第334話 運命回る偶像庭園

 地上にいるありとあらゆる存在が動きを止め、空を見上げていた。


 現実感を忘れた巨体は、そのままゆっくりと降下し、領域の全てを見下ろせる位置で止まった。


 ただそこにあるだけで、膝を着きそうになる。見ているだけで、意識が遠のく。


 エキドナとは比べ物にならない圧が、身体どころか魂までをも押し潰す。


 魔力が上手く回らない。冷たくなった血のように、よどんでいくのが分かる。


 テュポーンは目だけを回して地上を見回すと、ビルをつまめそうな指をたたんで、手を握りしめた。


「『――⁉』」


 直後、魔力が天を鳴動めいどうさせた。


 ただ魔力を動かしただけ。ただそれだけで、世界そのものが揺れた。


 テュポーンの内側から炎が巻き上がり、頭髪のように、衣のように巨体を覆った。


 白い肌には熱い血潮が流れ、命が目を覚ます。


 今、起きたのだ。


 あの存在感でこれまでは眠っていたというのか。


 イカれているにも程がある。


 しかしテュポーンの動きはそれだけにとどまらなかった。


 彼の逸話いつわを知る者がどれほどいるだろうか。


 様々な話が残されるギリシャ神話体系だが、一説には、主神ゼウスを正面から打ち負かし、封印にまで追い込んだとされる。


 使うのは、炎。


「dczeoiayutoiwfaeoinasoetaywoeitaha」


 テュポーンが胴体を反らし、首を持ち上げた。ちょうど真下の地上に顔を向けるように。


 そこへ一気に魔力が集まる。


 ゾッ‼ と血の気が引いた。


「『カナミ! カナミ聞こえるか‼』」


『――は、はい‼ 聞こえますわ‼』


「『今すぐリーシャに全力で聖域を強化させろ‼ 全力でだ‼』」


 月子と、コウは、無理だ。今の俺じゃどうにもできない。


 密度が高すぎて、『星剣ステラ』での分解も不可能。せめて威力を減衰げんすいさせる。


 『無限灯火フレム・リンカー』を再度発動させ、深紅のコートを身にまとう。


 全力だ。『我が真銘』からこの瞬間、できうる限りの魔力を引き出し、操作する。この後のことなど考えるな。


 歯を食いしばり、怒涛どとうと押し寄せる魔力を強引に身体からだに回す。


 口の中に血の味がにじみ、頭が破裂しそうな程に痛む。


 紅い魔力が腕を伝ってバスタードソードへ、螺旋状らせんじょうに絡みついた。


 テュポーンがそれを完成させるのと、俺が技を放つのは、ほぼ同時だった。


 その瞬間、世界を震わせる響きが明確な音となって聞こえた。




神の炎エクリクスィ




「『嵐剣ミカティアァァアアア‼』」


 コウ、と輝く小さな太陽に向けて、俺は全力で剣を振った。腕が千切れ飛ぶ勢いで、何千、何万、何億と斬撃を放つ。


 頼む、止まれ。止まってくれ。


 しかしそれらは息吹いぶきの前の木くずのように、吹き飛ばされた。


「『ぁ――』」


 光の波が炎をともなって、地上に広がった。


 次に訪れたのは衝撃と熱の波濤はとうだった。


 着弾地点から炎があらゆるものを飲み込み、人も、モンスターも焼き尽くして広がっていく。


 思考が停止していたのは一秒にも満たない間だった。


 止まっている暇はない。


 剣を振るい続け、少しでも炎の勢いを削れ。一人でも多くの人を、守れ。


 どれ程の間そうしていたか。


 永遠にも思える一瞬を駆け抜け、もはや腕が上がらなくなった時、目の前に広がっていた光景は、地獄だった。


「『はぁ‥‥はっ‥‥ぁ‥‥』」


 視界に映る何もかもが、赤く染まっていた。


 街並みという街並みが、炎に巻かれ、黒煙をもうもうと上げて燃えている。


 テュポーンの真下には、そこに何かがあったという痕跡こんせきすらなく、ただ白熱する溶岩ようがんだけが残されていた。


「『は‥‥ぁっ‥‥』」


 今の一撃で、何人が死んだ。


 俺はどれだけの人々を守れなかったんだ。


 見ている光景が、二つにぶれ、重なった。


 それはアステリスで何度も見てきた光景だった。魔族の侵攻に間に合わず、あるいは奇襲を受け、街は悲鳴と怒号にしずんだ。


 どうする、どうしたいい。


 迷っている間に、いくつもの命が手からこぼれ落ちていく感覚。


 そうしている内に、炎の中から新たなモンスターたちが姿を現すのが見えた。


 テュポーンに、地上のモンスターたち。


 どこから対応すればいいんだ。


 コウの沁霊術式は――駄目だ。あいつの魔術は本質的に守ることには向いていない。下手をすれば被害が拡大する。


 頭では分かっているのだ。


 このテュポーンは終わりをもたらす存在。


 時間が経てば、領域もろとも崩壊ほうかいして消え去るだろう。つまり俺が今すべきことは、月子を連れてリーシャたちを守ることだ。


 見たところテュポーンは俺たち個人ではなく、領域内の全てに攻撃をしている。リーシャたちを守るだけならば、何とかなるだろう。


 崩壊までは目前だ。


 それが分かっていながら、脚が動かない。


 俺たちの戦いに巻き込まれた人々を、勝手な都合で見捨てるのか。


 そんな人間が、リーシャを守るだとか、神魔大戦を終わらせるだとか、言えるわけがない。俺が口にした言葉は、もっと重いはずだろう。


 この程度の障害に下を向いてはいられない。


 すぅ、と息を吸い、吐く。


 ――榊綴さかきつづり


 お前が必死の境地をもって敵となるのであれば、俺も同等の覚悟を見せよう。


 感覚がなくなった手に魔力と力を込め、再び剣を強く握り締める。


 地獄がなんだ。それを繰り返させないために、俺はあの日、剣を取ったんだろう。 


「『カナミ』」


 通信機に呼びかけるが、魔道具そのものが壊れたのか、あるいは炎によって魔術が妨害されているのか、通信がつながることはなかった。


 それでも彼方かなたにリーシャの魔力を感じる。彼女たちなら、大丈夫だ。


「『‥‥』」


 顔を上げ、空に鎮座ちんざするテュポーンを見る。


 『無限灯火フレム・リンカー』は既に解除され、残されたのは鎧と剣だけ。


 それでもいい。やるべきことは一つだけだ。


 一刻も早くテュポーンを斬り、その後で下のモンスターたちも撃滅げきめつする。


 俺は一歩を踏み出そうとした。


 その時、声がした。


 懐かしく、頼もしい、あの声が。




『ユースケ、あなたは希望よ。何よりも輝く私たちの一等星』




 それは聞こえるはずがない声だった。


 思わず後ろを振り返るが、当然、そこには誰もいない。ただ燃える街が広がるだけだ。


「『‥‥は、はははは』」


 さかきがあんなことをしたせいだろうか、それとも知らず知らず心がおくしていたのだろうか。


 こんな窮地きゅうちの時、彼女はいつも俺の背中を押してくれた。


 俺の進むべき道をしめしてくれた。


 君がここにいてくれたなら、どれ程心強かっただろうか。


 小さくこぼれた笑いを噛み締め、前を向く。


 彼女はもういない。


 誰よりも誇り高く、誰よりも優しい彼女に笑われないように、俺も信念を貫き、戦おう。


「『行ってくるよ、エリス』」


 小さく呟いた言葉は、誰にてたものでもなかった。


 あるいは届くことがないと、知っていたからかもしれない。


 それは炎の中に落ち、一人消えゆく運命にあった。


 そう、そうなるはずだった。




 ちかいにこたえるのは、純白の光。

 炎の中からあふれ出すそれは、生命いのち鼓動こどう




「沁霊術式――解放」




 今度は、明確に聞こえた。


 何度も、何度も。あと一度でいいから、聞きたいと願った声。


 純白の光は、優しく、力強く、破壊の領域を包み込む。


 第一次神魔大戦において、幾度となく勇者白銀シロガネを救い、導いてきた魔術。


 命あるものに救いを。


 命奪うものにいばらとげを。











 

「『願い届くエバーラスティング王庭・ガーデン』」

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