第214話 蟲

 異世界の大国、サーノルド帝国が誇る『竜爪騎士団ドラグアーツ』と、勇者『白銀』の戦い。


 それは漫画やアニメに出てくるような光景であった。中世の騎士たちのような軍隊。神話に出てくる巨人、それをたった一人で撃破する英雄。


 話には聞いていた。


 異世界アステリスは科学技術の代わりに魔術が発達し、個人が軍と同等の力を持つ世界だと。


 しかし話に聞くのと、実際に見るのとでは違う。


 こんなものが平然と社会の中に紛れ込んでいた事実に怖気を覚えると同時に、あの人・・・の言葉は真実だったのだと震えた。


 誰もが戦いに見入っている。自分自身も、その緊張感の中では動けなかった。


 勇者と軍の戦争は終結へ迫り、勇者の剣が総大将を切り捨てた。


 どうやら殺さなかったようだ。あまりにも甘い。あんな考え方で異世界での戦いを潜り抜けられたのか。


 あるいは異世界での戦いがあったからそのような思考に至ったのか。


 思考するそれの前で、世界に変化があった。


 どうやら自分たちを捕らえている世界が崩壊を始めたらしい。


 白亜の壁が崩れ、本物の陽光が差す。石畳の床は舗装されたアスファルトに変わり、遠い文化祭の喧騒が聞こえ始めた。


 フィン・カナティーリャ・サーノルド。彼はあまりにも愚かな男ではあったが、最低限の仕事は果たしてくれた。


 そう、勇者を引きはがし、彼女の警戒を解くという役割を。


 今この場で自分に注目している人間はいない。


 あるいは、その存在を覚えている人間すらも、いなかったかもしれない。


 激しく燃える炎を前に、誰が近くを歩くむしに気付くというのか。


 そう、たとえそれが人を殺す毒蟲どくむしであったとしても。


「‥‥」


 彼はまるで今力を取り戻したかのように立ち上がり、よたよたとした動きで歩く。目的まではたった数歩。その数歩が、弱者にとってはあまりにも遠い。


 少しでも感情を波立てれば、彼女は気付くだろう。そうなっては、全てが終わりだ。


 呼吸を止めて永遠にも思える時間を歩き、辿り着く。そうして、いたって自然な動作で手を伸ばした。


 未だ勇者の姿に見入っている、冥府の花嫁へと。


「ん? おい待てどうした――」


 オスカーがそれに気づき声を掛けてきた。


 その声に反応して彼女が振り向く。大きくて真っ赤な目に自分の姿が映ったのが見えた。頼りなく揺れる、針のように華奢な自分。


 歴戦の英雄は魔術を発動しようとするが、それよりもこちらの方が早い。


 彼――櫛名命くしなみことはシャーラの首筋に手を添え、魔術を発動した。


 どこまでも利己的に不条理を押し付ける、真に唾棄だきすべき力を。




「『不平等サイドコスト』」 



 

 瞬間、都内各地で不可解な事象が起きた。多くの人間が前触れもなく倒れたのだ。ある大学では、百人以上が文化祭の最中に昏倒した。後に集団熱中症として公式に発表されるその事件は、都市伝説として人々に語られることになる。その裏で跡形もなく消えたコインの存在と共に。

 

 シャーラの白い肌に天秤の刻印が浮かび上がり、魔術は成った。


 最弱の蟲が打った毒は、戦局を塗り替えるように、少女の身体を駆け巡った。

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