第369話 もう一度

     ◇   ◇   ◇




 窓の外では、けたたましい音を鳴らしながら雨が地面にぶつかって砕けていた。


 予報じゃ雪が降ってホワイトクリスマスになるかもしれないなんて言っていたけれど、現実はこんなもんだ。


「‥‥」


 俺はテレビから流れるバラエティー番組を聞きながら、グラスに注いだシャンパンを一気に飲み干した。


 炭酸とアルコールで喉が熱い。


 陽向の健闘虚けんとうむなしくお開きになったクリスマスパーティーから、二時間近くは経っただろうか。


 あれからリーシャとカナミは雨に濡れた状態で帰ってきた。そしてそのまま二人ともすぐに部屋にこもって寝てしまった。


 いや、俺が声をかけるタイミングを見失っていただけかもしれない。


 あんなリーシャは初めて見た。


 あの顔を思い出すだけでどうしようもない苛立いらだちがつのる。


 シャンパンをもう一度グラスに注いでいると、その隣にもう一つグラスが置かれた。


「私にも注いでもらえるかしら」

「‥‥どうしたんだよ」


 俺の隣に座ったのは、月子だった。


 もう風呂は済ませたらしく、黒い髪がしっとりとつややかに光っている。


「傷心中のようだから、晩酌の相手くらいいた方がいいでしょう」

「今俺と飲んでも何も面白くねーぞ」

「そうね。女の子を泣かせる酷い男だもの」

「‥‥嫌味言いに来たのか?」


 そんなこと、言われなくたって分かってる。


 プレゼント交換が本質なんじゃない。


 俺が、リーシャを泣かしたんだろう。


 思わず月子をにらむと、彼女は驚いた顔をしていた。


「‥‥なんで驚いてるんだよ」

「いえ、まさか自覚があるとは思わなくて」


 本当に喧嘩を売りに来たのか。


 月子はシャンパンの入ったグラスを軽く持ち上げた。俺は少し逡巡してから、そのグラスに自分のグラスをぶつけた。


 月子はそれを一気に半分近く飲み干してから、再度俺を見た。


「別に責めに来たわけではないのよ。ただあなた、昔から鈍感‥‥にぶちん‥‥唐変木とうへんぼく‥‥恋愛関係にうとかったじゃない?」

「やっぱり喧嘩売りに来たんだろ」


 なんだその悪口のバーゲンセールは。辞書で類義語でも調べたのかよ。


 月子はふふふと笑う。


 彼女には珍しい、茶目っ気のある笑い方だった。酔いが回っているせいだろうか。


 生憎あいにくと、それに付き合えるようなテンションじゃない。


 俺は視線を落として言った。


「笑いに来たのなら部屋に戻れよ。今は、そういう気分じゃない」

「ごめんなさい。本当にそういうつもりではないのよ」

「だったら、どうしてそんな顔してるんだ」


 月子は変わらず、どこか楽しそうな顔をしている。

 反面はんめん俺は、きっと酷い顔をしているんだろう。


「そうね。あなたが私にそういう口調で話してくれるのが、久しぶりだからかしら」

「――は?」

「懐かしいわね。あなたとあまり喧嘩した覚えがないから」


 そう言われて、思い出す。


 たしかに付き合っている時にあまり月子と喧嘩をしたことはなかった。


「一度だけ、ガラの悪い男たちにおきゅうえようとした時に、怒られたわ」

「‥‥あったな、そんなこと」


 どこかの駅で待ち合わせをしていた時、酔った男たちが無理なナンパをしていたようで、それを月子が止めに入っていたのだ。


 今思い出せば、対魔官が一般人を相手に負けるわけがない。


 それでもその光景を見た時、全身から血の気が引く感覚がしたのを覚えている。


 あの時といい、今といい、


「本当、空回りばっかだよな‥‥」

「そうね。でも、それがあなたの良いところ、とも言えるわ」

「気休めはいいよ」

「違うわ。だってあの時、私は嬉しかったもの。誰かに守ってもらう経験は、とても久しぶりだったから」


 俺は顔を上げ、月子を見た。


 彼女は懐かしい、穏やかな笑顔でこちらを見ていた。


「たとえ空回りだったとしても、それは全部、誰かのために動いた結果でしょう。リーシャさんも、カナミさんもそれはよく分かっているはずよ」

「そんなこと、ない」

「あるわ。だから皆、あなたのことを信頼している」


 どこかその言葉にふくみを感じたのは、勘違いではないはずだ。


「いつから、リーシャさんたちの気持ちに気付いていたの?」


 月子は真正面から切り込んできた。


 正直月子の想像しているそれと、俺が考えているそれが一緒なのかは分からない。夢見がちな馬鹿な考え。


 あり得ないって百回否定して、百一回もしかたしたらと考えてしまう。


 ――リーシャやカナミが、俺に好意を抱いているかもしれないなんて。


 本当に恥ずかしい、中学生みたいな自意識の肥大ひだいだ。


「‥‥確証なんてないよ。モテない男のしょうもない妄想だ」

「そのモテない男と付き合っていた人がいるわけだけれど」

「それは――それは、ごめん」


 何に対して謝っているのかも分からないが、俺は謝った。


「でも、それとこれとは関係ないだろう」

「どうして? エリスさん、シャーラさんからも好意を寄せられていたのでしょう。それに、陽向さんからも」

「知ってたのか?」

「隠す気もないんだから、気付くわ。当たり前でしょう」


 そうか。月子とか、そういうのにうといイメージがあった。俺も言われたし、お互い様か。


「リーシャとカナミは十六だぞ。そんな恋愛、おままごとと一緒だろ」

「あなたがエリスさんと出会ったのはもっと前だって聞いているけど、当時のあなたにそれを言ったらどうなるのかしらね」

「‥‥」


 多分、怒ってただろうな。


 大人が勝手なこと言うなって。


 でも今は年齢だけが問題なんじゃない。もっと深刻な問題が俺たちにはあるんだ。


 頭の片隅にはずっとあって、ただ直視しないようにしてきた。


 これまで誰にも言ってこなかった言葉が、月子を前にすると、不思議とすんなりと出てきた。


「‥‥みんな、この戦いが終われば元の世界に帰る」

「ええ。そう聞いているわ」

「俺の時とは状況が違う。間違いなく、みんな帰るんだ」


 その日は、もう目の前に迫っている。


 リーシャたちは言わずもがな、陽向の中にいるノワだって、どうなるか分からない。


 俺は下を向いた。


 みんなとの日々が、ついこの間のことのように思い出される。



『先程の騎士様、あの方とあなたは‥‥その、同一人物なのでしょうか?』



『一体いつからこの神魔大戦に参加していたのでございますか? ――勇者様・・・



『私はユースケに人生を預けて戦ってもらった。あの誓いがなかったことにはならない』



『かはは、いい様だなユースケ』



『ノワを、嫌いにならないで』



『ユースケ、あなたはどんな絶望の中でも希望を切りひらいてくれる。私の白銀シロガネ道標みちしるべだったのよ』



『私はどんな運命が先にあろうとも、この魂が朽ちるまで、貴方の支えであることを誓います。ですから、ユースケさん。――私の騎士として、共に戦ってはくれませんか?』



 リーシャと会ってからの毎日は、俺にとって奇跡みたいなものだ。


 新しく大切だと思える人たちと、二度と会えないと思っていた人たちと、毎日一緒にいられる。


 それ以上の奇跡なんてない。


 だから俺は、みんなにはできるだけ幸せになってほしい。


 笑顔で、この地球での思い出は楽しいものだったって、そう思ってほしい。


 だから、だから、



「俺は――最低だっ‥‥!」



 自分がしていることに、反吐へどが出る。


 リーシャやカナミ、エリスだけじゃない。素直に好意を伝えてくれているシャーラやノワ、陽向と真正面から向き合うことを避けている。


 それをしてしまえば、きっと楽しい思い出だけでは終われないから。


 そういう理屈をつけて、俺は逃げ続けている。


「傷ついても、関係が変わっても、本当のことを話してほしかったと‥‥あれだけ自分自身が思ったのに、同じことをしているんだ‥‥!」


 アステリスから帰ってきた時、何かを隠されていたのは明らかで、何度も思った。


 どうして向き合って話してくれなかったのかと。俺たちの信頼関係はそんなものだったのかと。


 それは分かっているんだ。


 しかし向き合ってしまっても、その先に進んでも、俺たちの関係には、終わりが見えている。


 結局いたずらに傷つけて、えない傷跡きずあとを残すだけだ。


「だから俺は、俺は――」


 誰にも話すつもりのなかったことだから、言葉がうまくまとまらない。


 その時、俺の手に月子の手が重なった。


 細くて、冷たい肌の奥から、ゆっくりと温もりが伝わってくる。


 あまりにも懐かしい、月子の手の感触。


「誰も傷つけたくないから、向き合えないというのなら、それは優しさに見せかけた傲慢ごうまん――あるいは、弱さかもしれないわ」


 鋭い言葉が、胸に突き刺さる。


 痛いなんてものじゃない。心臓をえぐられている気分だ。


「けれど一面的には、あなたの考えは正しいのかもしれないわね。どんな結論を出したところで、終わってしまう関係なら、意味がない。どころか、呪いにさえなるかもしれない」

「‥‥」


 月子の言葉が続く。彼女がどんな顔をしているのかも分からないまま。


「あなたがどんな選択をしようと、それはあなたの自由よ。――ただ、一つだけ覚えておいてほしいの」

「覚えておく?」

「たとえリーシャさんたちがあちらの世界に帰ってしまったとしても、あなたは二度と一人にはならないわ」


 ぐっ、と俺の手に重ねられた月子の手が、強く握り締めてくる。


 その手は、震えているような気がした。


 俺が顔を上げるのと、彼女が言葉を発したのは、同じ時だった。




「私が、ずっとあなたの隣にいるもの」




「――」


 黒い髪の隙間から見える月子の横顔は、耳の先まで真っ赤に火照ほてっていた。


 今、なんて言った?


「――あ、ええと。ちょっと待ってくれ」

「待たないわ。黙って。喋らないで。少しの間でいいから口を閉じていてもらっていいかしら」

「は、はい」


 凄まじい圧をぶつけられて、俺は口を閉じる。


 月子は下を向いたまま、言葉を続けた。


「私がこんなことを言うのは、それこそ傲慢ごうまんだって、どの口がって分かっているわ。だから、これは私の勝手な思いよ。二度とあなたに傷ついてほしくないから、もう自分から離れるなんてことはしない」


 月子の声が強くなる。


 普段から冷静で、決して声を荒げない月子が、感情の熱にうなされるように、言葉を燃やす。


「あなたが辛い時、泣きたい時、必ずこうして隣にいる。何もできなくても、私はあなたの隣であなたを支え続ける」


 あの山でのことを思い出す。


 鬼を倒し、俺の身体の傷跡をなぞりながら涙をためた彼女の顔を。


『私は‥‥私は、もうあなたに傷ついてほしくないの。それがままでも、結果的に勇輔と離れることになっても、それでも』


 その後に続いた言葉は、しくもあの時と同じだった。


 ただ、俺の心臓はあの時とまったく違う強さで早鐘はやがねを打つ。


 月子が顔を上げた。


 君を初めて見た衝撃を今でもよく覚えている。


 誰よりもりんと、自分の足で立つ君が、俺にはあまりにまぶしく見えた。


 だから君に、恋をした。




「勇輔は、私にとって、一番、大事な人だから」




 そう言う月子の笑顔は、今まで見た中で、一番魅力的だった。

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