第101話 矛矛

 鬼は徐に是澤目掛けて刀を振った。


 それもただの斬撃ではない。これまでとは明らかに違う魔力の流れで、野太刀が不規則にのたうった。


『乱舞 蛇蝎だかつ


 軌道の読めない太刀筋で黒が飛ぶ。その切れ味は言うべくもない。


「くっ!」


 慌てて是澤は木道楽で壁を張りながら避けようとした。


 その判断は幾度もの実戦経験を経て培われた流石のものだが、蛇蝎は更にそれの上を行く。


 まるで防御は想定内と言わんばかりに、壁を容易く迂回して脚を切り裂いたのだ。


「是澤さん!」


 月子が慌てて助けに入ろうとするが、鬼は続けて月子にも蛇蝎を振った。槍で受けようとするが、狡猾な剣閃はそれを許さない。


 一瞬で白い肌に何本もの赤い線が刻まれた。是澤を助けようにも攻撃が苛烈でその隙がない。受けるので精一杯だ。


 このままじゃ二人とも削り殺される。


 月子は覚悟を決めて歯を食いしばった。相手は想定を超える怪物だ、受けに回っていては絶対に勝てない。この状態では是澤の支援も期待できないだろう。


 ならば自分で活路をこじ開ける。


 金雷槍から激しい雷が鳴り響き、月子の全身に纏わりつく。見据えるは鬼ただ一人。放たれた矢の如く駆け抜けろ。


 蛇蝎の隙間を見抜くと同時、魔力を燃やして魔術を発動した。


「疾風、迅雷!」


 景色の全てが後ろに吹き飛んだ。


 一条の閃光となった月子は白い尾を引きながら突進する。強引に身体をねじ込んだせいで蛇蝎が額を掠り、目の上で赤が弾けた。


 それでも月子は速度を緩めず鬼へと肉薄する。


 首無しの時と同じ間違いは犯さない。確実に心臓を貫く。


 鬼も蛇蝎だかつでは月子を止められないと瞬時に判断したのだろう。刀を引き、半身になって構え直す。刀身を地面と水平に刃を上に向けた、かすみの構えに近い形。


 それはしくも月子と同じ刺突の構えだった。


 恐ろしい速度の中で月子との鬼面の視線が交じり合う。


 金雷槍が稲妻の矛となって大気を横一文字に切り裂き、鬼は魔力を太刀に流した。


 これまでとは比較にならない密度の魔力は銀の刀身を漆黒に染め上げ、怨嗟の声が響き始める。

牡丹が舞い、黒き刺突が放たれた。


鼓舞こぶ 影駭えいがい


 魔力から鬼の声が聞こえ、次の瞬間二人の突きが重なった。魔力と魔力が互いを喰らい合い、空気が弾けて音さえも消える。


 速すぎる世界の中で、月子はそれを見た。


 金と黒の切っ先が寸分たがわず衝突していたのだ。この速度の中で狙ってやったのだとしたら、神業そのもの。


 ――だからどうした。


 どんな技術をもっていようと、ここで押し切れば勝てる。月子は疾風迅雷によって得られた速度の全てを突きに乗せた。


 場当たり的に打った技ごときでこの雷は止まらない。刀ごと打ち砕く。その意思を示すように槍は刀を相手に一切引かない。


 だが鬼の魔術と剣技は月子の上を行っていた。


 雷を寄せ付けず、黒が震えた。


 まるで空間に波紋を広げるように、刺突が細かく振動していたのだ。


 ただそれだけで、天秤は覆される。ほんの少し、金雷槍の切っ先が外側に弾かれ、野太刀の刃を滑るようにして流れていく。速度が乗っていたが故に、月子にはそれをどうすることもできなかった。


 柔よく剛を制す。鬼の技が月子の力を凌駕した。


 そうなれば、もはや死に体。太刀に向かって月子はそのまま突っ込んでいく。


(あ、死――)


 死のイメージと共に脳裏を過ったのは、様々な記憶。そして死にたくないという燃えるような思い。


「ぐっぅ‼」


 月子は体勢が崩れるのも構わず、強引に脚を振って体を回した。後先なんて考えない、強引な回避。


 腹が切り裂かれ、着地の衝撃と共に視界が何度も回り続ける。


 何とか致命傷こそ避けられたが、受け身らしい受け身も取れず全身を強かに打ち付けて激痛が走った。槍を手放さなかったのは、ほとんど幸運によるものだろう。


 そこに声が聞こえた。


 絶望を知らせる無機質な声が。


『群舞 鎌鼬』


 黒い旋風が追撃にきた。月子は歯を食いしばって痛みを無視し、槍を杖代わりになんとか身体を起こす。


 目前に木の根が壁を張った。


 是澤が木道楽で防壁を張ってくれたのだろう。だが鎌風はそんなこと意にも介さず突っ込んできた。


 まともに魔術を使う余裕はない。ただひたすらに槍へと魔力を流し、金雷で鎌鼬の威力を殺す。


 すぐに衝撃が来た。壁と雷を突き破って鋭い斬撃が月子を襲い、身体が宙に浮いた。もはや風に舞う木の葉も同じ。その場から弾き飛ばされ、再度地面を転がる。


「はぁ、ぅぐ‥‥」


 痛い、熱い。いくら吸っても空気が足りなくて息苦しい。筋肉が悲鳴を上げて少し気を抜けば二度と立ち上がれないだろう。


 視線だけを動かして周囲を見やると、是澤の姿が見えない。今の鎌風で濃霧の中に吹き飛ばされたか。生きていてくれればいいが。


 ただ月子も人の心配をしていられる状況ではなかった。


 鬼が目前に立つ。


 鬼面の奥で引き込まれるような黒い眼が月子を見下ろしていた。


 槍を合わせて分かった。これの正体は呪いだ。美しい見た目や精緻な技巧からは想像もつかないほどに、その内側には煮えたぎる怒りと憎しみに満ちている。


「‥‥」


 鬼が太刀を持ち上げた。


 この一刀は容易く月子の首を刎ねるだろう。


 それでも、まだ死ねない。もうフレイムの時のように諦観に涙するようなことだけはしたくない。


 抗って抗って抗って、ほんの少しでも生きる道を模索する。


 月子は鬼に悟られないように魔力を回した。もはや一人で勝てるとは思っていない。最後の一撃にカウンターを合わせ、全力で濃霧を突き抜けて脱出する。


 二人の間に舞い降りた薄氷の沈黙。ほんの少し力を入れれば砕けるそれを、月子は慎重に歩いていく。


 薄氷を割ったのは、鬼ではなかった。


 空気を切り裂く甲高い音が、鬼へと飛来したのだ。


 月子の首を狙っていた野太刀が方向を変えて振るわれる。甲高い音と共に衝撃波が月子の顔を打つ。


 呆けている暇はなかった。身体に鞭打ち、慌ててその場から離れた。鬼は追ってこない。ただじっと攻撃が来た方向を見つめている。


(助け? でも一体誰が‥‥)


 新人たちがこの怪異に立ち向かえるとは思えない。かといって今のは是澤の魔術でもなかった。


 鬼から十分に距離を取ってから、月子も攻撃が来た方向を見た。




 驚きが頭を殴りつけた。




「‥‥どう、して」


 なんで。


 いるはずがない。


 どうして。


 目は限界まで見開かれ、心臓が止まりそうな程に荒ぶる。あり得ないと理性が叫ぶのに、目に映る現実がそれを否定した。


 見慣れた青年が、会いたかった人がそこにいる。


 山本勇輔は抜き放った太刀を片手に、見たこともないような激情に顔を歪めて言った。


「お前のいるべき場所はここじゃない。失せろ亡霊」 


 鬼が見据えるのは乱入者か、はたまた己が血を分けた妖刀か。役者は揃い踏み、刃は抜かれた。生まれつつある巨大なうねりはもはや誰にも止めること叶わず、濃霧を飲み込んで嵐を巻き起こした。

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