第249話 深夜の来訪者

     ◇   ◇   ◇




 カチカチと、手の中で苛立ちを表すように音が鳴った。


 実家から帰ってきて、幾度となく繰り返してきた動作を、意味がないと諦めつつ行う。


 知恵の輪を一度でもやったことがある人なら分かるだろう。先に続かないと知りながら、そこに何かがあるのではないかと同じ動きをしてしまう。


 月子もまさにその状況だった。


 から天涯てんがいから渡された知恵の輪は、物理的な接触によって魔力を流せる路が切り替わる。指先に集中しながら、魔力も制御し続けなければならない。


 ガリガリと精神力が削れていくのを感じながら、月子は輪を動かした。


 そしてどれ程が経っただろうか。知恵の輪を元に戻し、月子は机の上に投げ出した。


「――!」


 じくじくとこめかみが痛み、全身を倦怠感が襲う。


 想像以上に集中していたらしく、家の中は静寂に包まれていた。勇輔もリーシャたちも眠ってしまったのだろう。時計の短針は一を指していた。


 実家から戻って数日。勇輔が四辻千里と新世界トライオーダーを探りに行くのも目前に迫っていた。


 強くなるためと思いながら日夜修練に取り組んでいた月子だったが、早くも壁にぶつかっていた。


 輪は、途中までは解ける。しかしその後が鬼門だ。正解の道筋は見つかっているが、手で動かしながら魔力を流すのが至難の業だった。


 焦燥感が身を焼く。


 彼はまたしても戦いの場に出るというのに、自分はまた何もせず時間を浪費するだけ。


 彼の支えになると約束したはずなのに。


「駄目ね」


 月子は頭を横に振って立ち上がった。これ以上考えたところで、思考はネガティブな方向に流れるばかりだ。


 一度水でも飲んで、また明日続けよう。


 そう思いドアノブに手をかけたところで、ノブが勝手に回った。


「っ⁉」


 即座に後ろに跳びながら臨戦態勢を取る。


 金雷槍はすぐ取れる位置にある。もしも入ってきたのが敵だったとしたら、一突きで吹き飛ばす。


 そう覚悟してドアを睨みつけていると、侵入者はなんの緊張感もなく入ってきた。


「こんばんは」

「あ、シャーラさん‥‥?」


 部屋に入ってきたのは、ルームシェアをしているシャーラだった。


 勇輔以外に対しては、自分からコミュニケーションを取ろうとしない女性だ。一緒に暮らしていても、喋ったことはほとんどない。勇輔と共に世界を旅した仲間の一人ということで、話してみたいという思いはありつつ、実現する素振りは今のところなかった。


 そんな彼女が何故、この時間に?


 ノックをせずに入ってきたのはもはや驚かない。


 シャーラにその手の常識だとかマナーだとかを求める方が間違っているということは、共同生活で嫌というほど理解している。


 それが許されてしまうのは、浮世離れした美しさ故だろう。リーシャもそうだが、彼女たちの存在感は次元が違う。


 そう思う月子もまた、別のベクトルで突出した少女なのだが、それを指摘できる綾香は今日も残業中だった。


「あの、何か御用でしょうか?」


 どんな言葉遣いで話せばいいか、未だ分からず、一緒に暮らしているとは思えない程他人行儀な言葉が出た。


 こういう時は、すぐさま距離を詰められる綾香が羨ましい。


「‥‥」


 シャーラは無言で机の上に置かれた知恵の輪を見ていた。


 本当に何をしにきたのか分からない。


「これ――強くなりたいの?」


 突然言われた言葉の意味を考え、月子は頷いた。その通りだ、強くなるためにやっている。


 シャーラは知恵の輪を手に取り、軽く揺らす。


 そして首を横に振った。


「駄目。こんなものじゃ強くはなれない」

「‥‥駄目って、どういうことですか」


 即答された月子は、困惑と苛立ちを抑えて聞いた。あの元第一位階、伊澄天涯てんがいがお墨付きと共に渡してきたものだ。効果がないはずがない。


 しかし同時に、月子の中には本当にこれで強くなれるのかという疑問もあった。


 そこを突かれて、動揺したのだ。


 シャーラは真っ直ぐに月子の目を見据えた。


「私は今魔術が使えない。勇輔と一緒に戦うには、力不足」

「そんなことは‥‥」

「事実。そして今の世界には勇輔と肩を並べて戦える者はほとんどいない」


 淡々と告げられた事実に、月子は肯定も否定もできなかった。


 きっと彼女と自分とでは、見ているものが違う。見てきた勇輔が違う。


「あの次元に到達できる人間は、特別な才を持ち、たゆまぬ鍛錬を続け、運命に愛された者だけ。あの皇女様も努力はしている。けど、足りていない。並大抵の努力では、才能の差は埋まらない」


 彼女の言葉には飾りがなかった。全てが虚飾のない事実。カナミ自身に伝えないのは、シャーラなりの優しさなのか。


「どうして私にそんなことを」

「私が見た限り、勇輔の助けになれる可能性があるのは、あなただけだから」

「私、だけ」

「初めて見た時は驚いた。魔力操作に関してはエリスと同等の素質を感じる。でも、磨き方がなってない。そんなやり方じゃ、到底間に合わない」


 エリス。


 その名前は勇輔の話にも出てきた。きっと彼にとって一番大切だった人。彼は嘘を吐くのが下手だから、言葉の端々から勇輔が彼女をどう思っているのかが伝わってきた。


 あの驚異的な魔術を使用したシャーラが、手放しに褒める程の存在。自分にそれと同じくらいの素質があると言われても、簡単には認められなかった。


「私は勇輔のためにあなたを強くする」


 カラカラン、と軽い音が鳴った。それはシャーラが手で揺らしていた知恵の輪が、次々に解けて机の上に落ちる音だった。


 実際に触れていたからこそ分かる。それが途方もつかないことだということが。


「その気があるのなら、訓練場に来て。私、人に教える方法は一つしか知らないから」

「‥‥」


 月子は頷いた。


 強くなるために、これ以上の機会はない。実は勇輔にそれを頼もうと思った時もあった。しかしあらゆる重荷を背負う彼の時間を、強くなれる保証もない自分が奪うことに抵抗があった。


 その五分後、深夜の訓練場にはシャーラと月子の二人が立っていた。


 月子は訓練用の服に着替え、金雷槍きんらいそうを手にしている。


 対するシャーラは部屋に訪れた時の服のまま、訓練用のサーベルをぶら下げていた。


「あなたは何をしてもいい。真剣で、魔術も好きに使って、私を殺すつもりで来て」

「え、けれどシャーラさんは今‥‥」

「大丈夫」


 魔術が使えないというハンデを背負っているはずなのに、シャーラの言葉にためらいはなかった。


「今のあなたじゃ、傷一つつけられない」

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