の声も無視し、勢いのままに、フレイムの喉元へと突き込まれる金雷槍。


 それは油断している瞬間にこそ勝機を見いだし、意識の間隙をすり抜ける一撃だ。穂先に込められた雷撃は人の身体など容易く消し炭に変える。


 だがそれが通用するのは、あくまで月子の尺度によって測れるレベルの存在まで。


 入念に準備した作戦が通用しなかったことも同じだ。


 つまり結局は、月子たちは未だ正確にフレイムの脅威を把握し切れていなかったという、それだけの話なのだ。その結果は明確な形となって現れる。


「ああ、シシー、どうやらここに鍵はいないらしい」


「っ――!」


 砕かんばかりに噛みしめた奥歯が音を鳴らす。まるで月子の攻撃を意にも介さないフレイムに、月子は歯噛みした。


 けれど、どうすることも出来ない。


 何故なら彼女の必殺の刺突は、フレイムの背後から伸びる炎の巨大な腕によって掴み取られていたのだから。


 槍を押し込もうにも振り払おうにも、まるでビクともしない。炎の巨腕は悠然と雷を受け続ける。


 熱波が頬を焼き、月子の黒髪が煽られた。


「――さて」


 直後、フレイムの義眼がギョロリと動き、月子の存在を射抜いた。


「‥‥ぁ」


 その時、月子は心臓を鷲掴みにされたような恐怖に固まった。生まれながらに魔術の才に溢れ、恵まれた環境で過ごし、怪異相手でもほぼ負けなしだった彼女にとって、目前の男は初めて感じる明確な恐怖そのものだった。


 人が最も恐怖するのは、理解出来ない存在だ。それが所詮枯れ尾花であったとしても、シルエットだけでは幽霊と錯覚してしまう。


 月子は理解してしまったのだ。


 フレイムという男が、自分に理解出来ない怪物だという事実を。


 金雷槍を掴んだ炎の腕が、動く。


 重さをすこしも感じさせず、腕は金雷槍ごと月子の身体を持ち上げた。そして、霞む程の速度で撓った。


「キャッ!」


 短い悲鳴を残し、月子の小さな体躯がボールさながらに投げ飛ばされる。 


 彼女が地面に叩きつけられる寸前で走り込んだ綾香が抱き留めるが、その衝撃に思わず呻き声が漏れた。追撃が来なかったのは、余裕の表れか単なる気紛れか。


 待機していた対魔特戦部のメンバーたちが後ろで動く気配がするが、彼らもまた判断を迷っていた。もはや勝ち目はない。その事実だけが全員の頭に重く圧し掛かる。 


 その中で、フレイムの声が響き渡った。


「最初にも言った通り、今君たちを殺すのは時機ではない。本来なら目に入った害虫は駆除するべきなのだがね。しかし、こう集られては面倒だ。――そうさシシー、だからこうしよう」


 フレイムはそこで言葉を区切ると、義眼が不気味に蠢き、禍々まがまがしい魔力が膨れ上がる。


 男の背後から伸びていた炎の腕が大きさを増し、黒い外套がはためいた。


 腕から肩、肩から背、そして最後にその頭がフレイムの背後から姿を現したのは、炎の大鬼だ。腕は丸太のように太く、地に届きそうな程に長い。その巨躯からは、夜すらも燃やさんばかりに、絶えず火焔が波打つ。


「後はこれに任せることにしよう。なに、運悪く死んだとしても、この程度の人数なら支障はないだろう。私には果たすべき使命があるのでね、これ以上君たちに手を煩わされる時間はないんだ」


 フレイムはそう言うと、奇襲すら警戒しない様子で綾香たちに背を向けると、歩き出す。


 その歩みを止めることは、誰にも出来なかった。


 直後、大鬼が身じろぎする。


 ――ォォオオオオオオオオォォォオオオオオオオオ!!


 炎のうろから咆哮が迸り、火の粉が闇を塗りつぶすように舞った。


「くっ‥‥!」


 一歩。たった一歩大鬼が踏み出しただけで、その重圧に綾香は思わず呻き声を漏らした。


 月子の金雷槍を苦もなく掴み取るような怪物だ。綾香はもはやこれに対抗する術が自分たちにないことを理解していた。


 しかもこれまでと違い、本気でなくともこちらを殺そうとする意思がある。


「月子」


「‥‥なにかしら」


 投げ飛ばされた衝撃に顔をしかめながら、立ち上がった月子は答える。それに、綾香は硬い表情で言った。


「撤退よ。こうなった以上私たちだけじゃあれは止められない。時間を稼ぐ最低限の人員だけを残して、応援を頼むわ」


「分かった。なら私が残るから、綾香ははやく皆を纏めて」


「なに馬鹿なこと言ってるのよ‥‥」


 予想通りの言葉を言う月子に溜息を吐きながら、綾香は後方の人員に無線を繋いだ。


「作戦は失敗! これより指揮権を伊澄対魔官に移行し、撤退する! 総員、伊澄対魔官の指示に従って迅速に撤退せよ!」

「なっ、待って綾香」


 驚く月子の顔を無線を切った綾香は正面から見据えた。


「いい月子、今すぐに動ける第一位階の魔術師はこの近くにいないわ。この巨人もフレイムも、倒せる可能性があるのはあなただけなの。ここで死なせるわけにはいかないのよ」


「けど‥‥」


「上官命令よ、伊澄対魔官。部下を纏めてすぐに撤退なさい。そして、いいわね、誰一人欠けることは許さないわよ」

「‥‥」


 月子は無言で綾香を睨み付ける。硬く握りしめた拳が、その思いを口にしているようだ。


 それでも、綾香の判断は変わらない。


 月子はまだまだ魔術師として成長途中だ。それ程の才を秘めている。ここで失っていい人材ではない。


「‥‥了解しました、加賀見対魔官」


「よろしい」


 一度視線を付した月子は、再び顔を上げると、泣きそうな声で言った。


「必ず、すぐに応援と一緒に助けにくるわ」


「あんまり遅いと倒しちゃうから、早めにお願いするわよ?」


 綾香は月子の頭に手を置いて、茶化すように笑った。


 幼少の頃から魔術師の家系に生まれた年の近い同性の友人として、姉妹同然に育てられてきた二人。これが今生の別れになるかもしれないと、薄々分かっていた。


 そして、二人はそれぞれの仕事のために動き始めた。


 月子は後方で待機していた人員とともに撤退、綾香は琥珀のブレスレットに魔力を流し、大鬼に向き直った。


 炎の大鬼はゆったりとした動きでこちらに近寄ってきていたが、月子たちが逃げ出そうとしているのを感じ取るや、動きを変える。


 巨大な腕を後ろに振りかぶると、身体を撓らせる。


 炎で出来た身体とはいえ、その動きに綾香は言い知れない恐怖を感じた。


「月子、走って! はやく!」


 直後のことだった。


 大鬼が、溜めた力を解放するように腕を振る。


 轟ッ!! と夜空に打ち上げられた幾つもの火球が、流星の如く綾香たちの頭上へと落ちてきた。


「なんっつー、無茶苦茶な!」


 一つ一つが人の背丈を超える火球を十数も撃ち出す魔術なんて、複数の魔術師がしっかりと下準備した上ではじめて使えるものだ。


 それをこんな簡単に行われるなど、冗談ではない。


 綾香は叫びながら、大気を叩くようにして掌底を打った。


 パァン! と空気を振るわせて波動の魔術が火球を打ち消し、四散した火が周囲に飛び散る。


 だが、それだけではまるで手数が足りない。


 綾香は服の内側から、準備しておいた魔力浸透のし易い水――魔導水を取り出すと、掌に零す。


 そして再び波動を打った。


 波動の込められた水滴が火球を貫き、小さな火の粉を吹き飛ばす。 


 綾香はそれを数度、絶え間なく繰り返して火球を撃墜した。


 それでも周囲は火に包まれ、さながら地獄の釜とでも言うべき様相を呈していた。


(もう、月子たちは逃げられたかしらね‥‥)


 綾香はとめどなく流れ落ちる汗を拭うこともせず、火炎の向こう側を見つめる。


 大鬼は地獄の獄卒のように、赤い世界の中で支配者として悠然と歩いて来た。


 あれだけの火球を放っても、大鬼にまるで疲弊した様子は見られない。それに比べて綾香は火球を捌くだけでも手一杯。


 蒸し殺される程に上がった気温の中で、荒い息だけが吐き出される。


「は‥‥」


 この仕事をしていれば、死ぬかもしれないと思ったことは数えきれない。


 山の中で数体の鬼に囲まれた時も、簡単な除霊だと思っていたら七日七晩悪霊に憑かれた時も、悪名高い魔術師と対峙した時も、いつだって命を賭けて戦ってきた。


 それでも、これまでは希望があった。決して勝てない戦いではなかった。


 だが、今回は違う。


 この大鬼を倒せるほどの応援を集めて、ここに来るまでにかかる時間はどれ程だろうか。この炎の海の中、自分がこいつから逃げ切れる可能性は? 


「あー、全く、どうせ死ぬなら彼氏くらいつくっとけばなー」


 綾香は乾いた声で自嘲した。


 こんな世界に生きているから、まともな交友関係だって築けない。そんな生活を嫌って、月子は普通の人生を選ぼうとした。


 いずれ報われると信じてきた結果がこんな炙り殺しだなんて、笑いも起きない。


(ま、それでも姉としての責任は果たせたかな)


 綾香は月子の顔を思い浮かべると、パンと両手で頬を打った。


 たとえ向かう先に絶望しかなかろうと、無様な死に方をするつもりはない。


 綾香は尽きかけた魔力をブレスレットに注ぎ込み、せめて大鬼の体力を減らそうと構えを取った。

 

 ――ォォォオオオオオオォォオオオオオ!


 空気が吸い込まれ燃え上がる音が雄叫びとなり、獲物に逃げられた大鬼が綾香目がけて突進してくる。


 綾香はそれを迎え撃つために脇を締め、肘を背後に引いた。ここが死に場所と覚悟を決め、死ぬ気で全魔力を叩き込む。


「はぁぁぁあああああああああああああああああ!!」


 そう決意し、綾香は叫んだ。


 業火の拳と波動を秘めた掌底とが衝突する瞬間。


 突如として白い光が世界を覆った。


「なにっ!?」


 予期していた衝撃もなく、全身を焼き焦がしていた熱波が消え、綾香は目前の大鬼のことも忘れて驚愕の声をあげた。


 驚いたのは何も綾香だけではない。


 巨大な拳を振り上げた鬼は、火炎と咆哮を撒き散らしながら、幾度となく綾香へと拳を振り下ろしている。

 


 だが、それが綾香に届くことはない。


 大鬼の猛攻を止めているのは、綾香の目前に現れた光の壁だ。いや、壁と言うにはあまりに薄い。


 ヴェールとでも言うべきそれが、炎の拳を完全に防ぎ切っているのだ。


「一体なにが‥‥」


 見た所光のヴェールは魔術で作られた結界のようだが、少なくとも炎の大鬼の攻撃をこれだけ耐えられる結界を張れる人間など、最強の魔術師たち、第一位階の魔術師くらいしか心当たりがない。


 気のせいか、熱にやられていた身体もどこか調子が良くなってきている。


(まさか、もう応援が来たの? でも第一位階の魔術師は今このあたりにはいなかったはず)


 目の前でヴェールを破ろうと躍起になっている大鬼を見ながら、そう考える綾香の耳に声が届いたのは、その時だった。

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