第329話 土御門晴凛

     ◇   ◇   ◇




 土御門は阿修羅を前にして、初めて自分から仕掛けた。


 式神剣製しきがみけんせいによって複数の刀剣を作り出し、それを投擲とうてきしながら走る。


 どれもが怪異として現れれば乙種か甲種として扱われるような式神を、惜しげもなく投入する。


 しかしそれは阿修羅に傷をつけるどころか、到達すらしなかった。


「哀しい、哀しい」

「脆弱、脆弱‼」


 二本の腕が柏手かしわでを打った。


 その衝撃で全ての刀剣が弾き飛ばされ、不可視の壁となって土御門に迫る。


 魔術でも何でもない、本当にただ手を打っただけだ。それだけで人にとっては天災と化す。


 ただの衝撃であれば対処のしようもある。土御門は『神隠しの暮衣くれぎぬ』を身にまとい、一瞬だけその場から消える。


 そして衝撃をやり過ごし、土御門はさらに踏み込んだ。


 阿修羅を倒すためには直接その身体に殺生丸の呪いを流し込むしかない。それも一回では無理だ。


 九回。


 九重ここのえの呪いをもって殺す。


 退いた瞬間に負ける。おくして距離を取れば、絶対に勝ち目はない。


 阿修羅の六本の腕が、つるぎを構えた。


 そして、振るう。


 ゴウッ‼‼


 剣が怒りと悲しみをもって、吹き荒れた。


「‥‥‼」


 声を出す余裕はなかった。


 三回だ。


 二十七回死んで、三回切った。


 今の一瞬で土御門は二十七回死んだ。斬られ、潰され、千切られ、虫のように殺された。


 自分の持つありとあらゆるリソースをつぎ込んで身を守り、それでも死んだ。


 なぜ土御門のHPバーが未だに残っているのか、それは殺生丸のおかげだった。この妖刀は、その出自から、『身躱みかわし』の特性を持っている。


 狡猾こうかつに追手から逃れ続けた九尾の力だ。


 それでも完全ではない。


 今土御門が死ななかったのは運が良かったからだ。


 ほんの少しボタンが掛け違えられていれば、身躱しの術式は失敗して死んでいた。


「辛い、辛い」

「卑劣、卑劣なり‼」

「毒を用いるか。人間らしいあがきである」


 阿修羅が不思議そうに土御門を見下ろした。この小さき存在は何故死んでいないのか、とでも言いたげな目だ。


 それにしても三度切ったのだ。ただの魔術師であれば、近くに寄っただけで死ぬほどの呪いを直接三回流し込んだ。


 それでも阿修羅に効いている様子はない。


 これをあと六回繰り返す。


 果てしない先を見据え、土御門はカードを取り出した。


 口の端から血が伝い、カードに落ちる。思ったよりも殺生丸の浸食が早い。


 前にも後ろにも命の終わりが見えている。


 これほどまでにたかぶる瞬間は、他にない。


 魔力を回し、肉体を強化する。


 阿修羅の動きは見た。はっきり言って、人間が対応できるような速度でも力でもない。まっとうなやり方ではすり潰される。


 だからここからは勘を頼りに切り抜ける。榊綴は言った。ここはゲームの世界だと。人々のゲームへの認識が領域を維持していると。


 ならばどれほど理不尽に見える敵であっても、


 だから阿修羅の頭上にもHPバーが浮かんでいる。それは阿修羅が倒せる存在だという何よりの証左だ。


「さぁ、行こうか」


 血の味を噛み締めながら、土御門は再び阿修羅に向かって走り出した。


小癪こしゃくなり」


 阿修羅が六本の腕を構えた。斬撃が来る。


 阿修羅は戦闘神としての性質からか、余計な小細工はなしに直接叩き潰してくる。土御門は攻撃の軌道を読んで、止まることなく踏み込んだ。


 それで完全に避けきれるものでもない。


 当たるものは当たるものとして、殺生丸の力に頼る。


 四、五。


 巨体の下を潜り抜けるようにして、傷を付ける。


 身躱しが発動し、死がすぐ横に振り下ろされた。


 六、七。


 刀を持つ腕の感覚がもうない。呪いは確実に土御門の身体を侵し、HPバーは減り続けている。


「無駄、無駄」」

「小賢しい、小賢しい‼」

ちよ、人の子‼」


 阿修羅による言霊ことだまが爆撃となって降り注いだ。


 これはどうあっても避けられない。


 ゆえに土御門はある式神を衣にして羽織っていた。


 『天邪鬼あまのじゃく』である。


 効果は限定的、ただ言われたことに逆らうという力だ。


「っぐぁ⁉」


 身体は阿修羅の言霊に逆らって動いた。しかし完全にかき消せるわけではない。


 無理矢理身体を動かした反動で、土御門の口から大量の血が零れ落ち、HPバーが一気に削れる。


 それでも動く。


 八。


 全身の筋肉と血管が全てはち切れそうだ。もはや意識と魔力だけが、身体を動かす。


 土御門はぶつかるようにして、阿修羅の腹に殺生丸を突き立てた。


 九。


 ゴッ、と地面に落ちて転がる。もはやまともに受け身を取る力も残っていなかった。


「‥‥」


 阿修羅が静かに土御門を見下ろしていた。HPバーはまるで減らず、傷ついている様子もない。


(九尾の呪いといえど、神に効かなかったか‥‥)


「哀しい、苦しい」

「無駄、無謀‼」

「よくあがいた。しかし無意味だった」


 阿修羅はそう言いながら、剣を土御門の首筋へと当てた。


 だがその剣がそれ以上動くことはなかった。


 阿修羅の腹に刺さったままの殺生丸が、真っ赤に染まり、形を失ったのだ。


 初めは一筋の血が伝うような違和感。それは瞬く間に膨れ上がった。


「これは――」


 阿修羅が殺生丸を引き抜こうと手を伸ばした時、それを止めるものがあった。


 一本の赤い尾が、阿修羅の腹から伸びて腕を掴んでいた。それだけではない。さらに複数の尾が伸び、六本の腕を全て捕らえる。


「人の子よ、何をした‼」


 叫ぶ阿修羅の身体を、さらに三本の尾が縛る。


 土御門とて殺生丸をここまで使ったことは一度もない。彼女が神を相手にどうするかまでは、分からない。


 しかし変化はすぐに訪れた。


 九尾の尾が阿修羅を縛り付けたまま、膨張し始めたのだ。まるでその肉体からあらゆるものをしぼり取るかのように、脈動する。


 変化はそれだけではなかった。


 阿修羅のHPバーが、明らかに減り始めたのだ。


「ぬぅぁああああああああああ‼」


 叫びと共に凄まじい圧が阿修羅から放たれるが、そのことごとくを九尾は逃さず食らう。


 男の全てを利用し、我が物とする妖女の呪い。


 あの神が苦悶くもんの声を上げ、消耗している。


 戦いが存在意義の彼にとって、戦いとは別の方向性で殺しに来る存在は未知の領域だろう。


「そうか呪いか。それも女の呪いだ」


 阿修羅が力を抜き、そう言った。彼もまた娘をきっかけに帝釈天と争い、修羅へと堕ちた神だ。女という存在がこの神にとっていかなるものかまでは分からない。聞いたところで、土御門に理解できるようなものでもないだろう。


 阿修羅のHPバーはそうしている今も減り続ける。


 男性神であるが故に、九尾の呪いからは逃れられない。


「人の子よ、称賛しょうさんをくれてやろう。人の身でありながらここまでカミを追い詰める者は他にいない」

「‥‥まるで、ここからどうにかできるとでも言いたげだね」

「口惜しいことに、このままではどうにもできぬ。しゃくではあるが、肉を断つ他あるまい」


 肉を断つだと? 


 土御門は何を言っているのか分からなかった。


 呪いは既に阿修羅の肉体を完全に侵しきっている。もはや何を切り捨てたところで、どうにもならないはずだ。


 阿修羅が笑みを浮かべた。


「人の子、カミたる我が身が、何と戦っていたか忘れたか?」


 何を言って――。


 そこまで考え、土御門はある考えに至った。


 もしもそれが可能だとしたら、ここにいてはまずい。


「――まさか」


 土御門は重い身体を引きずって、阿修羅から遠ざかろうとする。


 阿修羅は本来正義を司る神だ。それが修羅へと堕ちたのは、娘を巡って帝釈天たいしゃくてんと争い、戦いに憑りつかれたからだ。


 故にその身に受けている。刻まれている。


 帝釈天――すなわちインドラが持つ最強の一撃。


 雷神の放つ金剛杵ヴァジュラの雷電を。


「哀しい! 嫌だ‼」

「屈辱‼ 止めよ‼」


 左右の二面が叫ぶ。それは阿修羅の心の葛藤かっとうそのものだ。


 それでも正面は戦いの勝利を選んだ。


「この身をくがよい、いかづちよ」


 刹那、世界を焼き尽くす雷光が阿修羅の身から発せられた。それは帝釈天から最古に受けた雷の呪いだ。


 九尾からつんざくような悲鳴があがり、それすらも光の中に飲まれて消える。


 土御門は余波を受けてボールのように転がった。


「はぁぁぁ――」


 真っ白な視界が徐々に光を取り戻していくと、そこには煙をまとった阿修羅が立っていた。


 HPバーは、五分の一ほどだけだが、残っている。


 なんて神だ。


 己に巣食う呪いを、帝釈天の雷で全て焼き尽くした。勝利のために、宿敵の攻撃を利用したのだ。


 これが神か。


 こんなにもいさぎよく、こんなにも美しいものか。


 阿修羅が歩いてくる。


「驚きと感動をもって、その首をねよう」


 神が屈辱に己の身を削り、土御門の前に立っている。


 ここまでされて、寝ていられるわけがない。


「‥‥まだだ。僕はまだ全てを出せていない」


 土御門は立ち上がった。殺生丸を握っていた右腕はもう使い物にならない。魔力は尽きかけ、立っていることさえも不思議な有様だ。


 それでも倒れない。神を真正面からにらみつけ、その瞳に爛々らんらんと光をともす。


 そのじつ、土御門は既に阿修羅を見ていなかった。


 今見た何もかもが鮮烈に輝き、脳裏で散った。


 彼は知らず、導かれることもなく、そこに足を踏み入れる。


 魔術の深奥、果て無き自己の探求。


 この土壇場どたんばで、土御門晴凛は最強の魔術師だけが到達する場所へ立った。




 すなわち、沁霊へと至ったのである。




「ははははは」


 これが今まで見てきた世界だろうか。見え方が違う。色が違う。肌触りが、香りが、味が、音が、何もかもが自分の知るそれとは異なる。


 知っているか、知らないか。


 気付くか、気付かないか。


 地球の魔術師では到達できないと思っていた場所は、すぐ隣にあった。


 土御門はゆっくりと左手を持ち上げた。そして人差し指で阿修羅を指さす。


 自身の内に眠る魔力の塊に、イメージが浮かび上がった。


 神の死と、新たな時代の幕開けを示す象徴。


「沁霊術式――解放」


 それをあるがままに、えがく。




「『天叢雲剣あまのむらくものつるぎ』」




 光のつるぎが、空ごと阿修羅を両断した。


 その瞬間、ありとあらゆる音が消え、煙さえも動きを止めた。ただHPバーだけが、明確に消え、戦いの終わりを示していた。


 悪神、八岐大蛇ヤマタノオロチの死から生まれた剣。


 疑似的に再現されたその一閃は、所有者の障害となる全てを斬り捨てた。


「――人の子、名を何と言う?」


 阿修羅がゆっくりと問うた。


「土御門、晴凛」

「そうか、覚えておこう」


 その言葉を最後に、阿修羅は光の奔流となって空に消えていった。


 もしもこれが領域の中でなければ、神話となって語られたであろう一幕に、土御門晴凛は勝者として立った。


 それがこの場における、唯一の真実だった。

 

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