第272話 エリスの話‥‥あれ?

 言葉の意味を理解するのに時間がかかり、たっぷりと間を取って俺は聞き返した。


「だから、エリスがお前をこっちに帰した理由を教えてやるって言ってんだ」


 察しが悪いとばかりにコウは目を細めた。


 真実。


『もう、あなたは必要ないの。ねえ、分かるでしょ。この世界にとっても、私にとっても、邪魔なだけの存在なのよ』


 エリスが俺を地球に帰したのは、必要のない存在となったから。魔王という脅威を倒した世界に、危険な兵器が存在することを嫌ったから。


 あるいは、初めから引き留める価値もない人間だったから。


「‥‥」


 ――そんなこと、あるはずがない。あるわけがないだろう。


 冬の朝焼けよりも鮮やかな意志を秘めた瞳、燃えるように揺らぐ緋色の髪。


『ユースケ』


 そう呼ぶ声はどんな戦場の渦中であっても不思議と耳に響いた。積み重ねた過去が、紡いだ信頼が、胸に突き刺さった別れの一瞬を塗りつぶす。

彼女が何の理由もなく俺を地球に帰すはずがない。


 俺はあの時、魔王戦のショックと初めての拒絶に精神が摩耗まもうし、正常な判断ができていなかった。地球に帰ってからは、その薄っぺらい欺瞞ぎまんにすがりついた。


 少し考えれば分かったはずなのに。


「もう分かってんだろ。エリスの婚約者だのなんだのって話はでっち上げだ。お前を地球に帰すために一芝居打ったんだよ」

「何のために」


 反射的に問うた声に、コウは笑みを浮かべた。


「はじめに言ったろうが。それを知りたいなら、俺を倒してみせろよ」


 ‥‥なるほど、そういうわけか。


 身体の内側から暴力的なまでの魔力があふれ出し、毛細血管の隅々にまで満ちるのが分かる。


 平穏な一室が瞬時に名剣の切っ先にも似た緊迫感をはらみ、空気が震えた。


「戦いの最中とはいえ、無傷では済まないぞ」

「そりゃお前の方だな。安心しろ、倒れたところでもう俺がいる」


 室内だとか、座っているとか、周りに人がいるとかは一切関係ない。ここは既に互いの間合いの内側であり、何かきっかけがあれば俺たちは動くだろう。


 そんな俺たちの間に、何気なく踏み込む者がいた。


「二人とも、馬鹿なの? 部屋が壊れる」

「シャーラ、どいてくれ」

「邪魔だ、割って入るなよ」


 俺たちがそう言った瞬間、すさまじい速度の平手打ちが俺とコウを張り倒し、一拍遅れて乾いた音が響いた。


「おしおき」


 えぇ‥‥、あまりにも速すぎて音が一つに聞こえたんですけど。


 俺は張られた頬をさすりながら身体を戻す。


 というか、いくら殺気がないとはいえ、臨戦態勢だった俺とコウに、続けざまに平手を叩き込むって、どういうことだよ。


「いってぇ。何すんだよ」

「別に二人で戦うのはいい。家が壊れるのは困る」

「お前がそんなことにこだわるなんて珍しいな」

「私とユースケの家だから」

「違う違う」


 さらっと嘘を言うな嘘を。怖くて横が見れなくなるだろ。


 とにかくシャーラのおかげで気もえた。それはコウも同じだろう。


「なら明日の正午、場所はどこでもいいが」

「それなら、私の方で用意します」


 そう言ったのは月子だった。


「いいのか?」

「ええ、少し遠いけれど、対魔官の方で所有しているいわくく付きの山がいくつかあるから。あなたたちに街中で好き放題暴れられたら、綾香に何言われるか分かったものじゃないわ」

「はい」


 やばいやばい、頭に血が上っていたけど、試合の後に殺されるところだった。


「そんなに」

「ん、どうした?」

「なんでもないわ」


 月子はふいと首を反対に向けた。勝手に部屋の中で戦おうとしたから、怒らせたらしい。


「なら明日の正午にここに来る。それでいいな」

「ああ、せいぜい首洗って待っとけよ」


 コウはひらひらと手を振ると、あっさり家から出ていった。


 シャーラはそんなコウを見送ると、珍しく俺の方には来ず、そのまま自分の部屋に戻っていく。コウの言葉を聞いても驚いている様子はなかったし、シャーラも何か知ってはいるみたいだな。


 しかし彼女はコウと違い、俺にそれを話すつもりはないのだろう。


 必要ないと判断したのか、それともまた別の理由か。どちらにせよ無理に聞き出すつもりはない。きっと彼女には彼女なりの考えがあるはずだ。


 ソファに身体を預けると、心配そうなリーシャが俺の顔を覗き込んできた。


「ユースケさん、身体も治ったばかりなのに大丈夫ですか?」

「大丈夫‥‥とは簡単には言えないなあ」

「そんなにお強いのですか?」

「純粋な戦闘能力なら俺と同等だよ」

「本当ですか⁉」


 リーシャが驚いた声を上げるが、そんなに驚く話でもないだろ。


 コウは魔王を倒した四英雄しえいゆうの一人だ。しかも回復特化のメヴィアや万能のエリス、特殊な魔術を使うシャーラとは違い、完全な戦闘特化の魔術師。


 言ってしまえば、俺と同じ脳筋スタイルである。


 だからやりたくないんだが。


「ねえさっき、エリスさんの話が出ていた気がするのだけど」

「そうだな。今更知ったところでって話ではあるけど」


 月子の視線は、わずかに揺らいで見えた。


 ついこのあいだ、月子とはエリスの話をしたばかりだ。俺にとって彼女がどういう存在だったのかは分かっているだろう。


 女々しいものだ。


 あの時の真実が何であろうと、結果は変わらない。過去は決まり、未来はその先に延び続けている。


 知ればより大きな傷を負うかもしれない。


 それでも。


「俺は知りたい。知らなきゃいけないことだと思う」


 心の内に住まう剣の獣と同じように、真実から目を背けては俺の求める場所には届かない。


 決意を新たに顔を上げると、困惑するリーシャとカナミの顔があった。


 ――え?


 なんとも言えない熱量の差に困惑していると、三人が言った。


「‥‥あの、何の話だったのでしょう?」

「できれば私も教えてもらいたいですわね。月子さんは何かご存じで?」

「いえ、私も詳しくは知らないわ」

「‥‥」


 俺はいつの間にか握りしめていた拳を解くと、顔を再び下ろした。


 恥ずかし!


 そういえば俺が地球に帰ってきた時の話なんて、まともにしたことなかったわ。エリスの存在は知っていても、別れ際に何があったのかなんて、知っているはずがない。


 この三人からすれば、よく分からないことで突然喧嘩し始めたやべー奴らである。


 ‥‥さて。


 リーシャとカナミ、月子の目が突き刺さる。


 こうなった以上、話さないで済ますという選択肢はなさそうだ。


 しかしなあ。


 あれ、話さなきゃだめ? 失恋に若気の至りにセンチメンタルが入り混じって、自分で話すのは相当メンタル削られるんだけど。


 気のせいか、三人とも近づいてきている気がする。


「はぁ‥‥」


 酒を飲んでいてよかった。


 一つ一つ、鍵のかかった引き出しを開けるように、俺は仕方なく話し始めた。

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