第2話 銀騎士

「は、は‥‥はぁ‥‥」


 荒い呼吸の中で、心臓が痛い程に鼓動するのが分かる。いくら吸っても身体が酸素を求め、血液が全力で駆け巡る。


 もうどれだけ走ったかも分からない。


 少女は何かに突き動かされるように走った。


 足がなまりのようで、それでも足を止めてしまえば二度と走れないことが分かっているから、走り続ける。


 三つ編みにした金髪が大きく跳ね、赤い瞳が光を求めて彷徨った。


 そして耐え切れなくなって背後を振り返った時、それは来た。


「キャッ!」


 ゴウッ! という音と共に、鮮烈な光が眼を焼く。


 そのショックに少女は路面へと倒れ込んだ。


 勢いがついていたせいか、身体の至るところを打ち付けながら転がり、しばらくして止まった。


 そして、なんとか顔を上げた少女は言葉を失った。そこに居たのは、人と同じ位の巨体を誇る二頭の犬だ。


 だが、ただの犬ではない。


 夜を照らす、煌々とした光。揺らめく火焔は、膨大な熱量で少女の肌を焼いた。


 燃えているなどという生易しい物ではない。炎そのものが犬の形を取った怪物が、少女を見下ろしていた。


「っ‥‥!」


 少女は慌てて魔術を行使しようと魔力を練り上げるが、既に魔術を使える程の魔力は残っていなかった。微かな魔力だけが、虚しく身体を走る。


 ここに至るまでで、既に限界だったのだ。


 二頭の火犬はそれを分かっているように、ゆっくりと少女に近づいてくる。ゴウゴウと目前で炎が踊り、大気が焼け焦げ、熱に景色がゆがむ。


「は‥‥ぁ‥‥」


 喉が熱波にひりつき、少女は声も出せなかった。


 魔術が使えない以上、もはや彼女に対抗する術はない。噛みつかれるどころか、その身体で圧し掛かられるだけでも少女は容易く焼け死ぬ。


 そのくつがえらない未来を目前に奥歯を噛みしめた。


 瞳から涙が零れそうになるのを、必死で堪える。


 たとえここで自分が死のうとも、最後の最後までみっともない姿は見せまいと、少女は二頭の犬を、その炎の向こう側からこちらを見ているであろう者をにらみ付けた。


 その姿を嘲笑うように、一頭の火犬が大きく口を開いた。真っ赤に燃える口腔こうこうが、小さな頭を噛み砕かんと首を伸ばす。


 こらえ切れずあふれる涙を拭おうともせず、少女はそれを見つめ続ける。


 だからこそ、彼女はその瞬間を見た。




 鮮やかに燃える灼熱を、一瞬にして掻き消す銀の閃光を。




 火犬が形を保つことも出来ず、火花となって爆散し、周囲を照らす。


 月の光を浴びて、少女の前へと文字通り空から舞い降りたのは、一人の騎士だった。


 ――綺麗。


 つい先ほどまで死の恐怖に涙を流してた少女が抱いたのは、ただその一心だった。


 背丈はさほど高くはない。全身を覆う銀の鎧は分厚くなく、一見すればフルプレートアーマーにしては華奢な印象を持つが、よく見ればその機能美に目を奪われる。


 左肩には朱のマントが靡き、右手には火犬を散らしたバスタードソードが握られていた。


 姿だけではない、その些細ささいな立ち振る舞いも、鎧を覆う魔力も、全てが芸術的なまでに美しかった。


 ゴゥゥウウ、と唸り声のような燃える音を立てて、火犬は銀騎士を警戒して後ずさる。


 それに対し、銀騎士は動く素振りを一切見せなかった。無言のまま、少女に背を向けて火犬を見つめている。


 火犬がその重圧に耐えられたのは、ほんの十数秒の間だけだった。


 ゴッ! と意を決した火犬が地を蹴った。火の粉を散らしながら、猛火のあぎとを大きく開き、銀騎士の首元へと跳びかかる。炎の牙は、並みの鎧なら容易く溶かし、中の人間を燃やしながら喰い千切るだろう。


 刹那、銀閃が下から一直線に描かれた。


 火犬は空中で両断され、斬撃の余波に炎そのものが消し飛ばされた。


 戦いにさえなっていない。銀騎士にとって火犬を倒すことは、まさしく火の粉を払う程度の作業だったのだ。


「‥‥」


 全ての火が消え失せ、舞い降りた静寂の中、銀騎士が少女を振り向いた。

 兜の目の部分から、淡い翡翠の光が眼となって覗いている。


 少女はまるで老齢の巨竜と向かい合っているかのような錯覚を覚えた。それ程までの重厚なオーラを、この銀騎士は纏っている。


「ぁ‥‥なたは‥‥」


 焼けた喉で、少女は何とか声を出そうとする。


 まだ敵なのか味方なのかも分からないはずなのに、もう少女の頭からそんな考えは吹っ飛んでいた。


 ただ、その名を聞きたかった。


 だが次の瞬間、少女は驚愕に口を閉じることになる。


「――!?」


 銀騎士がおもむろに少女の身体を抱え上げたのだ。


 そして銀騎士は、鎧と少女の重さを感じさせない軽やかな動きで飛び上がると、一気にその場を離れるのだった。

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