第258話 もう一人の怪異

     ◇   ◇   ◇




「さて、そろそろ本気を見せてくれる気になったか?」

「『初めから手を抜いた覚えはない』」

「そうか。それは重畳。しかし我は更なる高みへと昇りつつある。あまり出し惜しみをしていると、振り落とされることとなるぞ」


 シキンは勇輔にそう言うと、全身に魔力をまとった。


 濃密な、重い魔力。


 千里はそれを遥か後方から感じていた。


 肉体に圧縮されていた魔力を、今度は術式として使用するという合図だろう。勇輔の『星剣ステラ』を見て、それをするということは、ブラフか、打ち破る自信があるのか。


 シキンのことだから、後者だろう。


 千里は緊張に手が汗ばむのを感じながら、シキンを見据えた。


 二人の戦いは、もはや戦争だ。


 下手に近づけば、流れ弾で命を落としかねない。


 しかし千里が近づかなければいけないのだ。この役割は、勇輔には任せられない。


 これまで千里が生きていられたのは、シキンが千里を敵として認識していなかったからだ。


 攻撃の意思を持って接近すれば、もう見逃してはもらえない。


 たった一発。拳が一発当たっただけで、いや、掠っただけでも頭が飛ぶ。蹴りでも、当身あてみでも同じだ。


 そんな火中に、飛び込まなければいけない。


「晴凛、さよならかもしれないね」


 千里はそう呟くと、被っていた帽子に手をかけた。


 初めから分かっていたことだ。千里も、土御門も、この戦いが今生の別れになるかもしれないと。


 自分がここで死んだとしても、シキンを倒すことができれば、それは土御門にとって大きな一歩となる。


 ならば、迷うことも恐れることもない。土御門にあの言葉を伝えられてから、命の使い方は決めていたのだから。


 千里は帽子を脱ぎ捨て、これまでカードでしか使うことのなかった魔力を解放した。


 もしもこの場に月子か綾香がいれば、その異様な魔力に驚愕したことだろう。


 千里の魔力は、明らかに人のそれではなかった。


 どこか曖昧で、自然界に満ちるエーテルに近い魔力は、人ではなく怪異のものだ。


 その事実を証明するように、千里の柔らかな髪から二つの獣耳が飛び出し、腰には二又ふたまたに分かれた尾が現れた。


「──行くよ」


 千里は両手を地面につけ、腰を高く上げると、ちょうど獣がそうするように床を蹴って駆けた。


 その速度は人だった頃とは比べ物にならない。


 四辻千里の正体は、人に変化した猫又ねこまた、正真正銘の怪異である。


 猫又は鵺同様古来から伝わる有名な怪異の一体だが、決して強い怪異というわけではない。


 脅威度としては、獣と大して変わらないのだ。


 千里は元々ただの猫であったと思う。曖昧なのは、彼女自身、自らの過去を鮮明に覚えていないからだ。長い間山の奥で獣を喰らって生き続け、怪異として意識が芽生えたのは、皮肉にも、死に直面した瞬間だった。


『君はここで死ぬことをよしとするかな』


 後に知る。自分を殺しにきたその死神の名が土御門晴凛ということを。


 死にたくないと思った。何のために怪異となり、何のために存在してきたのか。それは少なくとも、こんなところで惨めに死ぬためではなかったはずだ。


 土御門は這いつくばる千里に視線を合わせ、笑った。


『それとも、僕と一緒に来るかい? 案外、そちらの方が楽しいかもしれないよ』


 絶対的強者からのあわれみ。二人の関係は、そんな酷い始まりだった。


 初めはどこかで寝首をかいてやろうと、それだけを考えていた。


 しかし彼はそれを笑いながら受け止め、変わらず千里を側に起き続けた。あの胡散臭い笑顔の下に何を考えているのか、本当に分からなかった。


 千里の土御門への思いが明確に変わったのは、そう、土御門が新世界トライオーダ―へと入るその時だった。


『僕の夢を、君に預けたい』


 多くの式神を使役する土御門は、新世界トライオーダーへの隠れた戦力として、千里を選んだ。


 強力な式神では、隠すことができないという判断だったのかもしれない。 


 しかし土御門が己の目的のために、千里を頼ったのは事実だった。


 自分が生まれてきた意味も、存在し続けた意味も、誰も教えてはくれない。それでも自分より遥かに強い人間が、夢を託したのだ。


 その事実だけあれば、いい。


 命を賭けるには、十分だ。


「シッ!」


 千里はシキンまでの距離を一息で詰めた。


 大丈夫だ。シキンは勇輔に集中していて、こちらを見ようともしていない。それでいい、強者は弱者など気にかけるな。


 しかし千里が初めに読んだ通り、シキンはそこまで甘い男ではなかった。


降雹澍大雨ごうばくじゅだいう」 


 あと数歩まで迫った瞬間、シキンが爆発した。


 そう見紛うほどの勢いで、拳と蹴りが飛んできたのだ。


 避けるとか防ぐとか、千里はその次元にいなかった。気づいた時には目と鼻の先に拳が迫っていた。


 イメージを飛び越えて頭に刻み込まれた死の実感。


 覚悟を決める前の千里であれば、その時点で意識を失っていたかもしれない。


 しかしここで倒れるわけにはいかない。千里は目を見開いて拳に向かって突っ込んだ。


 ゴゴゴッ‼ と重いものが衝突する音が周囲で響いた。

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