第362話 魔王と同じ名

 聞きたくとも、声は出せない。今の俺は歴史の傍観者に過ぎないのだ。


 なにより聞かずとも、答えはすぐにおとずれた。


 リィラは廊下から広い部屋へと入ると、そのまま迷うことなくバルコニーへと出た。


 空を見上げると、もう日は高く昇り、陽射しが燦燦さんさんと降り注いでいる。


(これは――)


 その時点で俺はある事実を確信した。


 ここは地球だ。アステリスじゃない。


 アステリスの太陽は円環を抱いた特徴的な形をしている。空に浮かんでいるのは、紛れもなく地球のそれだ。


 しかし俺とリィラの視線は、太陽ではなく、そこにいる一人の男に向けられた。


 光を受けて七色に輝く玉虫色の長い髪。彫りの深い端正な顔立ち。


 その名を聞いた時から、頭の中にあった姿。


 彼がこちらを向いた。


「リィラ。遅かったな。また寝坊か」

「ごめんなさい。でもこの時間に起きられるなんて偉いでしょ」

「どうせアイリスに起こしてもらったんだろう」


 ああ。


 間違いない。この声には聞き覚えがある。忘れるわけがない。


 ローデスト。


 その名を持つ男を知っている。ユリアス・ローデストだ。


 俺が戦った最強の魔王。目の前にいる男は、ユリアスとうり二つだった。


 ただ、ユリアス本人ではないだろう。彼はアステリスの魔王だったし、こんな喋り方も、笑い方もしない。


 ローデストの名は、歴代の魔王たちが受け継ぐ名だったはずだ。


 つまり彼もリィラと同じく、ユリアスに連なる系譜の者ということなのか。


 でも、それはおかしい。


 何故なら目の前にいる男は、人間だ。容姿はユリアスとほぼ同じだが、そこから感じる魔力の質は、人間なのだ。


 ――駄目だ。頭が痛くなってきた。


 そもそもこれが現実にあったことなのかさえ分からないのだ。


 とりあえずは二人のやり取りを聞くことに集中しよう。


 リィラはローデストと共に、眼下の街並みを見下ろしていた。


 予想はしていたけど、現代ではないな。


 この城なんだか屋敷なんだかはそれなりの高さで造られているらしく、バルコニーから街の様子が見えた。


 ここと同じ石造りの街だ。道幅は狭く、似たような服を着た人々が行き来している。明らかに車両による交通が意識されていない街並みだ。


 おいおい、想像以上に前だぞこの時代。いったいいつの、どこなんだ?


「いつ見ても、きれいな街」

「そうだろうとも。みな立派に仕事に励んでくれている。聖女様が寝坊をしているなど知られたら、大事だぞ」

「グレンが黙っていればそれで事足りるわ。大体、聖女なんて誰かが勝手に言い出したものじゃない」

「誰が言い出したにせよ、定着した以上は、それがお前の名だ」


 リィラは聖女なのか。ますますリーシャたちと同じだな。


 そして彼女は男をグレンと呼んでいた。彼のフルネームはグレン・ローデストなんだろう。やっぱりユリアスじゃない。


 グレンの顔をまじまじと見つめていると、しばらくの沈黙をはさんで、リィラが口を開いた。


「――良い出立日和ね」

「ああ。そう不安な顔をするな。いつもと同じだ、二月ふたつきもすれば戻る」

「あなたを心配なんてしていないわ。ただ、また多くの人が死ぬことになるわね」

「そうだろうな」


 グレンはうなずいた。


「心が痛むか?」

「そうね。朝ごはんのおかずを一品減らしてもらおうかしら」

「食べておけよ。お前に倒れられたら困る」


 分かってるわよ、とリィラはふてくされたように唇を尖らせた。


 そんなリィラをグレンは笑いながら見ていた。まるで妹を見守る兄のようだ。


「あと数回だ。あと何度か戦えば、お前の魔術が完成する。俺たちの理想郷はすぐそこだ」

「――ええ、そうね」


 理想郷?


 なんの話だ。どうやらグレンは戦争に出向くようだが、誰と戦っているのかまでは分からない。


 分かったのは、グレンもリィラも魔術師であるということだ。


 そう思った時、バルコニーの扉の方から声が聞こえた。


「リィラ様、ローデスト様、お時間です」


 それはアイリスの声だった。


 彼女はバルコニーに出ることなく、部屋の中にいたのだ。


 時間ということは、グレンは戦争に出るということだ。もう少しだけ情報が欲しい。


 何とか干渉はできないのか。


 そう考えたのもつかの間、俺の身体は突然宙に浮いた。リィラではなく、俺だけが浮いたのだ。


 くそ、時間か。


 せめてここがいつの時代の記憶なのかだけでも分かればよかったんだが、三人はどんどん下へ下へと遠くなっていく。


 そうして俺は空に吸い込まれるように、現実へと帰還することになった。

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