第273話 勇者の死んだ日

      ◇    ◇   ◇




 魔王を倒した直後の記憶は、実は曖昧だった。


 確かに彼を斬った感触は手にしがみついていたが、握った剣の先にまだ彼がいるような気がしてならなかった。


 戦いは終わっていない。倒れるわけにはいかない。


 進め、斬れ。死ぬまで剣を振るえ。


 ただそれだけが頭を染め上げていた。


 そんな俺を現実に引き戻す存在があった。


 エリスだけが、もやのかかった記憶の中で、唯一鮮明に思い出すことができた。


 彼女は泣きながら、何も言わず俺の身体を抱きしめていた。傷だらけの両腕が、離さないとばかりに強く身体を締め付ける。


 彼女が泣いている姿を見た記憶はほとんどない。


 グレイブの死にさえ、涙をこらえて戦闘指揮を執る少女だ。


 そんなエリスが、静かに涙を流していた。


 鎧が銀の光となってほどけ、血だらけの胸元が温かく濡れるのが分かった。


 世界が色づき、音を取り戻していく。メヴィアの「死ぬな馬鹿!」という切羽詰まった声と、コウの俺を呼ぶ声。視界の端で、シャーラの祈る姿が見えた。


「もう‥‥終わったのよ」

「終わっ‥‥た‥‥」


 言葉が意味を無くし、音がボロボロと頭の中からこぼれ落ちていく。


「そう、終わったわ。終わったの――」


 何度でもそうするように、エリスは俺の胸の中で呟いた。


 零れた言の葉の欠片がゆっくりと身体に染み渡り、じんわりと熱を帯びる。


 最後に残った剣が光となって散る時、俺は初めて戦いが終わったことを実感した。


 そして俺がよく知るエリスとの記憶は、それが最後だった。




 国に帰るまでの旅や凱旋がいせんなど、エリスと共に行動した時間はあったが、俺はその間夢を見ていたかのようで、途切れ途切れの情景を思い出せる程度だった。


 あるいは、その後の出来事があまりにも衝撃的で、かすんでしまったのかもしれない。


 セントライズ王国に帰った俺は、明確な違和感を感じていた。


 しばらくの間は戦争の事後処理に追われているのだと自分の中で理由をつけて納得していたが、時間が経つにつれてそれは現実となって心をむしばんだ。


 エリスと会う時間が減っていた。


 彼女はセントライズ王国の王女だ。戦争が終われば、当然王族としての公務があるし、四英雄としての顔も持っている。国民からの人気も高く、聡明で博識。多忙になるのは分かり切っていた。


 しかし俺も勇者だ。


 今までのエリスとの関係を考えれば、たとえどれだけ忙しくても会う時間は作ってくれたはずだ。


 しかし戦後、その時間が徐々に無くなっていくのが分かった。


 一切会えないわけではない。多少なりとも会う時間はあったし、その時のエリスはいつものように笑顔で俺と接してくれていた。


 ただその笑顔の裏に何かがあることに気付かないほど、俺たちの関係は浅くなかった。


 そして運命の日がやってくる。


 俺が地球に送還される前日。俺は湖のほとりで一人寝転んでいた。


 そこはセントライズ王城の裏手にある小さな森の一角で、実は俺がこのアステリスに呼ばれて初めて降り立った場所だった。


 明日、ここで勇者送還の術式が発動する。それが教会とメヴィアからもたらされた言葉だった。


 おそらく送還の術式が発動するのはその一度きり。受け入れるか、拒否するか。


 呼ばれた時とは違う。俺は今それを選ぶことができる立場にある。


 人生の岐路きろだった。決して取り返しのつかない、選択。


 得られるものと失うものは、明白だ。


 文明だとか、地位だとか、名声だとか、そんなものはどうだっていい。


 天秤に掛けられているものは、家族のいる故郷と、仲間のいる異世界だ。


「‥‥」


 満天の星空の下、これまで出会ってきた人々の顔が浮かんだ。仲間も、敵も、生きている者も、死んだ者もいる。


 そして朧気おぼろげになりつつある両親と友人の顔が浮かび、最後に浮かんだのはやっぱり緋色の少女だった。


 夜明けに昇る太陽のようにキラキラと輝く、俺の暗い道を照らしてくれた人。


 この数か月で覚悟は決まっていた。


 単純な話だ。彼女が俺を必要とするのならここに残り、いらないというのであれば、地球へ帰る。

 エリスのおかげでここにある命だ。彼女が今何を思っているのか、もう俺には分からないが、彼女の決定に従おう。


 コウやメヴィア‥‥シャーラは確実に怒るよなあ。


 相談すれば俺を引き留めてくれる人は大勢いることだろう。勇者『白銀シロガネ』ではなく、山本勇輔を大切に思ってくれる人は確かにいる。


 それでも、俺はエリスの言葉を優先する。


 正直なことを言うと、もう考えるのが辛かった。たとえ万人が俺を必要としてくれたとしても、そこにエリスがいないのであれば、なんの意味もない。


 嫌な予感がまざまざと現実に輪郭を写すこの数か月は、死よりも苦しい時間だった。


 それを予期していたのか、あるいは彼女もまた俺と同じ思いだったのか。


 星が降らす光の下に、一人分の気配が現れた。


「‥‥」


 不思議と驚きはなかった。あるいは、待っていたような気もする。


 顔を上げた先には、いつだったかと同じネグリジェにガウンを羽織ったエリスが立っていた。


 夜の中でさえ焚火たきびのように燐光りんこうをまとう緋色の髪。真っ直ぐな光で前を向く深緑の瞳。王国でも随一とうたわれた美貌びぼうは、この数年でさらに磨かれ、どんな時であっても見惚れてしまう。


 苛烈なまでの正義感に燃え、熱さえ感じる程に優しい人。


 実は不器用で、理知的でありながら一直線で、時には空回りもしてしまう、いとしい人。


 地獄から俺を救ってくれた人。


 俺の一番大切な人。


 エリス・フィルン・セントライズは、ゆっくりと俺の方に歩いてきた。


 俺もまた立ち上がり、彼女を迎える。近づいているはずなのに、その距離は果てしなく遠く感じた。


 なんで来たのかなんて、聞かなくても分かる。


「わざわざ正解を教えに来てくれたのか?」

「‥‥ええ、そうね」


 探り合いは必要なかった。俺はこの数か月エリスの情報を集めていたし、きっとそうしていることも彼女は知っている。


 今この時間は、人づてに聞いたその噂が真実であるか、答え合わせの時間だ。


 エリスは俺の目を見た。何度も見てきた瞳は、変わらず綺麗だった。


「私はあなたを傷つけたくはなかったわ。けれど今のあなたはありもしない希望にすがりついて、本当の幸せを見誤ってしまう」

「‥‥俺の幸せが分かるのか?」

「分かるわ」


 エリスは即座に答えた。


「ねえ、ユースケ、聞いてくれる?」


 それはいつもの彼女と同じように優しい声で。けれど誰か別の人間が話しているようで。


「魔王が死んだのはとても喜ばしいことよ。おかげで人族の繁栄は約束された。その点については感謝してるわ。‥‥だけど、そんな魔王を殺せるあなたは、人々にとって恐怖の対象になるの」


 世界が、揺れる。


「だからお願い、お金でもなんでも欲しいものは用意するから、故郷に帰って。それにあなたが居ると、私の婚約者も不安がるわ。知ってるでしょ、ヴィスラード公爵家のジルク様よ。私には、これから国を支えるためにカリスマと人望を持った彼のような才人が必要なの」


 ――ジルク。ジルクか。最近誰に聞いてもその名前が出てくるな。


 他の王族にも、宰相さいしょうにも、国王様にも確認しに行った。結局、みんな口をそろえて同じ答えを言ったけれど。


 立っていられない。


 世界が現実味を無くし、得体の知れない悪夢に襲われているような錯覚にとらわれる。


 覚悟を決めてきたはずだ。


 もはや自分では決められないからと、彼女の振るう裁定の剣を、受けに来たのだ。


 けれど、聞きたくない。


 エリスの口から、その言葉を聞きたくない。


 それでも彼女は、振り下ろす。決定的な言葉を。




「――だから、もう、戦うことしか出来ないあなたは必要ないの。ねえ、分かるでしょ。この世界にとっても、私にとっても、邪魔なだけの存在なのよ」



 

 始まりの場所で、終わりの言葉は告げられた。


 あの日、勇者『白銀シロガネ』は死んだ。


 何もかもを失った山本勇輔はその翌日、仲間たちに見送られ、地球に送還された。


 そしてその場にエリスの姿はなかった。

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