第113話 乱入者

「っ!」


 カナミの判断は迅速だった。追撃をやめて転身、リーシャの下へ駆ける。


 異常事態を超える胸騒ぎが彼女を突き動かした。

 普段のリーシャは周囲を覆う聖域と同時に自分を守る聖域を展開している。しかし外が砕かれたということは、それも安心材料にはならない。


 その判断は決して間違いではなかった。たとえ守衛アモンを捨て置くことになったとしても、リーシャを守るのが守護者の役目だ。


 ただ全ては遅すぎた。称号も持たぬ魔族が正面から仕掛けてきた時点で、カナミは撤退を選ぶべきだった。


「ぁっ‥‥⁉」


 リーシャの身体が浮いた。


 何者かが後ろから現れ、その細い首を掴んで持ち上げたのだ。人一人分の体重が、まるで綿の様に軽々と浮かび上がる。柔らかな首に食い込むのは、鋼の指先。


 その姿はリーシャの陰になってよく見えないが、少し力を込めれば、リーシャの首なんて容易くへし折られるだろう。

 彼我ひがの距離は数歩の圏内だ。


 本来なら相手がその気になる前に、あらゆる手を尽くしてリーシャを救うべきだ。彼女が死んでしまえば、自分が生き長らえる意味などありはしない。


 しかしカナミは足を止めた。

 それは今までと違い、戦術的な意味合いあってのことではない。


「‥‥」


 靴底が地面にへばりつき、全身の筋肉が硬直する。グリップを握る手だけに力が籠り、指先が血の気を失った。




 純粋な恐怖。




 カナミの動きを止め、その場に縛り付けた正体は本能的な恐れの感情だった。


 『シャイカの眼』は常に発動し続けている。

 にも関わらず、カナミはその存在にまるで気付かなかった。いつ、どのように現れた?


 状況から見て聖域を崩したのもこいつだろうが、そんなことがあり得るだろうか。


 聖域を破壊したのだとしたら、それに見合うだけの魔術を使ったはずだ。その魔力の発露をシャイカの眼が見逃すはずがない。


 考えられるのは、その瞳力すら欺く練度で魔術を使ったという荒唐無稽な考え。


(あり得るはずがありませんわ。そんな、そんな魔術師が)


 否定しようと思えば思う程、カナミの脳裏に影がちらつく。


 恐らくそれを為してのける魔術師を、彼女は二人知っていた。


 ランテナス要塞攻防戦において、たった二人で戦争を好き放題にぶん回し、理外の力で暴れ回った魔術師たちを。


「カナミ、さ‥‥」


 全体重を首で支えるリーシャが苦しそうに呻く。それも数秒ともたず目から光が失せ、身体から力が抜けた。だらりと手足が垂れ下がり、人形のように揺れる。


 助けなければいけない。分かっているのに、身体が動かない。

 そんなカナミの様子を知ってか知らずか、リーシャを支える腕が動き、影の向こうからそいつは姿を見せた。


 夜へと移り行く光の中、世界が静まりかえる。

 リーシャを掴む者は、一人の青年だった。


 青黒い外套がいとうで口元から膝までを隠し、腕や脚もベルトのようなもので隙間なく覆われている。


 左腕に装着されたガントレットは、乱雑な見た目の中で唯一精緻な美しさを放っていた。


 露出している顔は、一見すると幼ささえ感じる少年のようで、黒髪の下から青く燃える眼がこちらを見つめている。


 見た目は人族とほとんど変わらない。タリムと比べれば異形さは雲泥の差だ。 


 だが見ただけで分かった。思考ではなく直感で理解させられた。


 ――こいつは、怪物だ。


 人型の皮を被っただけの、別種の生物。身じろぎ一つで弱者の命を踏み潰し、黄昏の光すら飲み込む、魔族や人族という単純な枠組みから外れた存在。


 皮肉にも勇者と『ガレオ』という超越の魔術師を見たカナミだからこそ、それが分かってしまった。


 目前の男は彼らに匹敵する魔族だ。


「娘、一つ聞きたいことがある」


 リーシャを持ち上げたまま男は言った。見た目に反してくぐもった、老兵のように落ち着き払った声。少女を一人吊り上げているとは思えない冷静さだ。


 音を鳴らしそうになる顎に力を込め、カナミは返した。


「‥‥その態度、話し合いを望むにはあまりに無礼ではありませんこと? まず聖女を下しなさい。聞きたいというのであればその後にいくらでも語らう時間を取りましょう」


 果たしてその語らいが言葉によるものでないことは明白だった。


 男は淡々と返答する。


「説明したところで納得はすまいだろうが、この鍵を害さないことは約束しよう。貴様と戦うつもりもない。俺は今の神魔大戦・・・・・・に興味がない」


「‥‥」


 頭を全力で回転させ、相手の意図を読み切ろうとする。

 神魔大戦に興味がない。そんな魔族がいるだろうか。もしいるのだとすれば、何故この戦いに参加した?


 リーシャや自分が目的でないのなら一体何のために現れたというのだ。

 そこまで考えて、ある可能性に思い至った。これ程の並外れた実力者、そして今の言い回し。


 一人の青年が脳裏に浮かんだ。あり得ない、あり得てほしくないと思いながら、考えれば考える程現実味を帯びていく。


 その予感を裏付けるように、男は決定的な言葉を口にした。




「ここに白銀の騎士がいるはずだが、今はどこにいる」

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