第116話 突きつけられる現実

 全員の視線が一点に集まった。


 リーシャに答えを与えた人物は、屋内でも変わらず蒼衣を身に纏い、手近な椅子に腰かける。


 いち早く反応したのはロゼだった。リーシャから男に向き直り、折り目正しく頭を下げる。


「ラルカン様、お帰りなさいませ」

「少し風に当たっていただけだ」


 ロゼは音もなく部屋の隅に移動し、何か作業をし始める。戻ってきた彼女の手にはお盆とティーセットがあった。


「どうぞ」


 ラルカンと呼ばれた男と、リーシャの前にもティーカップが置かれる。匂い立つ湯気は場にそぐわないかぐわしさだった。


 だがリーシャはそれどころではない。


 止まっていた思考と口がようやく回り始める。


「‥‥勇者‥‥?」


 その小さな呟きに一瞥だけくれると、ラルカンはティーカップを持ち上げた。口元までを覆う外套の襟を下げ、口をつける。


 喉を湿らせてからラルカンは言った。


「そうだ。悪いがお前には奴をここまで連れてきてもらう」

「何を、言っているのですか‥‥?」


 殺すと言われた時の比ではない程に、リーシャの瞳は揺れた。本当に、ラルカンが何を言っているのか分からなかった。


「セントライズ王国で当代の勇者様が選ばれたとは聞いていますが、私は会ったこともありません」


 ラルカンは眼を細め、つまらなさそうに答える。


「そんな紛い物の話はしていない。俺が話しているのは白銀シロガネの勇者だ」


『白銀の勇者』。


 リーシャはその名をよく知っていた。知らないはずがない。


 聖女は女神に祈りを捧げる巫女。教会の中でもトップクラスの特別性をもつ立場だが、その選定はある基準によって人族の手で行われる。


 対して勇者は女神手ずから選定される。その神性は聖女とは比べ物にならない。完全な上下関係にある。


 欲しいと請われれば、否、請われずとも、自ら身も心も捧げなければならない。


 聖女にとって、リーシャにとっての勇者とは、そういう存在なのだ。


 だが、たとえリーシャが聖女でなかったとしてもその名は知っていただろう。


 アステリスの人間で知らない者はいない。生まれたばかりの赤子でさえ寝物語に聞かされる英雄。


 魔王ユリアス・ローデストを討ち滅ぼし、神魔大戦を勝利に導いた最強の勇者、それが白銀の勇者なのだ。


 だからこそリーシャはそれを否定する。あり得るはずがない。


「何の話をしているのですか‥‥? 白銀様は既に女神の御許に召し上げられました。私を助けになど来るはずがありません」


 魔王殺しの勇者は偉大であるが故に、その終わりもまた広く知れ渡っていた。


 彼は魔王を倒した後暫くの間セントライズ王国に滞在し、最後には女神の奇跡によって天上へと迎え入れられた。人族の勇者から女神の騎士へと昇華したのだ。


 故に新たな勇者が選ばれた。


 故に第二次神魔大戦に彼は現れない。


 故に、リーシャを助けに来るはずがない。


 しかしそんな常識をラルカンは鼻で笑う。立ち上がり、リーシャの前に来ると、腰を追って紅い瞳を覗き込む。ラルカンの眼は深い青色で、まるで月のない夜を見上げているような錯覚を覚えた。


「奴は生きている」


 言葉は強く断定した。


 世界の常識を、人族の納得を、目の前の魔族は正面から否定した。


「俺自身初めは信じられなかった。この神魔大戦に参加したのもこれが唯一無二の希望であったがためだが」


 ラルカンは話しながら、指を襟にかける。


 襟が下ろされ、隠れていた口から首が露出した。


「っ‥‥!」


 リーシャはそれを見た瞬間、思わず身体を硬くした。後ろに立っているロゼの冷ややかな視線が鋭く突き刺さる。


 声を出さなかっただけ大したものだろう。


 何故ならラルカンの少年のような顔にはむごい傷跡が残っていたのだから。


 首の右下から入り、頬の左へ抜ける巨大な切り傷。魔術を使った一撃だったのか、ただの斬撃では絶対につかない抉れ具合だった。


 更にラルカンは左腕を持ち上げてみせる。美麗な装飾が施された銀色のガントレットが傷跡をなぞった。


「この傷が教えてくれる、確かに白銀は近くにいると」


 ガントレットの向こうで歯車が噛み合い、スプリングが伸縮する音が聞こえた。


 そこでリーシャはようやく気付く。この左腕は魔道具だ。恐らく左腕も切り落とされたのだろう、肘から先は義肢なのだ。


 同時に理解させられる。 


 今向かい合っている男は、先の神魔大戦の生き残り。しかも勇者と直接矛を交え生き残るような戦士なのだと。


「勇者様が‥‥私を助けに来ると」

「来るだろうさ。奴は関わった人間を決して見捨てない。そういう男だ」

「私は勇者様と会ったことはありません」


 リーシャは即座に言い切った。


 大戦の最中にも戦場に出たことはなく、そもそも表舞台に立ったこともない。勇者と会う機会などなかったのだ。


 だがラルカンはおかしなものを見るような目でリーシャを見た。


 真意を探るように、真っすぐに。


「そのはずはない。お前の近くに白銀の騎士がいるはずだ」

「それは――」


 そこまで聞いてリーシャは初めて思い至った。男が何を勘違いしているのか、誰を勇者と間違えているのか気付いたのだ。


 窮地のリーシャを救い、神魔大戦への助力を承諾してくれた地球の魔術師。今でも瞼を閉じればその姿を思い出すことができる。散り行く火の粉の中に立つ銀嶺と翡翠。眩い剣閃は危機も恐怖も、全てを断ち切った。


 リーシャはその時確かに、彼の者を伝説の勇者と幻視した。


 だがそれは間違いだったのだ。


 鎧の下に隠されていた姿は一般的な青年で、人間だった。女神に選ばれた神性を纏う戦士ではなく、選択に迷い、弱さを兼ね備えた人。


 それでも初めての印象を忘れられなかったから、不敬だとは思いつつ『白銀』の名を使ってほしいと伝えた。この魔族は彼のことを言っている。


「ユースケさんは勇者様ではありません! 強い魔術師ですが、それだけです!」

『んなことあるはずがねえだろ』


 即座に否定の言葉を吐いたのは、横で話を聞いていたフィフィだった。ロゼの頭の上を移動し、大口を開いてがなり立てる。


『お前ら、魔族を二人殺っただろ。大分派手にやってくれたおかげで、情報は集めやすかったぜ』

「確かに二人の魔族と戦いましたが、ユースケさんが戦えるからといって勇者とは断定できないはずです」

『馬鹿か? 二回も戦っててめえが生きてることが、既におかしいって言ってんだよ』

「‥‥?」


 言っている意味が分からず、リーシャは首を傾げた。フィフィは吐く息もないのにため息をつくような仕草をした。


『本当に聖女って奴は何も知らねえんだな。称号持ちの魔族とこの世界の魔術師が戦ったところで、魔族に勝てるわけがねえ。守護者でも一対一じゃ勝ち目は薄い。いいか、魔族と人族ってのは、そういう関係なんだよ』


「そんな、そんなことあるはずがありません! 事実神魔大戦でも人族は魔族にも負けていませんでした!」


 もしもそれだけ力に開きがあれば、戦争にすらならないだろう。リーシャはこれまで勝利と英雄たちの輝かしい軌跡を聞いて育ってきた。


 だがリーシャにとっては残念なことに、それは紛れもない事実。

 ラルカンはリーシャから離れて再び椅子に腰かけると、平坦な口調で言った。


「フィフィの言葉は正しい。女神の下で何を吹き込まれているのか大体想像できるが、根本的に魔族と人族では魔力量が異なる。特殊な例を除けば人族は魔族に敵わない」


 聖女として教会で生きてきたリーシャは、飾り立てられた美しい情報だけを得て生きてきた。よくも悪くも、清涼な水と空気によって育てられた純粋培養。


 故に残酷な事実を知らない。


 人族は魔族には勝てない。大戦において人族と魔族が互角に戦えたのは、個人主義の魔族に対して軍という組織で戦っていたからだ。


 では、そんな存在に単体で打ち勝てる人間は、一体何者なのか。

 ラルカンの言葉が透明なナイフとなって、ゆっくりとリーシャに刺しこまれた。




「認めたくない理由は知らないが、奴が来れば全て分かることだ」




 揺蕩たゆたう明かりにリーシャの顔が照らされる。驚愕と不安が入り混じった表情は、どこか助けが来ることを恐れているようにさえ見えた。


 そんな彼女を後に、ロゼはラルカンに一礼すると部屋を後にした。

 月明かりが差し込む廊下を歩いていると、フィフィが声を落として言った。


『そろそろ近づいて来てるみたいだぜ』

「予想より早かったわね」

『どうするよ』


 その問いにロゼは少し間を開けてから答えた。


「客人を迎えるのは私たちの仕事よ。守衛アモンを出しなさい」

『そうこなくっちゃなぁ』


 言うと同時、ロゼの髪は何の変哲もない黒髪に戻り、代わりとばかりに彼女の足元が泡立つ。月光より逃れた影の中から、夜をくりぬいたような戦士が現れる。


 果たして我が主の望みに叶う人物であるのか、見定めるのが侍従の務めだ。もしも力足らずであれば、沈んでもらう。


 守衛アモンへと乗り移った『影に潜む者フィフィ』は音もなく消えた。死のとばりへと足を踏み入れた者を迎えるために。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る