第368話 雨に流れる

     ◇   ◇   ◇




 冷たい風が、針のように身体を貫いて過ぎ去っていく。


 上着の一枚すら羽織っていないせいで、外に出て数分でリーシャの身体は氷のように冷たくなっていた。


 痺れさえ感じる寒さの中、リーシャは歩き続けた。


 行きたい場所があるわけではない。


 ただあそこではないどこかへ、行ってしまいたかった。


 勇輔の近くは、リーシャにとって常に暖かい場所だった。この世界のどんな場所よりも安全で、安心できる、自分の居場所。


 ともすれば、人生のほとんどを過ごした教会よりも、居心地がよいと、そう思えてしまう。


 そんなところから、逃げ出した。


 後のことなんて何も考えられない。ただあの空間にいることに耐えられなかった。


 エリスと勇輔の顔を、見られなかった。


「‥‥」


 エリスが家に来た時は、心もそこまで波立つことはなかった。


 その後のプレゼント交換のことばかり考えていたせいで、感情が追い付いてこなかったのかもしれない。


 しかしエリスの手に勇輔のプレゼントが渡ったのを見た時、それを愛おしそうに見つめるエリスの顔があまりにも綺麗で、リーシャの中の何かが崩れた。


 エリスと再会した時もそうだった。彼女が勇輔に渡したのは、しくもアイリスの花のヒューミル。リーシャが、勇輔に渡したものと同じものだ。


 自分の居場所がガラガラと壊れて、暗い闇の中に落ちていく感覚。


 歩いている今も、ずっと落ち続けているようだ。


「リーシャ」


 感覚のなかった手を、後ろから誰かにつかまれた。


「‥‥カナミさん」


 振り返ると、そこにいたのはカナミだった。


「すみません。少し、外に出たくて――」

「それはよいのですわ。せめて、上着くらいは着てくださいな」


 カナミは優しく微笑ほほえむと、リーシャの肩に上着を羽織らせた。


「わた、私――」


 カナミの顔を見ていたら、ずっと心の中に沈めていたものが、たまらなく浮かび上がり、ボロボロとあふれ出した。


 清楚で、無垢で、常に明るく周囲を照らす太陽のような聖女、リーシャ。


 『聖域』の魔術が表すように、秘められたしんは誰よりも強固で、魔将ロードを前にしても折れることはない。


「ぅぐ、っぅぁ――!」


 そんなリーシャが、顔をゆがめ、嗚咽おえつをもらしながら泣いていた。涙はもはやしずくではなく、あごを伝って流れ落ちていた。


 本当はずっと誰かに聞いてほしかった。けれど、神魔大戦の『鍵』という役割が、『聖女』という立場が、これまでふたとなってふさいでいた。


 少女の中にある、本音。


「わたしは、ユースケざんにっ、しあわぜで、いてほしいのに――」


 途切れ途切れの言葉が、夜に響く。


「胸が、痛いんです! どうしようもなぐっ――。あの時、わだしも、あそこにいられたら」


 カナミは黙って聞いていた。ずっと昔、自分や、多くの女性ひとたちが涙してきた現実に、たった今打ちのめされている少女の叫びを。



「私がっ、ユースケさんの隣に、いられたんじゃないかって――」



 それは無意味な空想だ。


 そんなことは、カナミも、リーシャ自身も、よく分かっている。


 しかし勇輔に恋した女性たちは、誰もが一度は思っただろう。召喚された場所がセントライズ王国ではなく、ファドル皇国であったら、教会であれば。


 初めて会ったのが、エリスではなく、自分だったら。


 きっとまったく違う未来が、今があったんじゃないかと、思わずにはいられないのだ。それがどれほど無意味だと分かっていても。


「リーシャ――」


 カナミは震えるリーシャの身体を抱きしめた。


 氷のように冷たい体温を感じながら、思い出す。


 何度思っただろう。


 あと数年早く生まれていれば。


 あと少し早く出会えていれば。


 もっと早く、この気持ちに気付いていれば。


 何かが、変わったのだろうか。


 どれだけなげいたって、現実は変わらない。勇輔とエリスが積み重ねてきた時間は、まるで深い谷のように二人の前に横たわっている。


 知らず、カナミの頬を涙が伝っていた。


 ずっと昔に封じたはずの感情が、リーシャの純粋な想いにあてられて、暴れ出す。


 ぽつぽつと、黒い雲から落ちた氷雨ひさめが、すぐに勢いを増していった。


 今日のために綺麗にわいた三つ編みと、巻いた髪が重く崩れていく。


 それでも二人は動かなかった。


 どれほど雨に打たれただろうか。


 リーシャは泣きはらした目で、カナミを見た。


 涙と一緒にさびが落ちて、まっさらな心が言葉をつむいだ。




「私、ユースケさんを愛しています」




 それは聖女の祈りでも、誓いでもない。リーシャという少女の告白。


 それに対し、カナミも応えた。




「ええ。わたくしもですわ」




 二人の言葉は雨音にかきけされ、他の誰にも届くことはなかった。

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