第307話 陽向紫の苦悩

     ◇   ◇   ◇




 なんやかんやあって、全員で朝食を食べた後、陽向紫は自室としてあてがわれた部屋で、枕に顔をうずめていた。


 ちなみにこの部屋は元々シャーラが住んでいた部屋で、彼女は今月子と同じ部屋で暮らしている。


 陽向が家に住むとなった時、真っ先に部屋を出ていくことを望んだのがシャーラだった。無論、移住先は勇輔の部屋である。


 そんな要望が認められることはなく、現在の形に落ち着いたのだ。


 元々シャーラは私物らしい私物をほとんど持っていなかったので、引っ越し自体はすぐに終わった。


 今は対魔官が実家から持ってきた陽向の私物が至る所に置かれていた。


「最悪、最悪最悪最悪!」


 枕に顔をうずめたまま、陽向は叫ぶ。


 思い出すのは、勇輔が帰ってきてからの一幕だった。


 自分の身体を押し付けながら引っ張り合うなんて、あり得ない。


 そんな恋愛に頭を支配されるような生き方はこれまでしたことがなかったし、するつもりもなかった。


 そもそも勇輔たちがランニングに行く前だってひと悶着あったのだ。


「そうね、あの女は最悪よ」


 陽向一人しかいないはずの部屋に、もう一人の声が聞こえた。


「‥‥」


 枕から顔を上げると、椅子に一人の少女が腰かけている。


 可愛らしい少女だった。桜色の髪に涙ぼくろが特徴的で、将来は確実に美人になるのだろうという顔の整い方をしている。


「ノワ、私が最悪って言ってるのは、あなたの方だからね‥‥」


 少女――ノワール・トアレは鼻をふん、と鳴らした。


「私のやり方は悪くないわ。あそこで退いたら負けるわよ」


 悪びれない言い草に、陽向はため息を吐いた。


 ノワール・トアレの肉体は既に存在しない。今見えているのはリアルなイメージのようなもので、陽向にしか見えていないし、声も聞こえないらしかった。


「別に、競ってるわけじゃないし」

「何を甘いことを言っているのよユカリ。恋は戦争よ。待っているだけじゃ何も得られないの」

「そんなちっちゃい姿で言われても‥‥」


 ノワの今の姿は、どう見ても十歳前後だ。恋について語ったところで、少女が背伸びをしているようにしか見えない。


「ふん、そうやって待つことを選んだ挙句、再会もできずに死んだ女がここにいるわ」

「‥‥それを言われると重いんだけど」


 陽向はノワと同化することで、大体の記憶を共有している。彼女が昔は勇輔と対立していたことも、その末に恋をし、非業の運命を辿ったことも。


「それ自体は別にいいの。彼に恋した瞬間から、魔族としてのノワは死んだようなものだったしね」


 ノワは軽く言うが、ついこの間まで普通の女子大生をしていた陽向からすると、頷きづらい。


 だから陽向は無言で答えた。


「とにかく、持てる武器は全部使って、押しに押しなさい。あれは優しいから、押しにはとことん弱いタイプよ」

「そう言ったって、私もそんなに経験あるわけじゃないし」

「ユカリだって、負けたくないから頑張っているんでしょ。認めたくはないけど、敵は強いわよ」

「それは‥‥」


 そんなことはよく分かっている。この家にいるだけでも、リーシャ、カナミ、月子、シャーラと魅力的な女性がそろっている。


 大学の男子たちがこの家の実情を知れば、血涙を流して勇輔に殴りかかることだろう。


 それに加えて、ノワが言うにはエリスという最強最悪の相手までいるらしい。


 陽向からすれば、月子こそが最強のライバルなのだが、それを超えるかもしれない相手なんて、考えたくもない。


 陽向が黙り込んでしまうと、ノワが相好そうごうくずした。


「そんなに難しく考えなくても平気よ。今日の夜にでも押し倒しに行くわ」


 そうぶっ飛んだ発言を放った。


「行かないわよ!」

「どうして? いろいろ考えたけど、結局それが一番早いわ。責任をちらつかせればユースケは逃げないわ」

「そんななし崩しみたいなやり方‥‥」

「あなた、その年で何を童女みたいなこと言ってるのよ。焦った方がいいわよ」

「私、まだ十九歳なんだけど」

「十分行き遅れじゃない」

「いきっ‥‥⁉」


 陽向はひどい罵倒に言葉を失った。


 華の女子大生。十九歳の未婚は現代日本では当たり前だが、アステリスでは行き遅れ扱いである。


 ちなみに純粋な年齢で言えばノワの方が圧倒的に上だが、その事実は華麗に棚上げした。


 陽向は人生で一番の屈辱に震えながら、ささやかに言い返した。


「この、ロリババアッ」

「ッ――‼」


 直後、ノワが宙を舞った。


 鮮やかなジャンプで陽向へと跳びかかると、ほどよい大きさの胸を両手で鷲掴わしづかみにし、そのまま全力で揉みしだく。


「なぁっ⁉ 何するの⁉」

「ふぅん、そこまで大きくはないけど、形はいいわね」


 ただのイメージのはずなのに、陽向の胸にはきちんと触れられている感触がある。


 振りほどこうにも、びくともしない。


「いきなり人の胸揉んで、失礼すぎるでしょ!」

「自分の身体を触っているだけだから、いいじゃない」

「私の、私の身体だから!」


 ひとしきり陽向の胸を揉んだ後、ノワは神妙な顔で頷いた。


「うーん、押しつければなんとか行けそうだけど、戦うには、若干戦闘力おおきさが足りないわね」

「はぁ、はぁ‥‥」


 陽向はもう言い返すこともできない。


 自分のプロポーションにはささやかながら自信があったが、リーシャやカナミのようなとんでもスタイルを相手にしては、勝ち目がない。胸の大きさで確実に勝てるのは、月子くらいだろう。


「でも安心して。私の『愛せよ乙女メルヘンマイン』があれば、身体はどうにかなるから」

「どうにかなるって、どういうこと」


 そう聞くと、ノワが床に立ち上がり、次の瞬間にはまったくの別人へと姿を変えていた。


 別人、というと語弊ごへいがあるかもしれない。


 彼女はまちがいなく小さなノワの面影は残していた。しかしその姿は妖艶な美女そのものである。


 プロポーションはリーシャにも引けを取らず、アンニュイな表情は可愛らしさと色気が同居し、目を離せない。


「見ての通り、私の魔術なら理想の肉体へと成長することができます。骨格から変えるのは難しいですが、多少の変化ならどうとでもなりますよ」


 ノワは長くなった髪を後ろに払いながらそう言った。


 ノワール・トアレはある意味で最も魔術師らしい魔術師だ。我儘で、身勝手で、恋のためならばどんなことでもできてしまう。


 故に普段は童女の姿を取ることで、本能を抑え込んでいるのだ。


「‥‥」


 陽向はノワと同じ体型になった自分を想像してみた。


「‥‥やっぱり、大事なのってバランスじゃない?」

「そうですか? まあユースケが巨乳好きと決まったわけではありませんし、とりあえずこの後の訓練でさりげなく押し倒して様子を見ましょうか」

「そんな簡単に言われても」


 それができたら、月子と別れた時点で勇輔と付き合えていただろう。


 しかしそこまでしなければ勝てないライバルだらけなのも事実。


 告白までしたのだ。


 ただの後輩からは一歩抜け出したと考えていいだろうが、そこからどうなるかは自分次第。


 その告白一発が相当な威力だったことには気付かず、陽向は自分の武器は何だろうかと考えをめぐらせた。

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