第215話 不平等な結末

     ◇   ◇   ◇




 魔術の発動を感じ取り振り返った時には、既に遅かった。


 何が起きたのかは分からない。


 しかし明確に何かが起きたのだ。


 後ろで月子たちを守ってくれていたシャーラの正面に、華奢な男性が立っていた。そう、確か櫛名命くしなみことと名乗った男だ。


 彼の左手はシャーラの首筋へと触れている。


 直感した。


 あいつが、このおぞましい魔術を発動したのだと。


「ッ!」


 誰よりも早くシャーラが動いた。曲剣、魂狩りリーバーを振り上げたのだ。


 噴水のような鮮血と共に、腕が飛ぶ。


 櫛名の左腕を落としたのだ。


「うがぁぁあああああああ! くそ、くそこいつ! どうして意志がある⁉ どうして!」


 絶叫と共に、櫛名が後ろへとよたよた下がっていく。


「うるさい」


 シャーラは再び血濡れの剣を振り上げた。


 だがその動きは止まった。正確には、止めざるをえなかった。


「いいのか! ここで僕を殺せば、その魔術は永遠に解けない・・・・・・・! それがどういうことか、自分が一番よく分かってるんじゃないのか⁉」

「‥‥」


 どういうことだ。あいつは何を言っている?



 俺はシャーラの横に駆け寄った。

 櫛名は血がしたたる腕の断面を抑えながら、狂気の目でこちらを睨んでいた。


「僕の魔術は『不平等サイドコスト』。望みには対価を、対価には望みを。たった今、僕はコインによって望みを叶えてきた人間から対価を徴収し、それを使って願いを実現した」

「『願いだと』」

「ああ、その女に聞けば分かることだよ」


 シャーラは手を握ったり開いたりしながら、何かを確かめ、そして顔を上げた。怪我をしている様子はない。


 しかし次に告げられた言葉はあり得ないものだった。


「ユースケ、魔術が使えない」


 ――何?


 シャーラは何度も魔力を回し、恐らく魔術を発動しようとしているのだろう。しかし『冥開めいかい』が発動する様子はなかった。


 最悪の事態を示すように、櫛名が青い唇を震わせて言った。


 その魔術の名を。




「『冥開』」




 瞬間、俺たちを囲むようにあたりが氷に包まれた。芝生が白くなり、身体から熱が奪われて動きが凍てつく。


 これは正真正銘、冥府の冷気だ。


「『貴様、まさか』」

「はははは! 使えた、使えた! 理解したか、今シャーラの魔術は僕のものだ。殺せば二度と戻らなくなるぞ。捕らえても同じだ、その瞬間僕はこの魔術を破棄し、完全に抹消する!」


 櫛名は腕の断面を凍らせ、笑った。


 シャーラの魔術を簒奪さんだつしたというのか。


 そんなふざけた魔術は聞いたことがない。魔術とはその人間の本質そのものだ。誰かの本質を奪い自分のものになど、できるはずがないのだ。


 しかし現実は確かに目の前にある。


 大学の至るところで感じた魔力の波動。そしてさっきの言葉。


 こいつが魔力のコインを流通させていたのは間違いない。


 認めたくはないが、こいつの魔術は本物だ。


 だとしたら、ここで相手の流れに乗ってはいけない。俺は魔力でシャーラや月子たちを冷気から守りながら、口を開いた。


「『お前の言いたいことは理解した』」

「だったらさっさと魔術の発動を解くんだ。異世界の勇者だったかな、山本勇輔君?」


 あざ笑うように、櫛名は言う。


 だがそれは虚勢だ。今追い詰められているのは俺たちじゃない。


「『しかし、お前の魔術は不完全なようだな』」

「‥‥何?」


 笑いは止まった。


「『さっき叫んでいただろう。どうして意志があるのかと。本来なら、魔術だけじゃなく、シャーラそのものを奪うつもりだったんじゃないのか?』」


 櫛名は唇を閉じ、俺を睨みつけた。


 やっぱり、俺たちがやっていたことは無駄じゃなかったらしい。


 ありがとう松田、おかげで最悪の事態だけは、防げた。


「『魔法のコイン。お前はそれを配り、使わせることで『貸し』を作り続けた。今この時、その『貸し』を使うために。確かにコインを全て回収するのは、無理だった』」


 この現代において、流通ルートというのは無数にある。俺たちがいくら奔走したところで、回収できるのはほんの数パーセントだろう。


 だから、やり方を変えた。


 しびれを切らした櫛名が吠える。


「何が言いたい。いいからさっさと魔術を解除するんだ!」

「『お前も失敗した理由が知りたいだろう。俺たちもばら撒いたのさ、もう一つのコインを』」


 そう、回収するよりも、配る方が楽なんだ。


「――何だと」


 気付かなかったか。見た目はお前のコインと似せて精巧に作ったからな。ただしその効果は別だ。


「『近くで魔術の発動を感知した瞬間に、全ての魔力を放出して消える妨害用のコインだ。力技だが、こんな遠隔で発動するような魔術だ、それだけでも随分効いただろう』」


 俺たちが裏天祭を回り、袴田さんや他の魔術師に協力を取り付けていたのは他でもない、妨害用のコインをばら撒くためだ。


 お前のコインは効果的だった。人の欲望に滑り込む悪魔そのものだ。


「『おかげで配るのは簡単だったぞ、一度その力を味わった人間ほど、こぞって二枚目を欲しがるからな』」

「貴様‥‥」


 その努力は今実を結んだ。櫛名のコインと俺たちのコインが打ち消し合い、その効果を弱体化させたのだ。


 こいつの魔術は不完全だ。だったら解く方法が必ずある。


 しかしどこまでが本当で、嘘なのかは分からない。シャーラの魔術を失うことだけは、避けなければいけない。


 彼女の力はアステリスでも唯一無二のものだ。


 今、俺も櫛名も、時間を稼いでいる状態だった。


 もうカナミたちが来るはずだ。通信用の魔道具で話も伝わっている。だったら、櫛名を不意打ちで気絶させてくれる。


 俺が動ければそれが一番早いのだが、櫛名はシャーラの魔術を使っているのだ。


 『幽刻の座ファントム・サイン』と呼ばれた彼女の魔術を、死力を尽くして。


 月子たちを守りながら、この中で動くには一瞬だが時間がかかる。


 その隙が、今は重い。


 ただ一つだけ、俺はどうしても聞きたいことがあった。


「『櫛名命、お前は間違いなく人間だ。一体誰と取引をして、何を目的に魔族に与する』」


 櫛名は人間だ。顔立ちも日本人そのもので、話を信じるのであれば対魔官だという。そんな人間がどうしてこんなことをしたのか、それが俺には分からなかった。


 ただフィンに協力を持ち掛けられたにしては、あまりに準備が整いすぎている。


 こいつの魔術師としての腕は、非常に高い。そんな人間が都合よく魔族に協力するというのは、不自然だ。


 お前は――誰だ。


 櫛名は今にも倒れそうな顔で、目に爛々と炎を灯し、笑みを浮かべた。


「見ての通り、僕は人間だ。弱くて、小さな人間だよ。これ以上を聞きたいというのなら、それに相応ふさわしい対価を用意することだね」


 そしてその時は来た。


 勝負の天秤は、愚かにも櫛名たちへと傾いた。


 氷が砕け、空気を裂く音。


 騎竜にまたがったフィンと、数名の兵士たち。それが横から櫛名をさらわんと突っ込んできたのだ。予備兵がいたか。


 これは駄目だ、こいつらが介入したら終わる。


 俺は動くことを決め、フィンたちを抑えようとした。


「ぐ、ぅぅおおおああああ‼」


 しかし櫛名が叫び、冥府の冷気があたり一体を飲み込まんと、ばら撒かれた。月子やシャーラたちだけじゃない。文化祭にこれが届けば、被害は計り知れない。


 クソ、こいつ正気か!


 俺は剣を振って冷気を断ち切り、なんとか被害を最小限にとどめる。


 その代償に、兵士が櫛名へと辿り着き、その体を抱え上げた。


「『待て!』」

「この屈辱必ず晴らすぞ、白銀シロガネ


 白い吹雪に消えながら、フィンは言った。


 俺は踏み込むが、その手は空を切った。


 周囲は霜が降りた道を除けば、完全にいつもの風景へと戻っていた。


 『冥開めいかい』を利用した空間の移動。


 シャーラがそれを使えない今、誰にも彼らを追う術はなかった。


 戦火は去り、誰一人として傷つくことなく、相手には深手を負わせた。結果だけを見れば勝利といえるはずだ。


 しかし文化祭の賑やかな声の中に、救急車の音が混じった。強化された耳に届くのは、悲鳴と泣き声。


 やってくれたなフィン、櫛名。


 何が屈辱だ。お前たちがしたことは必ず償わせる。シャーラの魔術も取り戻す。


 俺は決意を胸に、事態を収束させるため、月子たちへと振り返った。

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