第178話 開幕

 東京の夜景を下に眺めながら、彼は不愉快な感情を隠そうともせず背後に声をかけた。


「それで、現地の魔術師相手に手こずったわけか」

「──申し訳ありません」


 床に膝をつき、こうべを垂れるのは壮年の男だった。


 この場面を第三者が見れば、その異様さに息を呑んだことだろう。


 一般的なオフィスでひざまづいているのもそうだが、何より彼が頭を下げている相手が異様だった。


 仕立てのいいスーツに身を包んでいるのは、年若い青年だった。


 この時代、青年実業家など珍しくもないが、彼はそれとは違う覇気を身に纏っていた。人を従えて当然、頭を垂れぬは罪。生まれながらに人の上に立つことを運命づけられた人間。


 青年は窓から男の方を振り返った。亜麻色の髪に、誰もが頬を緩める端正な顔立ち。


 しかしそこに笑みはなかった。


 青年は身の凍るような無表情で歩み寄ると、男の頭に足を乗せる。それでも男は何も言うことなく受け入れた。


「お前は俺の手駒だ。使えると思ったから持ってきた。想定通りの仕事もできない駒はごみですらない、毒だ。お前はこの俺に毒を盛ろうというのか?」

「申し訳ありません」

「お前の謝罪に何の意味も価値もない。俺が欲しているのは答えだ。──お前は毒か、ディガルド?」


 ディガルドと呼ばれた男は、しばらく黙り込み、言葉を選んで言った。


「次こそ、我が身が貴方様の駒であることを証明いたします」

「そうか。そうであることを期待している。ここでは駒を捨てるにも手間がかかるからな」


 そこまで言うと、興味が失せたように青年は再び窓の近くに歩いていった。別段ディガルドが失敗したから不機嫌なわけではない。彼にとってそれは些事でしかなかった。


 ディガルドが部屋を出る気配を感じながら、夜景を眺める。


 おびただしい人工の光で輝く街は、美しくも歪だった。人口も、技術も、まるで栄えているかのように見える、形だけの街並み。


 この国には統治を感じない。民意という名の惰性と文化だけがずるずると曖昧な国の形を作っている。


 吐き気がする。


 国とは王によって統治されるもの。大多数の衆愚に支配されるなど、あるべき国の重さが空虚になるだけだ。まるで得体の知れない何かに化かされているかのような不快感。


 こんなものが国として成り立っていることに怒りが湧く。


 今自分の持っている兵力でさえ、征服せよと言われれば三日とかかるまい。


「なぜこんな家畜小屋が舞台に選ばれた。世界の命運を賭けた戦いにしては、あまりに小汚い」

「──私如きには女神様のご意志は計り知れませぬ」


 青年の呟きに、影から答える声があった。


 本当に人がいたのかと疑うほどの気配のなさ。虚な目をした、長い黒髪の男がそこに立っていた。


 背丈は二メートルはあるだろう。骨張った体格で、スーツにゴツゴツとした隆起が生まれている。


「つまらん男だ。お前は」

「申し訳ございません」

「よい、初めから期待していない」


 青年の言葉に男は頷くだけだった。


 女神の意志は計り知れず、現実は時として想像もつかない真実を連れてくる。


 アステリスの人族が聞いて、どれほどが信じられるだろうか。こんな国からあの男が生まれるなどと。


 眩い閃光と共に魔族を駆逐する人族最強の英雄。




 勇者『白銀』。




 彼の打ち立てた偉業は数知れない。魔王を討伐したことが最たるものだが、少し調べるだけでも、それが氷山の一角でしかないことを知るだろう。


 青年は、己が持つ資産と権力の全てを用い、ありとあらゆる者から情報を手に入れてきた。本来であれば一笑に付す内容も、知れば知るほど、真実味を帯びていく。


 曰く、魔族の軍を数人で七日七晩押しとどめた。


 曰く、冥府に落ちて尚魂砕けず、冥神との一騎討ちに勝利し生還した。


 曰く、『破壊』の魔将を初撃一刀にて斬り伏せた。


 曰く、未だ沁霊に至らず。


 魔術を、魔族を知る者こそ、笑いは消えていく。


 無限の魔力による継戦能力、竜をも超える機動力、魔術を剣技で打ち破る技巧。


 どれを取っても反則じみた力ばかりだ。


 化け物が人の皮をかぶっているか、別の世界から来たと言われた方が信じられると思ってはいたが――。


 青年は首を横に振った。もはや出自など関係ない。この体に流れる血が、己の役目を果たせと脈打つ。


 演者は揃い、幕は上がった。


「楽しんでくれよ勇者、この戦争は俺たちからの贈り物だ」

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