第361話 知らない天井だ

 待て待て、状況を整理しよう。


 俺の名前は山本勇輔。元勇者から大学生になった異色の経歴をもつナイスガイ(当社比)である。


 ベルティナさんにかかっていた呪いを倒したところまでは間違いない。その感触は確かなものだった。


 ところが今俺は、全く見ず知らずの部屋で、ベッドにいる。


 これもベルティナさんの記憶なのか? アステリスにいた頃のものとか。


 部屋は石造りで、一人部屋にしてはとても広い。俺が王城で暮らしていた部屋と同じくらいだ。内装も華美ではないが、一つ一つのものがとても丁寧に作り込まれているものであることがうかがえた。


 もう少し情報を得ようと立ち上がろうとした瞬間、扉がわりの厚い布が外側から開かれた。


「リィラ様! いつまで寝ているつもりですか‼︎」


 そう言いながら部屋に入ってきたのは、たらいを持った幼い少女だった。


 年は十代前半だろう。つややかな黒い髪は動きやすく後ろで一つに結えられており、くりくりとした黒曜石の瞳がおかんむりである。


 リィラ?


 響きからして女性だろうけど、今の俺はリィラという人の記憶にいるのか?


 頭を整理する前に、自分の口から声が出た。


「アイリス‥‥。おはよう」


 起き抜けでカラカラに乾いていはずの喉から、信じられないほど綺麗な声が聞こえた。


 さっきのベルティナさんの記憶を見た時とは明らかに違う。あれはパラパラ漫画を見ているような感じだったが、こっちは実写映画だ。


 リィラ。リィラ?


 ダメだ。いくら記憶をひっくり返しても覚えがない。誰の記憶なんだよ、これ。


 そうこうしている間に、アイリスと呼ばれた少女はずんずんとベッドの近くまで来ると、未だ立ち上がろうとしないリィラを引っ張り出し、ベッドの縁に座らせた。


「あぁ‥‥」

「いつまで寝ぼけているつもりですか。朝の支度にはそれなりに時間がかかるって、いつも言っているでしょう」

「起きてる。起きてますよー」

「そういうのは目を開けてからおっしゃってください」


 アイリスはそう言うと、たらいの中の水に向けて人差し指を向け、上にあげた。


 するとたらいの中の水が全て持ち上がり、きれいな球体となった。ただ球体にしただけじゃない。よく見ると中で水が回転している。


 ええ、嘘だろ。


 アイリスが軽くやってみせたこれは、魔術だ。水を操る魔術自体はそこまで珍しくない。


 問題なのは、その魔力操作である。


 魔族の称号持ちか、それ以上に美しい魔力操作だった。


 おいおい、この子いくつだよ。絶対おかしいって。


「ふぁああああばばぼぼが」


 そしてアイリスは、あくびをしたリィラの顔に容赦なくその水球を当てた。


 一見すると拷問にも見えるハイパー洗顔である。


 ちなみに俺もリィラと一緒に洗顔された。きちんと水はぬるく温められていて、気持ちよかった。


 にしてもやばいなこの魔術。


 洗顔だけかと思ったら、最後に口の中まで綺麗にしてたらいに戻っていった。仕上げはおかーさん、とかいうレベルじゃない。歯磨きいらずである。


 一家に一人欲しいな、アイリスちゃん。


 アイリスは次にリィラにタオルを渡すと、化粧台の前に座らせた。


 驚いたことに、そこには鏡が置かれていた。


 部屋の内装的に現代ではないと思っていたのだが、そんなに前の時代でもないのだろうか。


 だが何よりも驚いたのは、鏡に映ったリィラの姿だった。


 朝日をかしたような黄金の髪に、透き通るような赤い瞳。


 歳は二十前後だろうか。リーシャやメヴィアをそのまま成長させたような、美しい女性だった。


 ――おいおい嘘だろ。


 ここまで来れば、なんとなく今見ている記憶がどういうものなのか察しがついた。


 俺はさっきまで、ユネアの魔術で三人の意識とつながっていた。リーシャ、ユネア、ベルティナさん。


 全員が『鍵』。つまり聖女の素質を持つ者たちである。 


 ということは、リィラもまた聖女に関わる誰かということだろう。リーシャの母親とか、そういった線も考えられる。


 いや、それにしては住んでいる場所が教会ってわけでもなさそうだし、まだ情報が足りないな。


「ほら、髪を梳かしますから、じっとしていてください」

「ありがとー」


 びっしゃびしゃになった顔をタオルで吹きながら、リィラは頷く。


 なんだろう。


 まだリーシャの方がしっかりしているぞ。


 ぼわぼっわに広がった髪に手早くくしを通すと、アイリスは素晴らしい手際でリィラの髪を編んだ。


「別にそんなに手の込んだ髪型じゃなくてもいいのに」


「そういうわけにはまいりません。あなたは人々の希望なのです。折角の美しさを曇らせてしまっては、側付そばつきの名折れです」


「そんなものになった覚えはないんだけど‥‥」


「なってしまったものは仕方ないでしょう」


 アイリスのドライな一言に、リィラはため息を吐いた。


「もう、いつからこんな子になっちゃったのかしら。昔はあんなに素直で可愛らしかったのに」 

「ええ、毎朝誰かさんのお世話をしていればこうもなるでしょう」


 ――ぴゅーひゅるるぅ。


 リィラは鏡の中のアイリスから視線を外し、へったくそな口笛を吹いた。


 なんなんだこいつは。本当に聖女に所縁ゆかりのある人間なのだろうか。


 でもよくよく考えたら、俺も勇者だけど娼館通おうとしたり、訓練で泣かされたしていたから、人のことは言えないのかもしれない。


 それからアイリスはリィラを質の良いワンピースに着替えさせた。お着替えを覗くなんて男としてどうなのかと思うし、俺は紳士なのでそんなことはしない。そもそも、着替えの時に一々自分の身体なんて見ないよね。ちくしょう。


「さて、それじゃあ行きましょうか」

「はい、もうローデスト様もお待ちですよ」

「彼はいつも朝が早すぎるのよ」

「リィラ様が遅すぎるのです」


 リィラは肩をすくめて歩き出した。


 そんなことよりも、俺は今出た名前に数秒思考が停止した。


 待て。今なんて言った?

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