第72話 微睡みの幸せ
流れゆく景色を眺めながら、小さな揺れに身を任せる。
伊豆へと向かう「踊り子」の車窓から見える景色は、徐々に都会から緑豊かな街並みへと変わっていった。
俺は電車に乗るのが結構好きだ。流れる時間が緩やかで、移り行く景色を眺めている間に心地よい眠気を覚える。
でも眠ってしまうと、この時間が一瞬で過ぎてしまう。何とも言えないジレンマだ。
そうやって電車の旅を満喫している俺なのだが、俺以上に楽しんでいる人が一人、いや二人かな。
「うわぁ、本当に凄い速さですね」
「確かに凄まじいですわ。魔力もまともに使われてない世界で、どうしたらここまでの発展が‥‥」
四人で座れるボックス席、その対面で延々と窓の外を眺めている二人がいた。
どちらも目を引く鮮やかな髪色に、整った顔立ちの少女だった。
言わずもがなリーシャとカナミである。
二人は電車に乗ってから、ひたすらこの調子である。この地球に来てから、電車に乗るのが初めてというわけでもないそうだが、簡単には慣れないらしい。
気持ちは分かる。
アステリスで長距離の移動と言えば、馬車や竜車といった生物の力を利用するものか、超高価な魔動車くらいなものだ。
ほとんど教会から出たことのないリーシャからすれば猶更だろう。
「二人とも、日本の景色が珍しいみたいだな」
「普段あんまり遠出する機会なかったからなー」
隣に座る総司がいつになく優しい目でリーシャたちを眺めていた。
そう、現在俺たちは合宿場所へと向かうために、文芸部のメンバーで移動しているところである。
カナミの参加はリーシャの保護者ということで、すんなりオーケーが出た。そこに男子票が多分にあったことは言わずもがなだろう。
正直神魔大戦の最中、呑気に旅行なんて行けるのかとも思ったが、加賀見さんにそれとなく打診したところ、むしろ一回東京から離れてほしいとの言葉を頂いた。
考えてみればあれだけ連続でドンパチやってれば、そうも言われるわ。いつもすみません。
そんなわけで俺たちは気兼ねなく合宿への参加が叶ったわけだ。
去り行く景色に夢中のリーシャたちを眺めていると、上から声が降ってきた。
「ねーねー、途中で席替えしたりしないの?」
上を見なくても分かる。後ろの席に座っている松田が身を乗り出してきたんだろう。
「最初にくじ引きで決めたんだから、もうしないぞ」
「え、本当に着くまでこの席なんですか⁉」
「しょうがないだろ、陽向もいい加減諦めろよ‥‥」
そう、ボックス席は四人までなので、初めに誰がどこに座るのかくじ引きで決めたのである。結果リーシャとカナミが隣で、その対面に俺と総司。その後ろに松田と陽向という席になったのだ。
陽向は可哀そうだけど、厳正なくじ引きの結果だから。頑張れ、応援だけはしてる。
「なんで折角の合宿で松田さんが隣‥‥」
「僕的には後輩にそこまで言われると複雑な気持ちだよ」
ふーん。
「複雑の内訳は?」
「屈辱、悲しみ、嬉しさ、気持ちよさ」
それ実質一つだろ。
「あぁ、もう最悪です」
「ひなさん、あまり先輩に対してそういう言い方をするものじゃないですよ」
陽向可哀そうだなー、と思っていたら、そんな陽向をたしなめる声が聞こえてきた。実は電車に乗っているのはいつもの面子だけではなかった。
俺も背もたれの上から顔を出し、後ろを向いた。
「悪いな黒井さん、松田が無理だったら早めに言ってくれ、席変わるから」
「全然大丈夫ですよ。松田さんはとても楽しい方ですから」
そう言ってクスクスと笑うのは、鮮やかな黒髪を長く伸ばした少女だった。黒井華さんは陽向と同じ文芸部一回生である。口調と性格はまさしく天使そのもの。この松田をして楽しい方と言い切れるのは彼女くらいのものだろう。聖女のリーシャでさえ言い淀むぞ。
まあ聖女って能力で選ばれるから性格はあんまり関係ないんだけど。
そんな黒井さんだが、その見た目は天使とは正反対である。
何せ着ているのは黒い長袖のワンピースにロングブーツ。電車内は冷房が効いているとはいえ、外はうだるような暑さ。この季節に着るのは相当気合いがいる服装だ。それを涼し気に着こなしているあたり、只者じゃない。
ちなみにホラー小説が好きで、俺の書いたモンスターの生々しい描写を唯一褒めてくれた子でもある。やっぱり天使だわ、間違いないね。
「華はゲテモノ好きだから、そう言えるの」
「まさかのゲテモノ呼ばわり!」
「おい誰の小説がゲテモノだ、あぁん?」
「誰も先輩の小説がゲテモノなんて言ってないですよ、五月蠅いんで座ってください。あと松田さんキモイです」
はい、すいません。
ナイフのような目つきで睨まれたので、大人しく座ることにする。
想像以上に松田アレルギーが出てますねこれは。そんな松田は深く背もたれに背を預けて後輩の言葉を噛み締めていた。
もはや何も言うまい。
俺も体の力を抜き、目を閉じた。
ここ最近は何かとドタバタしていて、こうやってゆっくりした時間を過ごすことがなかった。
楽しそうなリーシャの声を聞きながら、この合宿だけは彼女にとって輝かしい思い出になってほしいと、そう思わずにはいられなかった。
◇ ◇ ◇
「‥‥ぃ」
「んん」
「なさい!」
何だろう、懐かしい声が聞こえた気がした。
聞いているだけで泣きたくなるような、無性に声を上げたくなるような声。
目を開けると眩しい光が視界を白く染めた。
眩しいな、なんで電車の中でこんなに光が入ってくるんだ?
窓を開けたにしても光が強い。まだ寝ていたい気持ちを抑え込み、ゆっくりと目を開く。不思議に思いながらも目が慣れてくると、その理由が分かった。
視界に移ったのは豊かに生い茂る緑の葉と、その隙間から差し込む眩い日差し。ちょうど光が俺の顔にかかっていたらしい。
驚いて息を吸い込むと、東京ではありえない、鼻いっぱいに豊かな自然の香りが広がった。
どこだ、ここ?
事態を飲み込めず思考停止しているところに、上から声が降ってきた。
「あ、ようやく起きたわね。何か楽しい夢でも見てたの?」
「あ、あ、え?」
「何よ、人の顔見て変な声出して。寝惚けてないでさっさと顔洗ってきなさい」
「‥‥あ、ああ」
どうなってんだ。
頭が混乱する。確かについさっきまで俺はリーシャたちと電車に乗っていたはずなのに――。
のろのろと立ち上がると、そこに広がっていたのはどこまでも続く平原。遠くに見える丘陵を覆う鮮やかな緑の植物たち。そして空に抱くは光の円環を纏う太陽。生命力と力に満ち溢れた荘厳な光景だ。
間違いない。
ここは日本どころか地球ですらない、俺が勇者として旅をした異世界――アステリスだ。
「本当にどうしたのよ、変な顔してるわ。具合でも悪いの?」
そして俺の顔を覗き込む、燃えるような緋色の少女は。
「エリス‥‥か?」
「何、寝ている間に頭でも打ったの?」
エリス・フィルン・セントライズ。セントライズ王国の第二王女でありながら、魔王討伐の旅に参加した魔術の天才。
もう俺が二度と会うことのできない女性がそこにいた。
あまりにも突然飛び込んできた彼女に、頭が混乱する。いくつもの苦しい過去や輝かしい思い出が爆竹みたいに連続して弾け、処理速度が追い付かない。
それでも何とか声を絞り出した。
「‥‥大丈夫だ。悪い、寝惚けてた」
「しっかりしてよね、ここだって見た目通りの安全地帯じゃないんだから」
「ああ、ありがとう」
エリスに手渡された水筒を開け、水を一口飲む。温い水だけれど、寝起きで乾いた喉には非常に心地よかった。
そして改めてエリスを見る。
「何よ、飲み終わったら水筒返しなさい」
こうして久しぶりに見ると、やっぱり綺麗だな。月子やリーシャも綺麗だけど、エリスはまたタイプが違う。
質素な旅衣装にも関わらず、内から溢れ出る煌びやかなオーラが辺りを輝かせる。高飛車に見えて、些細なことで表情が変わる様子は、揺らめく炎のようだ。
そうして暫くぼんやりとエリスを眺めていたら、横から声を掛けられた。
「おや、朝から姫に見惚れてどうしたんですか?」
「弛んでいるなユースケ、それでは魔王討伐など夢のまた夢だぞ」
「‥‥リスト、グレイブ」
振り向けば、そこに立っていたのは線の細い青年と、対照的に大柄な男だった。
最年少で王国魔導騎士団に入団したリスト・セラエ。エリスが幼いころから近衛騎士として護衛を務めてきたグレイブ・オル・ウォービス。どちらもセントライズ王国が誇る優秀な騎士だ。
その二人の顔を見て、俺は改めて悟った。
これは――夢だ。
柔らかな日差しが微睡みに写した淡い幻灯。
「ようやく目が覚めてきたよ」
立ち上がり、身体を伸ばす。
胸いっぱいにアステリスの空気を吸い込み、全身で魔力を循環させる。
身体が軽い、自分でも肉体が絞り込まれているのが分かった。そうだ、この時期は王国で散々鍛えた後だった。
日本に帰って鈍った俺とは違う。魔術に対する理解度こそ今の方が上だが、身体の練度は比べものにならない。
「ユースケ、今日中には平原を超えて森まで行きます。腑抜けているのであれば置いていきますが」
「全くだ、一発気合いを入れてやろうか」
「やめてくれ。グレイブに殴られたら気合いどころか意識が飛ぶ」
「なっはははははは、鍛え方が足りんなあ」
「朝から仲いいわね、貴方たち」
皮肉屋のリスト、実直なグレイブ。二人との旅からは学べることが多かった。リストは戦闘面以外でも様々な場面で旅のサポートをしてくれたし、グレイブの明朗快活な性格は陰鬱な空気を吹き飛ばしてくれた。
「でも二人の言うことももっともね。気合い入れなさいよユースケ」
そうして正面から俺を見据えるエリス。
瞬間、彼女の顔が二つにブレた。
屈託のない彼女の顔と、俺を地球へと送り返した時の顔。
こんな懐かしい夢でさえ、癒えたはずの古傷が疼きだした。
それは一つの傷じゃない、幾つも幾つも重なり合った痛みと後悔。
もしもこの時からやり直せることができたら、また違った結末を迎えることができたのだろうか。
いや、そんな仮定に意味はない。既に答えは出ているのだ。
彼女は俺を必要としない道を選んだ。王女としての誇りを全うするために。
リストとグレイブもまた、自分で自分の未来を選択した。それを変えようなんて、あまりに烏滸がましい。
「ユースケ?」
エリスを改めて見つめた時、まるで波紋が広がるようにその顔が揺らいだ。
所詮は儚い記憶の湖面。
わずかな刺激でその景色は崩れ去る。
まだ見ていたいという気持ちと、もう離れてしまいたいという気持ちがぶつかり合いながら、微かな名残惜しさを残して三人の姿が消えていく。
淡い幻灯は意識の覚醒と共に見えなくなった。
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