第149話 閑話 陽だまりの中で

 このお屋敷は町の子供にお化け屋敷だと呼ばれているらしい。


 そう言いたくなる気持ちは分かる。山の中腹に建てられた巨大な屋敷は、周りを多種多様な植物で覆われ、誰をも拒んでいるかのようだ。


 ただ子供たちは知らないだろう。


 この屋敷に住んでいるのは、お化けも逃げ出す最強の魔族なのだということを。


 ポットに入れたお湯が零れないように注意しながらワゴンを押す。


 絨毯がしかれた廊下を進み、目当ての書斎が見えた。


 ノックをしてから、ドアを開ける。


「紅茶をお持ちいたしました」

「ロゼか。すまない」


 書斎ではラルカン・ミニエスが観葉植物に水をあげているところだった。外套も武器もなく、仕立てのいいシャツとパンツを身に着けた姿は、貴族の令息にしか見えない。


 ロゼは戦場で戦うラルカンを知らない。唯一朧気おぼろげに覚えているのは、焼け落ちた町の中で拾ってもらった時のことだ。槍斧ハルバードを肩に担ぎ、空いた手で抱き上げられた。

 焼けた肌に触れる、優しい温かさ。 


 誰もがラルカンを戦の鬼だと言う。


 血も涙もない殺戮者だと。


 けれどロゼは知っていた。その中身はとても優しく温かいということを。だから町の魔族を怖がらせないために、こんなところに住んでいるのだ。


 もっと周りに認められてほしいという思いと、自分だけが知っていればいいという相反する気持ちを封じ込め、ロゼは紅茶の用意をした。


 お気に入りのティーセットは、ロゼの十二歳の誕生日にラルカンから贈られたものだった。


「どうぞ、ラルカン様」

「ありがとう」


 ラルカンは紅茶を一口飲むと、ロゼのさらさらした黒髪に手を置いた。


 壊れ物を触るような手つきで彼は撫でてくれる。それがロゼにとっては一番嬉しい瞬間だった。


「また美味しくなった。上達したな」

「少し別の茶葉も混ぜてみたんです。こちらの方が香りがよく立って」

「そうか、研究熱心なのはいいことだ」


 それから暫くラルカンとロゼは穏やかなティータイムを楽しんだ。


 きっとラルカンはまた戦場に行くだろう。そして帰ってきたら、温かい紅茶を淹れてあげる。


 何もかもを失ったロゼにとって、それだけが生き甲斐だった。


 午後の柔らかな日差しの中で、ラルカンが植物の様子を観察する。


「ラルカン様は植物がお好きですね」


 そんなつもりはなかったのに、どこか拗ねたような声が出た。


 ラルカンはそれに気づいたのかそうでないのか、こちらを振り向く。その目で見つめられるだけで、小さな嫉妬心はすぐに消えた。


「そうだな。植物はいい。いくら曲がろうと決して生きるために光を見失わない。真っ直ぐに育つのもいいが、俺は迷っている者の方が好きだ」

「何の植物が一番お好きなのですか?」

「一番か‥‥」


 ラルカンは暫く迷った様子だったが、軽く口元をほころばせて言った。


「植物に一番はないが、今最も大切に育てているものはいる」

「どれも大切に育てているように見えますが」


 謎かけのような言葉だ。


 ロゼは小首を傾げて考える。


 再びラルカンの手が頭に乗った。鉄とお日様の、安心できる香り。


「奪うばかりの俺にも、何かを育むことができる。それを教えてくれたのはロゼだ」

「――!」


 言葉の意味を理解したロゼは顔を真っ赤にしてラルカンを見た。


 恥ずかしいような嬉しいような、やっぱり子ども扱いされて腹立たしいような。


 そんな気持ちもラルカンの顔を見たら、やっぱり引っ込んでしまうのだ。ずるい。


「私も、ラルカン様が一番大切です」


 尖らせた唇から、すんなりと出た言葉は、届いただろうか。


 小さな子供のたわむれと、湯気のように消えてしまうのだろうか。

 

 それでもロゼは胸の内にその言葉を刻み込んだ。

 

 たとえ世界の全てが敵に回ったとしても、ラルカンでさえ敵わない相手がいたとしても、自分だけはラルカンの味方でいよう。


 それは在りし日の夢。小さな少女の誓い。


 二度と戻らない思い出は、けれど確かに存在した。

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