第25話 英雄とは

「くく、くっはははははははははははははははあははははははははっははははははははははははははははははっはははははははははははははははははははははははあははははははははっははははははははははははははははははっははははははは!!!!!」


 浸千の纏う水が流動する音すらもかき消して、フレイムの笑い声が夜の街に響き渡った。


 腹を抱え、所々で呼吸すら怪しくなる程に、フレイムは対魔官たちの目の前で笑っていた。それは月子に「人間ではなかったのか」と言われた時の比ではない。


「‥‥」

「‥‥」


 月子も綾香も、そして他の対魔官たちも、気でも狂ったように笑うフレイムを前に、思わず得物を握り直す。


 得体のしれない恐怖が、その時全員の心臓を鷲掴みにしていた。


 幾度もの死線を潜り抜けてきた彼らだからこそ、感じ取った危機感。だが、それでもその認識はまだ甘かった。彼女たちは知らないのだから仕方ない。知らないのだから、どうしようもない。


 そもそも第二次神魔大戦とは、本来世界そのものを二分する戦いを、選抜した者だけで行うものである。


 つまりこの世界に送られてくる戦士は、魔術師は、単体で戦争が行える、まさしく一騎当千の英雄だけなのだ。


 フレイムと呼ばれているこの魔族、ジルザック・ルイードもまた、比類なき魔術師である。世界の広さ故に第一次神魔大戦の時は、勇者と直接相まみえることはなかったが、多くの戦場を渡り歩いてきた歴戦の戦士だ。


 いくら経験豊富な対魔官たちであっても、重ねてきた戦いの厚みが違い過ぎる。


 笑い終え、一度深く息を吸ったフレイムは垂れ下がった前髪をかき上げた。


「ふむ、しかし甘く見過ぎていたことは事実だ。どうやらこの世界でも、魔術の深奥へと触れた者たちが過去にはいたらしい。‥‥とはいえ、その火を継ぐ者たちがこれでは浮かばれないだろうがな」

「言ってくれるじゃないっ‥‥!」


 綾香は身体の底から湧き起る震えを捩じ伏せるように、フレイムを睨み付けた。


「‥‥」


 月子もまた、魔力を高めて金雷槍を構え直す。


 逆水分ノ陣はまだ維持できる。そしてそれは浸千がまだ使えるということだ。月子の魔力にもまだ余裕がある。フレイムがどれ程の余裕を見せようと、有利なのは月子たちで間違いない。


 だがそれは、あくまで地球の魔術師が持つ尺度だ。


「さて、こんなところで無駄な力を使うなんて馬鹿なことだが、――そうさシシー。鍵を探すためには面倒事は少ない方がいい」


 フレイムは呟きながら、ゆっくりと右手を上に掲げる。


「だから、少しばかり本気を出そう」


 それと同時、フレイムの身体から膨大な魔力が流れ始めた。本来物理的な影響力を持たないはずの魔力の奔流に、フレイムの外套がはためき、義眼がより忙しなく回り始める。


 呆気に取られる月子たちの目の前で、突如地面に炎の線が幾本も走った。


 それは瞬く間にフレイムを中心にして複雑な模様を描き始める。


「‥‥っ!? こんのっ!」


 その正体に気付いた綾香が、叫び浸千を振るう。


 だが濁流の鎖は、吹きあがった炎と衝突し、弾かれた。


 より正確には、浸千の周囲で渦を巻いていた水が炎と対消滅し、鎖本体が吹き飛ばされたのだ。


 明らかに、これまでの炎とは一線を画す熱量。


 その火の向こう側で、鮮やかな閃光が幾重にも重なり、美しささえ感じる幾何学模様が浮かび上がる。


 たとえ魔術師でなくとも、それがなんなのか察しがつくに違いない。


「まさか、魔法陣!?」


 綾香に一歩遅れて、フレイムの真意に気付いた月子が叫ぶ。魔術領域が魔術の効果を高めるためのものだとすれば、魔法陣とは魔術の行使そのものに使われることが多い。人の頭だけでは処理し切れない情報を、明確な形にすることで外部で肩代わりさせる。


 魔術師のエキスパートである月子が気付くのに時間がかかったのも無理はない。


 何故なら、フレイムを中心に展開された陣は、大凡月子の知る魔法陣とはかけ離れた大きさだったのだ。



 あまりにも、巨大。



 そもそも魔法陣とは術者のキャパシティーを超えた部分をカバーするためのものであり、入念な計算の上、丁寧に描く必要がある。少なくとも、戦闘の最中に作るようなものではない。


 にも関わらず、フレイムはそんな常識など知ったことかとばかりに複雑な魔法陣を精緻な操作で広げ続け、そこへ膨大な魔力が流れ出す。


 この場に居る全ての対魔官たちの魔力を合わせても、到底届かない絶対的な魔力量。


 月子は金雷槍を構えたまま、無意識の内に身体を震わせていた。




 目の前の存在は、なんだ? 




 フレイムのこれまでの言動は、まるで自分が人ではないかのような言い様だった。もしもそれが事実だったとして、月子はこれ程巧みに魔術を操る怪異など見たことがない。


 なにか、とてつもない勘違いをしているのではないだろうか。自分たちは今、蛇の尾だと思ったまま竜の尾を踏んでしまったのではないか。


 こめかみから流れた汗が、顎を伝ってぽたりと落ちていく。


 赤の向こう側で、朗々とした声が響き渡った。



「あらゆる物の行きつく先へ、赤よ進め。我ら以外の色は許されぬ。染め上げ、焼き尽くし、後に残すは白のみよ。我が軍勢に夜の王さえ背を向ける。灰より生まれしものはない、栄光も繁栄も夢に変え、不条理の旗を掲げよう」



 声に合わせ、魔法陣が一層強い光を放った。


 そこから伸び上がる、火、火、火。


 天を舐め尽くす程に立ち上った劫火は、まるで生物のように美しく、不気味に流動する。


 最後の一節が、唱えられた。



蹂躙じゅうりんの時は来た。ときの声を上げよ――『赤の軍勢アスピタ・ヘイライン』」



 全ての炎が、収束し、新たな本質と共に形を得た。


 そこに現れた光景を見て、今度こそ対魔官たちは全員が完全に声を失った。


「――!」

「っ‥‥!?」


 唖然と口を開ける者、現状を理解し、歯を食いしばる者。数人の対魔官たちは、まるで夢を見ているかのように、脱力した手から魔道銃を落した。


 獰猛な輝きが、夜の街を照らしあげる。


 対魔官たちの目の前に現れたのは、まさしく軍勢であった。


 槍や剣を構えた人型の戦士たちが整然と地上を埋め尽くし、その中には大鬼や蜥蜴人の姿も何百と見られる。その後方に居るのは、大鬼など比べものにもならない、さながら戦車を何台も積み上げた巨体を持つ鰐のような怪物。


 絶望は、それだけに留まらなかった。


 真昼の如き明るさに空を見上げれば、そこには空を埋め尽くさんばかりに火の粉が乱舞する。


 飛竜に乗った騎士、大鷲、カリュルーネ。そして何なのかさえ分からない化け物たち。


「は、ははは、冗談だろ‥‥」


 銃を取り落とした男が、乾いた声を漏らした。


 それはこの場に居る全ての対魔官たちにとって、共通の思いだっただろう。


 見える範囲の街並み全てを覆い尽くす軍の威容は、たった十数人の対魔官たちが立ち向かうには、あまりに惨い現実だった。


「――聞け、人族よ」


 そんな彼らに、声が降ってきた。


 その声の主は、一頭の竜に跨り、月子たちを睥睨する男。目前の絶望を瞬時に作り上げて見せた尋常ならざる者。


「この私に『赤の軍勢』を使わせた以上、貴様らは明確な敵だ。故に名乗らず戦う道理はない。我が名はジルザック・ルイード。ルイード家八十七代目当主にして、『アサス』の称号を持つ者である」


 それはもはや戦の名乗りではなかった。


 これから命を刈り取る処刑執行の号令。


 フレイムは確かに月子たちを敵だと言った。その意味するところはつまり、もはや彼が対魔官たちを見逃すことはない。


 魔族の中でも限られた者だけが継承することを許される称号、『燼』に懸けて、殲滅するという宣誓だ。


「さあ、名乗りたまえ。このジルザック・ルイードに敵として認められた、その栄光を持って死に行く者の名を」


 フレイムは悠然と問う。


 これまで蠢き続けていた義眼すらも、静かに月子たちを見据えていた。


 もはや、月子たちに勝ち目はない。


 対魔特戦部の人間たちは既にこの異常を掴んではいるだろう。だが、救援は絶望的だ。何故なら、このフレイムに勝ち得る存在はもはや第一位階の魔術師の他いない。そして、政府は正体不明の脅威に対し、決して第一位階をぶつけたりはしない。もしその魔術師を失ってしまえば、国にとっては大きすぎる損失だからだ。


 月子たちは、ここで死ぬ。


 情報を集めるために、ここでフレイムの全貌を明らかにし、第一位階が確実にフレイムを殺せる状況を作るために、大いなる人柱となるのだ。


「‥‥」


 月子は、震える手で強引に金雷槍を掴んで、一歩を踏み出した。将来的には第一位階にさえ届くと言われた神童も、フレイムを前にしてはか弱い乙女同然だ。


 死ぬのが怖くないわけじゃない。


 普通の生活に憧れて、当たり前の恋愛を夢見て、平穏な生活を送りたくて、ままならない現実に歯を食いしばりながら生きてきた。


 綾香は月子に言った。自分の人生は自分で決めろと。


 この戦いが終わったら、自分の選択を貫く覚悟を持つことが出来たら、また彼と、一緒に笑い合える日々が来る。そんな儚い夢想は、今消えゆこうとしている。


 それでも、月子は気丈に天を見上げた。たとえ大事な人を傷つけたまま終わろうと、二度とその声を聞けなくとも、あの肌の温もりを手放しても。


「伊澄‥‥」


 このフレイムを野放しにすれば、いずれ取り返しのつかないことになるかもしれない。その時、月子の好きなあの人が、巻き込まれないと、誰が保証してくれるのか。


 ならば、ここで死ぬことになったとしても、それによってフレイムを誰かが倒してくれるなら、その死には意味がある。大事な人を失うのは、自分が死ぬよりずっと恐ろしい。




「伊澄月子!! 人類の守護者を舐めるな!」



 瞬間、フレイムは歯茎を見せて笑った。



「その意気だ、あまり失望させないでくれよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る